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第5話
◇◇
それから、どうしたのかよく覚えていない。
気が付けば、夜の街に一人で立っていた。
まるで、心にぽっかりと穴が空いてしまったかのように、侘しかった。
ふらふらと、当てもなく、街中を彷徨う。
夜のひんやりと冷えた空気が、心にまで吹き荒ぶ。
煌めくネオンも、お店の灯りも、行き交う人々も、薄暗く汚れ、濁っている。
不意に、視界がぼやけた。
心臓が、鷲掴みされているみたいに、激しく痛み始める。
ーー兄さんは、俺の全てだ。
その兄さんに嫌われるということは、ひいては俺の世界全てを否定されるということだ。
震える手で、ズボンのポケットに押し込んだ携帯電話を取り出し、佐武に電話を掛ける。
数回のコールの後、聞き慣れた穏やかな低音が耳をくすぐった。
『…湊?』
「あの、佐武。今、会えない?」
寂しくて、辛くて、やるせない。
靄が立ち込めているみたいに、世界が曖昧で、色褪せている。
「会いたいんだ。お願い、来てくれ。お願いだから…」
呼吸が、苦しい。
兄さんは、俺の色で、空気で、生きる意味だ。
兄さんがいないければ、俺はきっと、呼吸も出来ずに死んでしまう。
携帯電話からは、暫く何の音も流れて来なかった。
その間が嫌で、佐武、と呼びかける。
少し経って、携帯電話から静かに声が聞こえてくる。
『…ずっと、言おうと思ってて言えなかった』
「え、…?」
『ごめん。俺、湊とはもうそういう関係でいたくないんだ。終わりにしよう』
思いもかけない言葉に、心臓がどくんと跳ね上がった。
視界が揺れて、立っていられないほどの眩暈に襲われる。
「俺のこと、…嫌いに、なった…?」
やっとのことで絞り出した声は、掠れ、震えていた。
『…違う。むしろ、…好きだ』
「っじゃあ、どうして」
『…辛いんだ。どれだけ頑張っても、お前は俺を見てくれないから』
ーー言い返す事が、出来なかった。
事実、俺が見ていたのは佐武じゃない。佐武に重ね合わせた、兄さんだったから。
「…嫌だよ、捨てないで」
自分でも、都合のいい願いだと分かっていた。
けれどそれでも、求めずにはいられなかった。
魚が、水の中でしか生きられないように。自分も、兄さんなしではもう、生きられない。
例えそれが、紛い物だったとしても。
「お願いだ、佐武…」
『…お前の求めてるものは、俺じゃない』
携帯の向こうで、ふ、っと佐武の笑う音が聞こえた。
『…誰かと重ね合わせられるのはもう、ウンザリなんだよ』
ぶつりと切られた携帯が、手から滑り落ちる。
カツン、という音と共にアスファルトの地面にぶつかった携帯は、くるくると回りながら遠くへ弾き飛ばされていく。
ーーぽたりと、透明な雫が瞳から溢れて、服を滑った。
神様は、残酷だ。
兄弟じゃなければ、好きになってもこんなに苦しい想いをしなくて済んだのに。
もしかしたら兄さんは、俺を見てくれたかもしれないのに。
何度か、諦めようとした。
この想いをなかったことにしようとした。
わざわざ遠い大学を選んで、一人暮らしを始めたことも。
溺れるように、佐武とセックスしていたことも。
全ては、兄さんを忘れる為にしたことだった。
けれど全部、無意味だったのだ。
だって俺の時計は、あの時から止まっているんじゃない。
ーー壊れてしまっていたのだから。
直すことの出来ないくらい、ばらばらに。
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