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第8話「夏の思い出」

あの日も暑かった。 梅雨が明けじっとりと湿っていた空気が乾き、待ちに待った洗濯日和だと、母は顔を綻ばせていた。 だが、桜介(おうすけ)の表情は暗かった。 家を出たときから、自覚はあった。一気に強くなった日差しと気温に、身体がついていっていないのだ。ただ重かっただけの身体は徐々に熱を持ち、三時間目の体育の授業中、ついに桜介は倒れた。 「悠木(ゆうき)!」 視界が色を失う寸前に聞こえた声は、誰のものだったんだろう。 ふと浮上した意識の向こう側に、誰かの姿が見え隠れした。 必死にまぶたを押し上げようとするが、頭の奥がぐるぐると回転して、あまりの不快感に吐き気がこみ上げてくる。 喉の奥をチリチリと焼きながら湧き上がってくる苦味。 吐き出すまいとゴクリと飲み込むと、濡れたなにかがずっしりと目元を覆った。 ――冷たくて気持ちいい。 まぶたの裏のぐるぐるが、あっという間に霧散していく。 咄嗟に身体を起こそうとして、でもすぐに強い力に押し戻された。 「まだ寝てな」 控えめな低音が心地よく響いた。 「身体しんどいのに無理するから……」 不機嫌な声音とは裏腹に、頰に触れる熱は優しい。 ほんのりと暖かいそのなにかは、顔の膨らみをついと辿り、そのまま南下して桜介の唇を撫でた。 左から右へ、まるで味わうように、ゆっくりと。 「悠木……」 絞り出された名前は、言いようのない切なさに埋もれていた。 なぜ、そんな声で自分を呼ぶのか。 なぜ、こんなにも胸が痛むのか。 教えてほしい。 続きを聞かせてほしい。 そう思うのに、意識は遠のくばかり――… ――好きだよ、悠木。 「……!」 「あ、起きた?」 あの日と同じ低音が、心地よく響いた。 徐々にクリアになる視界の中心に、桐人(きりと)がいた。 「綾瀬(あやせ)……?」 呆然と紡がれた呼びかけに口の端を上げて応え、桐人は、桜介の汗ばんだ前髪を掻き上げる。 「まだ熱あるな。気分はどう?」 「俺……」 「帰ってくるなり倒れたんだぜ。身体しんどいのに無理するから」 どこか不機嫌な響きが、記憶の奥に残る声と重なる。 「綾瀬だったのか……?」 「桜介?」 「高一の夏、保健室で……」 そよ風にも吹き消されてしまいそうなくらい弱々しかったが、桐人は桜介の言葉をしっかりと拾った。 照れくさそうに頭を掻きながら、桜介の揺れる瞳を見下ろす。 「ずっと、誰だったんだろうって思ってた」 冷えたタオルの気持ち良さと、頰を辿る淡い熱。 そして、夢現つに聞いた愛の告白。 「綾瀬、だったんだな」 桜介の中に、名前の知らない感情が湧き上がってきた。 そしてそれは、透明な雫となってぽろりと溢れる。 あの日と同じように、桐人の指先がゆっくりと頰を辿った。 「ずっと桜介が好きだったって言ったろ」 淡い熱が、そっと唇を撫でる。 左から右へ、味わうように、ゆっくりと。 「好きだよ、桜介」 もう一度左から右へと動いた甘い熱は、やがて、優しい口づけに変わった。 fin

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