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第7話「疑惑のチョコレートケーキ」

 あれは、だ。  ――しまった。  自分と目が合った時に、そんなモノローグが見えた。  家に帰りたくない。  そんな風に思ったのは、生まれて初めてかもしれない。特に桐人(きりと)と同棲するようになってからは、気恥ずかしさもあったが楽しみの方が遥かに勝っていた。毎日仕事が終わるのが待ち遠しくて仕方がなかった。  だから今日いつもより少し早めに上がれて、気分が良くて、桐人を迎えに行くことにした。  たまには外で一緒に食事をするのもいいな。  らしくないことは自覚しつつも、桜介(おうすけ)は驚く桐人の顔を想像するとウキウキした。だがその道中で見たのは、から出てくる桐人の姿だった。  桜介は、夜の街をあてもなくただブラブラと歩き回っていた。追いかけてくるかもと期待した影は、いっこうに見えない。その代わりに、ポケットのスマートフォンが定期的に震えていた。 『今どこ?』 『迎えに行く』 『桜介、頼むよ』  まるで懇願するような文面にチクリと胸が痛んだが、とても返信する気にはなれなかった。  このままどこか知らない街へ行ってしまおうか。  そんな非現実的な考えが浮かび、頭を振って払拭する。  今日は木曜日。明日も仕事がある。  こんな状況でも仕事のことを考えてしまうなんて、なんだか滑稽だ。張り詰めていた気が一気に削がれ、結局終電で帰ってきた。アパートを見上げると、窓から明かりが漏れている。  エレベーターの光る数字を見つめながら、桜介はふいに泣き出しそうになった。  謝られたらどうしよう。  ごめん。  そのひと言だけは聞きたくない。言い訳してほしい。どんなに馬鹿げていて、どんなに拙い言い訳だったとしても、謝られるよりずっといい。 「桜介……!」  迎えたのは、心からの安堵を顔全体で表現した桐人だった。  ずるい、と唇を噛む。完全に出鼻をくじかれた。  桐人の揺れる視線を受けながら、桜介は無言で靴を脱いだ。リビングに入ると、甘ったるいにおいが充満している。その正体は、すぐに知れた。 「はい、食べて」  目の前に出し出された焦げ茶色の塊を見下ろし、眉を寄せる。 「……焦げてる」 「あ……」  ――しまった。  今日二度目の、モノローグを見た。  桜介は、いつになく散らかったキッチンを見回した。カウンターの上で、タブレットの画面が光っている。表示されているサイトには、『切り出しにくい話題を穏便に話すコツ』とあった。『その一、まずは甘いもので空気を和らげよう!』とも。 「ごめん」  脈拍が乱れた。 「謝る、ってこと、は……」 「違う!この『ごめん』は、桜介を嫌な気持ちにさせたから。やましいことは何もない!」  チョコレートに(まみ)れた桐人の手が、桜介の頰を撫でる。嗅ぎなれたカカオの香りが、鼻腔をくすぐった。 「新商品の商談に行ってただけなんだ」 「でも、しまったって顔、した」 「そりゃ、絶対誤解されるって思ったから」 「これまで……は?」 「ないよ」 「一度、も?」 「一度も。商談ついでにどうですか、なんて誘われたことは何度もあったけど、一度も、なにも、してない。俺にはずっと桜介だけだったんだ」  桐人のまっすぐな言葉が、桜介の心臓の鼓動を落ち着かせる。 「それなら、こんなことしなくてもそう言ってくれればよかったのに……」  チョコレートの雨が降ったんじゃないか。  そう思わせるほどの茶色に濡れた哀れなキッチンを見やり、桜介は苦笑する。そもそもパティシエの自分を慰めるのに、チョコレートケーキを手作りしようと思うなんて。 「言葉だけじゃ信じてもらえないかもって不安で……ごめん」  こんな風に自信のない桐人を見るのは、初めてだった。  桜介はクスリと笑い、チョコに塗れた手を取る。茶色い名残を、舌先で辿った。桐人の瞳が、僅かな熱を帯び揺れる。 「桜介、ごめ……」 「もういいから。キス、して」  桐人はやっと桐人らしい笑みを浮かべ、桜介の薄い唇を吸った。  fin

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