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第5話

 台所の流しに手をつき、京也はため息をついた。  翔。その名前を口の中で味わう。  昨夜何とかここまで担いで連れてきたのはいいが、その後がひどかった。  暴れる翔からは際限なく京也を煽る匂いがあふれ出し、最終的に京也は台所に這いずるように逃げ出したのだ。手の甲はまだズキズキと痛み、固まりかけた血がどす黒く肌にこびりついている。  ひくん、ひくん、とのけぞる翔の体を思い出す。切ない喘ぎを迸らせながら、京也に抱きつき翔は腰を揺らしていた。  まだ18ぐらいだろう。制御を忘れた若い体は、京也の脳に直接誘惑をねじ込んできた。もしホテルに残していたら?  その想像にぞっとする。5人……もし自分まで引きずられていれば6人。輪姦されてうなじを噛まれていたらと思うと、翔を連れて逃げられたことが奇蹟のように思えてくる。  なぜ、あの時咄嗟に、あんな理性が働いたのだろう。  そんなことを考えていると、ポケットでスマホが震えだした。  このタイミング。嫌な予感しかしない。  矢島はどんな報復をしてくるだろう。  鈍い頭痛が残っていた。香炉から出ていた煙は相当危険だったに違いない。あれしか吸わなかった自分でさえこんなに残るのならば、翔はもっと辛いだろう。  重い気分でスマホを取り出しディスプレイを見ると、知らない番号が光っていた。  翔に聞こえないよう、台所の隅で壁に向く。 「はい」 「……東雲君かね?」  声の調子からすると、かなり年上。警察?  身構えた京也の気配に気づいたのかはわからない。電話の男は淡々と名乗った。 「すまない。私は矢島……孝志の父だ」  あぁ、と京也は思った。矢島の奴は思いの外ガキだったということか。パパに泣きつくとは、大人として最低だ。 「何でしょう」  探るように問うと、矢島の父は静かなまま、話を切り出した。 「そのぅ、息子が今朝方タクシーで帰ってきてね。様子がおかしいので病院に連れていったところ、何か薬物を摂取したようだというんだ。  緊急入院となったんだが……君がオメガを横取りしたとか何とか言っていて……事情を教えてもらえないだろうかと」  横取り。なるほどね、と京也は思った。俺が一人占めしたという発想か。  まぁ、実際横取りかも。  ふと思い浮んだ考えに、京也は苦笑いを浮かべた。  なぜあの時溺れずにすんだのか。その理由に思い至ったからだ。矢島を蹴散らすほどの執着心。もしかして翔が俺の――番?  たった一晩。しかし充分なのかもしれない。京也はすでに感じていた。翔を自分だけのものにしたい。  自分の部屋なのに、翔の匂いがあるだけで、見える景色が違うのだ。強烈に官能を呼び覚まされながら、同時に、生まれた時からその空間が用意されていたかのような安心感があった。  深呼吸をする。真実を言えばいい。それだけで自分は翔を守り切れる。 「……夕べ息子さんから呼び出されて、ハリエットホテルに行きました。行ったときにはすでに何か変な香が炊かれていて、息子さんたちはオメガをひとり輪姦する寸前だったんです」 『輪姦』という言葉を京也はわざと使った。電話の向こうで息を呑む気配がする。 「俺は咄嗟に、オメガを引っ張って逃げました。彼も薬にやられて、途中で吐いていました。意識をなくしたので、俺のアパートに連れてきて……今、隣の寝室で寝ています」  矢島の父は絶句していた。警察沙汰になるところだったのだ。それが普通の反応だろう。 「とりあえず、その子を病院に連れていけるか?」 「目が覚めたら連れていきます。そっちが緊急入院ということは、彼も心配だ」 「それで君は……」 「俺? あぁ、あまり吸わなかったので。でも夕べは一睡もできませんでした。暴れる彼を押さえながら、こっちは(つが)ってしまわないようにするのに必死で。自分の手を噛み続けて感覚がありません」  感嘆するような声が聞こえた。 「君は……何もしなかったと?」 「そうですね。薬物も強姦も、何もやましいことはありません」  矢島の父は、しばらく考えた末に結論を出したらしい。 「わかった。息子には後で事情を聞く。おそらく悪いのは息子だろう。私は……甘やかしすぎた。君にも申し訳ない。そのオメガの世話を頼めるだろうか。  後で息子を謝罪に行かせても?」  二度と御免だ。 「申し訳ありませんが、俺はお断りしますし、おそらく彼も……謝罪だろうと、会うのは嫌がるかと」 「まぁ、その辺りは後からゆっくり相談させてほしい。とりあえず病院へ、よろしく頼みたい」 「わかりました」  電話を切り、ほっと息をつく。意外に話がわかる父親でよかった。これで終わりではないだろうが、良い方向には向かいそうな気がする。  学費を出し温かく送り出してくれた父は、今病床にいる。改めて、矢島ごときに半年とはいえ流された自分に腹が立った。

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