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第11話 くちびるに恋③
「ゆう」
「え……」
「だから、優って呼んで?」
どうして良いか分からず、瞬き一つできない。
「葉司って呼んで良い?」
温かな掌が、俺の頬を限りなく優しく包んで、俺は身動き一つできずに固まるしかなかった。
「葉司――葉司」
そう繰り返し呼ぶくっきりとした二重の茶色い瞳――そこには、今までに見たことのない表情があった。
苦しげに寄せられた眉、浅く呼吸する唇、思いつめたような眼差しが、俺の目の前にあって。
どこかセクシーで、俺はどきりとした。
「何回も、心でそう呼んでた。俺のことも、呼んで?」
「ゆ……う……」
俺はおずおずと口にしてみた。
そうすると、その名前は、舌から唇へとふわっと溶けていくみたいで、甘く広がった。
「うん。もう一回」
「優……」
「うん。これから、ずっと、そう呼んで。分かった?」
「うん……優」
名前を唇に乗せるたび、ふわりと心が舞うほどに、大切な響きがする。
なんだか夢の中に迷い込んだようで、現実感がなくて、感覚もおぼつかない。
優――心の中でも、その大切な名前を呼んでみる。
こうして呼びかける日が来るなんて、ふわふわとどこか信じられない。
「葉司――なんか、優しい顔してる」
ふっと長い指が伸びてきて、するりと俺の眼鏡を外して取って行ってしまった。
「あ……」
指先が、優しく俺の瞳にかかる前髪を払って、俺はその指先がかすかに触れていくのに、ビクッと震えた。
「綺麗な、切れ長の目してるよね。色が白いから、この黒い髪も、黒い目も、日本人形みたい。唇がうすいピンクで、葉司が食べてる時とか、よく見てた。なんか、葉司はこういうことにもクールなのかと思っていたけど。ビックリしたり、固まってたり、可愛いな」
そう話しながら、優に少しずつ寄られて、俺は逃げ腰になった仰け反るうちに、ベッドの上に押し倒されていた。
見上げるとすぐそばに端正な顔が、ひどく優しく、だけど切羽詰まったような表情であって。
優の重みを身体に感じて、シャツ越しに感じる体温に、俺は狼狽した。
誰かの体温を感じることも何年もなく、これほど一気に触れられたことに、眩暈がする。
「ちょっと、待って……」
「なんで?」
ぎゅうっと、指で指を絡めとられて、そのままベッドに押し付けられた。
「葉司の初めてのキス、誰にも取られたくない」
耳元で囁かれて、気絶しそうになる――
もしも自分がオンナノコで、そんなことを耳元で囁かれたら、一気に落ちちゃうかもしれない――と、逃避しかけた頭の中で考えて、でも、これは今、自分の身に起こっていることで――
「葉司……」
いっそ、気絶できるものなら、気絶してしまったほうが楽だったかもしれない。
熱い息が頬にかかって、俺は身動きもできなくなった。
唇に、弾力のある感触が触れた時には、もう何かを考えることさえできなかった。
唇に唇が重なって、その熱さがじんわりと広がっていって。
キスをされて、どう呼吸をして良いのか分からず、窒息してただ溺れてしまいそう。息継ぎもできずに、このままキスの熱さの中に沈んでいって。
その体温、その匂い、それから重なった唇から、ズキズキするような痛みににた熱さ――
ふっと。
遠くから津波のように、恐れていた感覚が押し寄せてくる予感がした。
目の前に薄い赤色が広がって、目の前がよく見えなくなるような。
優の熱い唇がうすくひらいて、柔らかな舌が俺の唇をなぞっていく。
初めての感覚に、身体がぶるっと震えて、シーツに押し付けられている手を外そうとしたけど、手に力が入らなくて。
「んん……ッ!」
唇を塞がれたまま、呻いて抗議してみたけど、優はお構いなしに、さらに角度を変えて、キスを続けて――
「んっ」
優の指が器用に、俺のシャツの裾を引っ張り上げて、その中へと指をすべらせてきて――
するりと脇腹の素肌へと、優の温かな指がすべっていって、俺は焦って、なんとか優のキスから逃れた。
「ま、待って……っ」
「なんか……可愛い、葉司」
「ほんと――待って……っ」
俺は優の体の下から逃れようともがいたけど、優の体に触れている部分がひどく熱いような気がして、うまく体が動かせなかった。
「ずっと、俺は待ってたよ。いつこうしよっかなって、そればっかり考えてたし。なんか、止まんない。想像していたより、可愛い……」
優の掌が、俺の腹を直接に撫でたのが決定打となって、頭の後ろがガンガンと鳴り出した。
遠くから、うねりのように、あの嫌な予感が押し寄せてくる。
「ほんとに……ッ、ついていってない――から、待って……!」
なんとか優の腕を止めて、肩を押し上げて離そうとして、俺の体は自分の意識と関係なく痙攣した。
