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第10話 くちびるに恋②
「仁木ってやっぱり俺のこと見てたよね?」
うすいグリーンを基調とした部屋を背景に、小山田はくっきりとした視線で、すぐ近くで俺を真っ向から見ている。
「ご、ごめん」
声が掠れて、唇がうまく動かせない。
ずっと密かに出来ていると思っていた、ただ遠くから見ているだけ、と思っていた。
だけど、それが当の本人に気付かれていて、俺は自分の不味さに、激しく落胆した。
俺の人生は色んなことがうまくいかない――
あまりの所在なさに、肩が震えて、体が痛いような緊張で痺れてくる。
「も、もう見ない、から。ごめん」
明日からは、もうこの想いも飲み込んで、小山田をそっと見つめることもままならないんだ――
希望がすべて失われていくようで、俺は自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
「ね、仁木」
この片恋に別れを告げて、明日から何を希望に生きていけば良いのか、誰か知っているなら教えて欲しかった。
ずっと流星を追い駆けていくみたいに、その笑顔のきらめきをたどっていた。
自分がどんな場所にいようと、闇にいようと、ずっとその光が遠く先にあれば、何処かへと歩いていける気がしていた。
そんな確かな強さと明るさが、小山田の存在にはあった。
吸い込まれていくように、好きにならずにいられなくて、気付けばどうしようもなかった。
目の前がもつれて、頭がすうっと真っ白になっていく。
心の端から、さざ波のように痛みが押し寄せて、胸の奥がズキズキと痛い。
「俺、色んな機会を用意したつもりなんだけどな。なんかこう、タイミングっていうか」
「ごめ……ん。気付いているって、思って、いなくて……」
「だから、シチュエーションっていうか?うーん、相当、手強いな」
急に小山田が座り直して、俺に向き合ったから、俺はビクッと震えた。
「うーん、俺も悪いのかな。だいたい、このくらいで言ってくれるだろうって算段しちゃうから。うん、まあ、言ってもらおうと思ってたよね。だいたい向こうから言ってくれるし」
小山田がどこか考え込むように呟くのを、俺は硬直していて、そのくっきりとした唇が動くのを、遠くなる意識で眺めているのが精一杯だった。
「俺のそういうところも悪かったのかな?あのさ、仁木、わかんない?」
ずいっと小山田が顔を近づけて来たから、俺は思わずベッドに後ろ手をついて仰け反った。
「仁木って、なんか……初心なの?」
俺は混乱して、どの言葉にも答えられなかった。
「ずっと俺のこと見てたの、知ってたよ。俺のことが好き?」
真正面から瞳を覗き込まれて、俺は視線を外すきっかけを失ってしまった。
「二年になって、同じクラスになって、仁木って騒がないし、どっか冷めた目してるじゃん。同い年のやつらより、どこか大人なんだなって思って。仁木ってちょっと秘密めいてるしさぁ。プールになったら消えてるし、そうだ、細いのに強いし?なんか色々気になって、そうしたら、この眼鏡外して、この長い前髪を掻きあげて、そうしたらどんな顔してんのかなって、もっと気になって。きっともっと綺麗な顔なんだろうなって」
ふいに小山田の温かな掌が、俺の冷たい掌に重ねられて、俺はビクッと固まった。
ビリッと身体に電流が走ったようで、俺はその手から逃れようとしたけど、小山田はぐいと手を離さなかった。
「言われて当たり前ってどっか思っていたけど。きっとそういうことじゃないよな。だから、言うことにした。俺も、小山田のこと、見てたよ」
すぐそばに寄った小山田の匂いとか、呼吸の音とか、その手の体温とか――いろんなものがないまぜになって、頭がぐらぐらする。
「どう、いう……」
小山田の端正な顔が近付いてきて、俺は慌てて身をよじったけど、腕をつかまれた。
「――いや?」
「な、何……?」
「こういうこと」
長い指が俺の顎をつかんで、そのまま上を向かせて、くっきりした唇が降りて来て――
「えぇッ?」
思わず驚いた俺に、小山田はぴたりと止まって、至近距離でまじまじと俺を見た。
その澄んだ茶色い瞳が、瞬きもせずに、ただ俺を見ていた。
「まだ、分かってない?」
「な、何が……」
「この唇が、熱いのか冷たいのか、ずっと知りたかった」
小山田の瞳が俺を飲みこんで、そのまま意識を遠くへさらっていってしまいそう。
指先が、するりと俺の唇を端から端まで撫でて、その顔が近付いてきて、俺はようやくハッと気付いた。
「え……あの、こういうことは――好きな、付き合った相手とするんじゃ……」
「付き合ったら、キスしても良いの?じゃあ、付き合おう」
あっけらかんとした物言いに、俺は思わず驚いて慌てた。
「だって、好きな相手がいるって――」
「うん。好きだよ」
「だから、それだったら。俺じゃなくて……」
「だから、仁木が好きだよ」
何を言われているかよく分からず、俺は頭も体も停止したのを自分で感じた。
小山田が俺の肩を手でつかみ、ぐらぐらと前後に揺すぶった。
「おーい、聴こえてる?」
「え……え?」
「仁木が、好きだよ」
目の前で微笑した端正な顔は、なんだか温かくて優しい眼差しをしていて、俺は吸い込まれるように、その澄んだ茶色い瞳を見上げた。
「そんなこと――あるはず……ない……」
「どうして?」
「だって、そんな……あ……俺が、どんな反応か、賭けをしてるとか……」
「おーい、それひっでぇな。さすがに俺でも傷つく」
「え……あの」
「あーもう、告白されてた時は簡単だったのに、いざ俺が言おうとすると、なんでこんなに手強いんだッ」
「告白……って?嘘、そんなこと……」
「本当だよ」
これは、目覚めたなら消えてしまう夢かもしれない。
どこかの白昼夢にまどろんで、そして覚めてしまえば、消えてしまう。そんな淡いしゃぼん玉みたいな。
「仁木は、俺が好き?」
くすりと笑ういたずらそうな表情に、俺は束の間、見惚れてふっと呟いた。
「――好き……だよ」
小さく呟いた言葉は、かすれていた。
一生で、小山田に、一度も言うことはないと言っていた言葉。
決して伝えることもないと思っていた言葉。
言ってしまったから、心臓が止まりそうになって、息も出来なくなった。
「うん。じゃあ、付き合おう」
「え……あの、付き合うって、どういう……」
「ん?こういうことしよって――」
小山田の温かな掌が、俺の両頬を囲って、そっとゆっくり睫毛を伏せた茶色い瞳と、くっきりした唇が近寄ってきて――
人にこれほど触れられたことも、こんなに近くに誰かいることも、どれくらいぶりなんだろう?
触れられることが苦手で、そうされて、どうなるのか自分でもよく分からない。
そういうことが出来るんだろうか?無事に――
俺は思わず逃げようとして、うつむいた。
「いや?」
どうやったら小山田に変に思われずに済むか、フル回転で考えた。
「……いや……というか……したことがなくて――」
「え?」
「……だから……あの」
「したことないの?」
俺はかろうじて頷いた。
「だったらこれが初めて?マジで?」
俺は、もう一度頷いた。
「だったら絶対、仁木のファーストキスが欲しい」
「え……?」
小山田のきっぱりとした物言いに、俺の思考は完全にオーバーして停止した。
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