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第9話 くちびるに恋①

「ちょっと、待ってて」  小山田はそう言うと、ひらりと身をひるがえして、部屋を出て行った。 「うん……」  俺は一人、ぽつんと広い部屋の片隅で、所在なく床に座っている。  とうとう来てしまったことに、一人で勝手に鼓動がうるさく高鳴るのを止められない。  小山田の部屋――  部屋の壁はうすいグリーン色、新緑の若葉のような。  出窓にはセピア色の地球儀、、壁に作りつけられた本棚にはずらりと本が並んで、深い茶色のデスク、ロイヤルブルーのベッドが置かれていた。  ここで小山田が暮らしているんだと思うと、そっと辺りを見回して、吐息をついた。  言葉にできない募る想いは、胸から溢れてしまいそうで。  ぎゅっと締めつけられる胸を、そっと指先で押さえた。  彼は俺の憧れ、大切な想い。  今日は学校の帰りから、にこりと笑いかけてきた小山田に誘われて、いつもの帰り道もまったく別のいろどりに変わってしまって。  案内された小山田の家は、白い洋館のようで、家先には緑や花々が見事に咲いていた。  小山田、と書かれた、蔦花の模様がかたどられた銀色のネームプレートは、夕方の日差しにキラリと光っていた。  その前に立って俺に振り返った小山田は、まるで絵のようだった。  茶色がかった瞳やくせっ毛、それからすらりと高い背、スマートな身のこなし、そのどれもがこの洋館に似合っていて、この部屋にも似合っていた。  家の外観と同じように、家の中も白を基調として、よく手入れされていて、ここには綺麗な生活がある。  ふっと顔を上げれば、出窓からは、この閑静な住宅街の景色が広がっていて、俺は落ち着くこともできないまま、その景色を見つめた。 「ここに住んでるんだ……」  ぽつりと呟いた。  窓から見える、ゆったりと並んだ一軒家、その合間に低層のどっしりとしたマンション、俺の入ったことない高級スーパーに、淡い色のパティスリーの看板。  これほどの建物があって、これほどの部屋があって、これほどの家族がいて。  皆、それぞれにどんな暮らしをしているのだろう?  眼鏡が指先で押し上げて、ぼんやりと想像つかない思いに落ちて行く。  ふっと思い出す――  遠い過去にある、自分の家族を。  母は普通の母親だったと思う。ただその環境が苦しかっただけで。  そうして自ら自由の空へとすべてを置いて飛んで行ってしまったひと。  いま俺は、一人で暮らしているし、父親の仕送りがあっても経済的に苦しいから、なるべく自炊していることもあるけれど。  家庭の味、というのが欲しくて俺は料理しているのかもしれない。  けれど、そうすればそうするほど、家庭の味なんかじゃなくなる。  求めれば求めるほど、遠く離れて。  自分の手で生み出そうとすればするほど、空回りして。  どんどんと記憶の中の味から遠ざかり、過去の手触りは失われて、この指の間からこぼれ落ちて、もう戻らない。  そう、でも知っているんだ。  もう何をしたって戻らないこと。  過去は二度とは戻らない。俺がしたことも二度とは消えない。  今は遠く離れて新しい家族を作った父親は、実際タフなんじゃないかと思う。  俺はいつまでも過去の幻影を追って、優しいきらめきをかき集めて。  そして今はただ明るくて眩しい憧れの笑顔をそっと見つめることで、ようやく息ができる。 「仁木?どうした?」 「えっ」  俺はハッと顔を上げると、近い距離で小山田が俺の顔を覗き込んでいて、その呼吸も感じそうな距離に驚いて、息が止まった。 「こっち来たら?」 「え、あの……」  ロイヤルブルーの前の白いローテーブルには、グラスが二つ置かれていた。 「ほら」  ぐいと腕を引かれて、俺に抗えるわけもなく、結局、小山田と並んでベッドの縁に腰掛けることになった。  小山田が寝ているベッド――わけもなくドキドキして、胸を指先で押さえて息をつく。  すぐ肩が触れそうな距離、手を伸ばせばぶつかるところに小山田がいて、その呼吸が聴こえるそばに、いる。 「昨日は、ごめんな」 「昨日のこと……?そのことなら、心配しなくて良いから――誰にも言わないから」 「……」  小山田は少しうつむいて、どこか考え込むようで、俺はその端正な横顔をそっと見た。 無駄に、鼓動が速まるのは止められない。 「俺に弁明することなんか、ないから。