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第3話 夜は果てしなく、君は遠く輝く光③

 本当にビックリしたらしく、小山田はしばらく止まったまま、俺を見つめていた。  人もまばらな朝の電車は、ゆっくりと停車して、乗車客を二、三人迎え入れて、また静かに走り出す。  窓の外には流れていく夏の緑、家の屋根やマンション。 「あっ!」  小山田は雄弁な瞳をくるりと回して、何か思いついたように、その端正な顔を俺の前へと覗かせた。  距離が近くて、思わず固まってしまう。小山田は誰とでも距離が近い気がする。 「身体の都合、とか?だからプールいつも休んでた?だったら、さっき軽々しく言って、ごめん」  さらりと頭を下げられて、ひどく真面目な顔で俺を真正面から見ている。  その邪気のない表情が、どこか後ろめたい俺の心には、痛い。 「そういう……わけでも、ないんだけど」  プールを欠席して学校からも了承されているのは、父親の申し出だからだ。  俺のことが、あの七年前のことに繋がって、父親が生活している今の家族にまで及ぶのに、父親が耐えられないからだ。  俺はきっと、周りの人間を不幸にしている。本当は、瑠奈にさえ。 「体調とかじゃないけど――」  どちらにせよ、クラスメイトとの風呂も入れないし、だいたい誰かと同じ部屋で夜に寝るなんて、きっと俺には出来ない。  誰かと一緒に夜を眠るのは怖い。  どの時点で自分が悪夢を見て、押し留められない叫びで目覚めるのか、それとも何もなく過ごしていけるのか、予測もつかない。 「じゃあ、なんで?」  掻きあげられた茶色いくせっ毛を、長い指で触りながら、どこか心配そうに訊く。  どこかシュンとした毛並みの良い犬みたいな、放っておけない風情で、心がきゅっと締めつけられる。  直ぐな眉が寄せられて、いつもの明るさを潜めて、端正な顔に不安さが浮かぶと、それだけで自分がとてつもなく悪いことをしてしまった気になる。  本当のことはとても言えない。でも、嘘もこの瞳の前ではつけない。 「あの、行きたく――ないから」  喘ぐように、ただそれだけ、ようやく呟いた。  それは、紛れもない心の真実で。 「行こうよ」  すぐ隣からした返事は、あっけらかんとしていて、明快だった。 「えっ」  今度は俺がビックリして、眼鏡をかけ直した。 「行こうよ。行ったらきっと楽しいって。思い出になるよ」 「だから――あの」 「人数合わせじゃなくて。本当に一緒に修学旅行に行こうよ」  シュンとしていたところから、今度は活き活きとして俺の肩をつかんで、熱心に話し出す。  つかまれた肩がブレザー越しでもジンと熱くて、すぐ横にある鼻梁の高い整った顔が眩しくて、それは太陽みたいで、とうとう俺は直視できなくなった。  このままずっと肩をつかまれていたら、たぶんそれだけで、俺は干上がって蒸発して、この場から消失してしまいそう。 「俺、仁木に興味あったんだけど、同じ年のやつより大人っぽいじゃん?なんか話しかけ辛かったし――これがチャンスって思ったんだけど。自由行動にで周るところも、一緒に決めようよ。仁木はどこが好き?」  小山田は、とうとうぐいっと両手で俺の肩をつかんで、俺を小山田の真正面へと向き直らせた。  心臓が口から飛び出そう、とはこのことだな、と失いそうになる意識の中で考えた。  小山田の、髪と同じ茶色がかった瞳が目の前にあって。  息もかかりそうになるくらいの距離に、男でも格好良いと思う顔が近くある。  もう小山田が何を言っているかも、はっきり言って分からない。  鼓動が高く鳴っていて、呼吸が速くなって、それを小山田にバレてしまわないかだけで、頭が沸騰したみたいに熱くなる。 「きっと、面白いよ。バスも同じだしさ、色々計画して、一緒に歩こうよ。剛田の寺社仏閣趣味は何とかして押さえるから、仁木の行きたいところもちゃんと入れるしさ」 「あ……」 「同じ部屋だし、楽しいよ」  同じ部屋――  明るい笑顔が目の前いっぱいに広がって、それ以外もう何も見えない。  大好きな人間に、目の前で一生懸命に言われて、心ごとぐらりと倒れそうになる。  修学旅行なんか、デメリットしかない。そのはずだったのに。  旅先で待っている、ごまかしようのない苦難は分かっているはずなのに。  でも――でも。もしかしたら、ひょっとしたら、思うより近くで好きな人を見ていられるのかもしれない……。  これを逃してしまえば、この高校三年間の間で、一緒に何かをして、時を過ごす時間など、もう二度と訪れずに終わってしまうかもしれない。  今の気まぐれな、小山田の申し出を断れば、もう二度とどんな声もかけてもらえないかもしれない。  同じこのクラスになった偶然、そして今声をかけられている偶然が重なって、俺にとっては目の前の奇跡に等しくて。  きっと――三年になって、その後大学で別れてしまえば、この先ずっと知人ですらありもしない、過去の忘れられたクラスメイトになっていくんだ。  小山田はこのままこの附属高校の上にある大学に上がるのかもしれない。  俺は父親から、はっきりと国立大学以外は学費を出さないと明言されている。  少しだけ――少しだけ、俺が年齢らしいことを望んでも良いのなら。  綺麗な世界を、ほんの少しだけ、俺が垣間見ても良いのなら。  この夏の終わりの日に訪れた、偶然の出会いと、気まぐれな申し出に、何も考えずに乗ってしまえたら。 「あの――」  俺が迷っているのを見透かしてか、小山田がずいと顔を近づけて俺の顔を覗きこんだ。  そして、くっきりした唇でにこりと明るく微笑んだ。 「行こうよ」  俺はただ眩しかった。 だから、瞳を思わず伏せた。 「行こうよ、仁木」  その言葉に抗えるのなら、その方法を教えて欲しかった。俺には、うなずく以外の、どんな退路もありはしない。  しまった、と思ったが、もう遅かった。  晩夏のぬるい蒸し暑さのせいか、じわりと汗が流れてくる。 「良かったッ」  素直に、顔を喜びでいっぱいにして、はしゃぐように言う小山田を、俺は呆然と見上げた。  それから一緒に改札を出て、並んで歩くなんていう幸福に恵まれたのに、俺はほとんど記憶に留めることもできないくらい、動揺していた。  校門についた辺りで、小山田は鞄を持ち直すと、立ち止まった。 「じゃあ、俺ちょっと待ち合わせしてるから」 「あ……うん。じゃあ」  手を振って背中を向けた小山田の行く先には、一学年上で高校のポスターの顔になったことで知られている桜井湊がいた。小柄で、女子からよく可愛い、と言われている。  何となく入り込めない真剣な眼差しで、二人は低く何かを話しこんでいる。  桜井湊が顔を赤くして言い募るのへ、小山田は真面目な顔で返答していた。  わずかに後ろ髪を引かれたが、俺には関係ないことで。俺はそっと教室へと向かった。  その後に、これから小山田との関係が変わっていくことも、この時はまるで何も知らないままに。

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