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第4話
◇◇
兄さんが来るまでは、とてつもなく長い時間に感じられた。
ようやくインターホンが鳴ったのは、空が橙と黒を混ぜたような色合いになったときだった。
弾かれるように立ち上がり、ドアに駆け寄る。
スコープ越しに待ち侘びた人の姿を視界に捉え、とくんと胸が高鳴った。
はやる気持ちを抑えて、努めて平静を装いながら、来客を迎え入れる。
「…兄さん」
「湊。久しぶり」
ふわりと、嗅ぎ慣れた柑橘系の香水が香る。
耳を撫でる声に、泣きそうになった。
兄さんは微笑んで、飲み物買ってきたよ、と右手に下げた袋を持ち上げて見せた。
「あがって、兄さん」
コートをかけて、テーブルの前に胡座をかいて座るなり、元気にしてたか、と兄さんは聞いた。
「…うん」
ーー兄さんがいない生活の中で、元気なんて出るわけない。だって兄さんは、俺の全てだから。
喉の奥から上がって来ようとする本心を無理矢理戻して、頷く。
兄さんはそうか、と言って笑むと、足下のビニール袋から1リットルのコーラのペットボトルを取り出した。
そのボトルを手で持つと、テーブルの上に置いてあるガラスのコップ二つに、注ぎ始める。
「…で、どう。大学生活は。慣れたか?」
とぷとぷと揺れながら、黒に近い茶色の液体は、透明なグラスを満たしてゆく。
「まあね。…それなりにやってるよ」
「それは良かった。お前、少し排他的なところあるからさ、心配だったんだ」
兄さんはコーラを注ぎ終わると、乾杯しようか、と黒くなったグラスを右手で持ち上げた。
「遅くなったけど、合格おめでとう。…乾杯」
ちりん、と二つのグラスがぶつかって、音を立てた。
兄さんは微笑んで、グラスを唇に当て、一気にぐいっと煽った。
『…好きだよ、兄さん』
十五歳の日、兄に告白した。
兄は一瞬驚いて、けれどすぐに笑顔を浮かべて、冗談だろ、と言った。
本当なんだ、そう言おうとした俺を遮って、兄は『俺も、湊のこと好きだよ』と冗談めかして微笑んだ。
ーーあの日以来、兄の俺に対する態度は変わった。
俺に対して、距離を取るようになったのだ。
物理的ではなく、精神的に。
湊、そう言って俺を呼ぶ兄さんは、まるであの日のことなど無かったかのように、俺に接してくる。
「あ、…っ」
グラスが、手から滑り落ちた。
手を離れたグラスが、重力によって加速し、勢いよくテーブルに叩きつけられる。
パリンという音とともに、中の液体とガラスの破片が、床に散らばった。
「っ、…!」
兄さんの唇から、小さく声が零れ落ちる。
顔を上げると、その顔がぐっと顰められているのが視界に入った。
「ッ、兄さん⁉︎」
慌てて兄さんに駆け寄る。
白い指の先に赤い血がぷっくりと浮かんでいるのが見えて、心臓が止まりそうになる。
躊躇いなど、なかった。兄さんの手を取り、血の浮かんだ部分に唇を寄せ、赤い雫を舐めとる。
「…っ!」
舌の感触に驚いたのか、兄さんは手を引っ込めた。
何してる、そう言い掛けた兄さんと、視線が交錯する。
大きな色素の薄い瞳は、吸い込まれそうになるほど、美しい。
「……変、だよ、…お前」
こちらを見つめるガラス玉のような瞳が、惑うように揺れる。
「俺たち、…兄弟、だろう…」
「…だから、何?」
はっと息を呑んだ兄さんの手に、ちゅっと、軽く口付けた。
「…兄弟なのに恋愛感情を抱くのは、おかしいって言いたいの」
「……だって、おかしいだろ」
兄の声が、震える。
「…俺は、男で…それに、兄なのに……恋愛感情とか、訳が分からない」
「俺だって、よく分からないよ。でも、好きなんだ。兄さんが。どうしようもなく」
どうしてこんなに好きになったのか、分からない。
でも、そんなのどうでもいいことだ。
俺が兄さんを好きだという事実には、変わらないのだから。
「傷、手当てするよ。…ちょっと待ってて」
「っ、いらない…!」
ばち、っと手を弾かれた。
呆然とする俺の前で、今日は帰る、と兄さんはコートを手に取り、黒いリュックを背負って、逃げるように玄関へと駆けて行く。
「……待って、兄さん…!」
靴を履き、ドアに手をかけた兄さんの背中に、手を伸ばした。指先が、コートに触れる。
弾かれたように、兄さんが振り返った。
引き攣った表情。恐怖を色濃く滲ませた瞳。
ーー世界が、途端に色を失っていく。
「やめてくれ、…気持ち悪い」
兄さんは俺の手を払うと、眉を潜めて、吐き捨てるようにそう言った。
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