誰にも言わないっていうか、俺は言う相手もいないし。今日は、そういう話だよね?」 「……」 「俺に話したいことって――小山田が傷つくようなことは、何も言わないから。安心して良いから」  驚いたこともあるし、にわかには信じられないこともあったけど。  でも、それも小山田だから。  壊すようなことは絶対にしない。  何一つ伝えることも出来ず、小山田に分かるはずもないかもしれないけれど。  小山田が同性が恋愛対象だったとして、それでも、俺はそっと密かに憧れているだけ。  俺にとっては手の届かない遠くに輝く、眩しい光。  その光を見ているだけで、生きていく気持ちを与えてもらえるし、胸がほんのりと温かくなってくる。  こうして、二人で部屋にいるだけど、熱を持っているような愛しい瞬間。  ベッドに並んで座る影が、体温を感じられそうな距離が、不思議なほど心を優しくしてくれる。  いつかこの日が遠い記憶になっても、そうした小山田が与えてくれた柔らかな思い出は、そっと大切に胸に抱いていけるから。 「桜井先輩とのことも、聞かないし……俺が、立ち入る立場じゃないって思うし……誰も何もない人間なんていないと思うし……」  俺にはもっと人に言えない罪がある。  忘れられない、どこにも消えない暗い記憶。この傷痕とともに。 「だから、心配ないから。俺には、安心してくれて良いから」  いま手を伸ばせば届く距離にいて、でも俺はぎゅっと掌を握りしめて、かすかに微笑んだ。 「別に、仁木が言いふらすとか、俺は思ってない」  ずっと黙っていた小山田は、急に強い語気でそう言った。 「俺は仁木が、そんな人間だとも思ってないし。話したいことも、そんなことじゃない」 「違う――の?」  俺はするりとそう言って、小山田の表情を見て、後悔した。  小山田の顔は端正なだけに、ちょっと眉をひそめるだけで、ずいぶんと険しく見える。  いつも明るい表情が多いだけに、その反動か、余計にその曇った顔は、不機嫌さを強調していて、俺は何かしくじっているのを悟った。  しまった―― 「俺は、仁木をずっと見て来たし、そんなやつだとも思ってない」  大きい溜め息をついて、小山田は手を組んだ。 「仁木って良いよな――」 「は――え、えぇ……っ?」  突然の話の振り幅に、俺はついていけずに面喰らった。 「なんか、そうやって大人じゃん。クラスでも一人クールでさ。一人でいられるじゃん」 「いや、それは……」 「凛としてて、安住さんと並ぶと本当に雰囲気似てるよね。顔も似てる?日本人形みたいだなーっと思って見てた」 「え……えぇっ?」 「他の同級生より、なんか大人びてて。昨日のことだって、もっと驚くとこだと思うよ――俺、そういうとこ隠して来たし」 「あぁ……まぁ、彼女じゃなくて彼氏だったってこと……?」 「うん」 「まあ、小山田はキラキラしてるし、女子から、特優男子、って騒がれてるし……驚きはしたけど……周りの思いと、自分自身は別だと思うから」 「キラキラ?仁木ってさ、ほんと面白い」 「なんで?小山田はキラキラしてて――見てたら、心が明るくなるよ。女子に人気で当然だなって思ってたし。だから、小山田を想ってる人間はたくさんいるんだと思うし」  それは、俺も含めて。 叶うことのない想いで。 「はは、マジでそう思う?仁木は?」  宙を見たまま、吐き出すようにそう言った小山田に、俺は驚いて横を見た。 「だって小山田のこと好きな女子は少なくないと思うし、桜井先輩だって……」  小山田は眉を寄せて、険しい表情で俺を見つめ返した。 「皆、俺を見てると思う?」 「そりゃあ……」 「俺の環境がモテるんでしょ。本当の俺なんて知らないじゃん」  小山田は強い口調のまま、息継ぎもせずに言い続けた。 「俺の家が医者じゃなくて、もしもさ、俺の親がワルくて、俺が貧しくて、将来に希望もなくて――そんなんだったら、モテた?違うよね。俺じゃない、俺のステータス見てるだけだよね?」  俺はあまりの意外さに、言葉を失った。  いつもの小山田は、この環境に満足して身を委ねて、悩みなどなく真っ直ぐ生きているように見えていた。 「女の子とデートはしたよ――でも繰り返せば、繰り返すほど、この住宅街の家に住んでいて、代々開業医の息子で、スマートなデートをしてくれる――俺って、ただそんな価値になっちゃう気がしたんだよ」 「そんな……小山田は本当にすごくいい笑顔してるし、本当に好きな子もいたと……思うよ。小山田に幸せになって欲しいとか……」  俺は、小山田が笑顔で幸せな瞬間があれば良いと、ただ願っているよ。 「彼女たちは自分を幸せにしてくれることしか興味ないよ」 「……そんな」  ただ何も言わずに見ている人間だっているよ。 「なんか、たまに無性に疲れたんだよね。期待されてる通りのフリをしたり。期待通りのデートを組んだり。ね、俺って何だろうね?なんだか俺って良いもの持ってるみたいに思われてて。自分を幸せにしてくれるような何か。また、違うって思っては、なるべくスムーズにフェイドアウトしてさ。そんな顔して、引いてる?」 「い、いや……小山田は、ただ誰かを好きにならなかっただけじゃないかなって思って……」 「どうして?俺だって好きな相手はいるよ?」 「でも、好きな相手と付き合ってたら、きっとそんな風に思わないかなって……」 「うん。そうだね。俺、好きな相手と付き合ったことない。好きになったことなかったし。言われて付き合って来ただけだったしね。桜井先輩もそうだった」 「……」 「桜井先輩があんなタイプだと思わなかった。あーあ、俺って下手打ったなぁ。相当スランプ入ってたから、こんな結果になっちゃった」  小山田は長い足を投げ出して、ぼんやりと前を見ている。 「俺、悩んでたんだよね、ずっと――女と最後までできなくて」  脈絡なしに話が飛んで、俺はそれがどういう話なのか頭がぐるぐるした。  そんな俺を見て、小山田はくすりと笑った。 「仁木、わかる?俺が、女子とえっちできないって話」 「え……と」  突然の話に、俺は頬が赤らむのを感じた。 「あのね、相手に色々とするじゃん?それから、さあソーニューしよう!ってなるじゃん。そしたら、駄目になるわけ」 「え……っと……」  そもそも俺はそういう話題が苦手で、理解するために頭をフル回転させなければならなかった。 「すげー慌てて取り繕うの。客観的に見たら、絶対笑える、マジで。俺さ、やっぱり君のことが大事だから大人になるまで取っておこう、とかさ、言ってんの」 「う……うん」 「すんげぇ、格好悪い、ほんと。俺、一年の時に生徒会にいてさー、桜井先輩にすごい優しくしてもらったんだよね。たぶん、俺の感じを見抜かれてたと思う……これって匂いなんだろうなって思うよ。去年の終わりに迫られて、それで見た目も中性的じゃん。それで試してみよっかなって。桜井先輩も食って食ってって感じでさ。そしたら、できちゃった。えっち」  俺は、それを聞いた瞬間に、ビクッと肩が震えた。  なるべく動揺しているのを悟られないように、ぎゅっと掌を握った。  唇は乾いて、咽喉がぎゅっと締まるような気がする。 「あ、俺、こっちなんだって……分かって。桜井先輩がいなかったらもっと悩んでたかもね。それは感謝してる――けど、あの人は、他でも関係持っても平気だから。戻って来るんだから良いじゃんって。ゲイでそういうフリーなカップルいるんだからって。俺はそういうのは嫌だ――けど、俺も悪かったかもしれない」  既に、ずいぶんと話が付いていけない領域には入っていたけど、俺は一生懸命に言葉を探した。 「小山田が悪いなんて――嫌なものは、嫌、と思うよ?」 「ううん。俺、好きな相手できたから、たぶんもう途中から桜井先輩見てなかったんだよ。それ、俺だって嫌なことだよね……俺のそういうところも原因かも」 小山田の視線を遠くを見ているようで、その茶色い瞳は澄んでいて、ただ目を奪われた。 「だって、もう仕方ないよ。好きなんだなぁって思ったら、それ以上隠せないし」  小山田は少し揺れるような不安そうな瞳で、うつむいている。 「仁木も悪いよ」 「な、なんで?」 「俺のことずっと見てたよね」  その言葉で呼吸が止まった。  ふいに後ろからハンマーで思いっきり殴られたようで、血の気がさあっと引いた。  握りしめた掌が震え、汗がにじんだ。  どう言ってこの場を収束させればいいのか。  ちがう、と言って否定すればいいのか、ごめん、とただ謝ればいいのか。  でもたぶん、否定してももう遅い。 「ご……ごめん」 「何が?」 「ご、ごめん。気持ち悪かった……よね」  小山田は長く深いため息をついた。 「仁木はさ、ほんと手強いよね」  俺は泣き出しそうな心を抱えて、今すぐここから消えてなくなってしまいたかった。

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