「ふ……ッ」
ぎゅっと目を閉じて、体に力を入れて、体が震えるのを抑えつける。
「え、葉司……?」
何もまともに考えられなくなって、優と触れられた部分の熱さと、体の奥から痺れるような冷たさがやって来て、ない混ぜになって、目の前が赤く染まっていった。
優の体から力が抜けたのを感じて、反射的にその体の下から逃れて、ベッドの端までいって、片手をついて自分の咽喉をつかんだ。
浅く速い呼吸を繰り返して、鳴り止まない耳鳴りと、ガンガンと響く幻聴にただ押し流されて、奈落の底に落ちたかのように身動きが取れない。
「ほんとに――待……って……ついていってない……」
ただ喘ぐようにそれだけしか言えず、目を瞑って、はあはあと呼吸を繰り返して、自分を保つためにベッドの端で身を縮めた。
「葉司――?」
囁くような、ひどく優しい声で、俺を気遣うようにそっと覗きこんだ真っ直ぐな瞳。
それは澄んでいて、その光は明るくて、俺にはとても遠いもの。
「あの……俺は――やっぱり……」
俺は、汚い。
この真っ直ぐで明るい光に、触れてはいけない存在。
暗闇の底で、泥に塗れて、汚れてしまっている、俺は。
こんな、奇跡みたいなことがあるわけがない。
この先、きっとうまくいくわけがない。
相手を不幸にして、周りを不幸にして、そしてきっと傷つける。
「俺は……無理――」
「ごめん。急ぎすぎた……?」
心配そうに、瞳瞬かせて覗きこむ、優しい眼差し。
俺は、それにきっと見合わない人間。
「ごめん――つい、焦って」
そっと、限りなく優しい手つきで頭を撫でられて、ふっと、その温かさの中に身を任せてしまいたくなる。
何か言葉を返さないと焦っているうち、ふいにコンと音が鳴った。
「優?」
コンコン、とドアがノックされて、二人でハッと顔を上げた。
「優、いるの?お母さん、今帰ったけど、お友だち来てるの?」
「え、うん。そう」
俺がベッドから立ち上がると同時に、部屋のドアがガチャリと開いた。
ドアの向こうに、綺麗なドレープのオフホワイトのブラウスに、膝下の黒いスカートにピンクのスリッパを履いた女性が立っていた。
初めて見る――優のお母さん、だった。
明るい色の髪の毛は丁寧にカールされていて、落ち着いた色の化粧で、優と同じ茶色い瞳をして知性的な雰囲気がした。
優と同じ、はっきりとした顔立ちで、どこか日本人離れした雰囲気がよく似ていた。
「あら、いらっしゃい」
にこりとした顔は優しそうで、俺は微笑みかけられて戸惑った。
「初めまして、優の母です」
「あ……の、仁木です……お邪魔してます」
ようようそれだけ言えた。さっきまでこの部屋でしていたことに、頭がカッと熱くなった。
「もう夕方だけど、お夕飯は?ご一緒になさる?」
「えっ、いいの?葉司、一緒に食べようよ!」
パッと明るい顔をした優に、俺は戸惑いながら、部屋の端に置いてあった鞄を引っ掴むように持った。
「あの、でも、ご迷惑になるので……」
「あ、そうね。仁木くんのおうちでも、お母様が待っていらっしゃるわね。急にごめんなさいね。優のお友だちで、初めてお見かけするお顔だったから、つい嬉しくて」
穏やかな声色が耳に心地よくて、目を閉じてその声に身を委ねていたくなる。
おかあさん――もし今いれば、こんな声をかけてくれるのだろうか。
遠い記憶の中の存在は、もう動いたりしない。
「ご両親にもよろしくお伝え下さいませね。優のこと、よろしくお願いします」
「もう、そういうの止せよ。子どもじゃないんだから」
待っている親は、何処にもいないけれど。
でも優に相応しい友人に見えるような、今はそんな風に見てもらいたいような、良い子だと思ってもらいたいような、そんな衝動が湧きあがってきた。
「はい」
優のお母さんの顔は見れなかったけれど、それだけ短く返事をした。
「あの、じゃあ、俺、帰ります――優、また……」
また、何だと言うんだろう?
何処にも行くあてのない心が彷徨っている。
俺は微笑んだ。
「お邪魔しました。失礼します」
ベッドサイドに置かれてあった眼鏡をつかんで、俺は身を翻すように、白い家から駈け出していた。
初めてキスをした唇が、ズキズキと痛いように熱くて、頭がぐるぐると回って、雲の中を走っていくようにふわふわとしている。
体の外側はひどく熱いのに、体の芯は凍てついたように冷たくて、じんわりと冷や汗が滲んでくる。
早く、ここから何処かへ。
明日の行方は分からない。
俺はふらふらと電車に乗って、ただ人混みに押されて立っている。
ウッと咽喉が鳴って、俺は慌てて掌で口を塞いだ。
早く帰りたい。誰も待たないただ一人の家へ。
最寄駅で降りて、俺はすっかり暗くなったホームから足早に急いだ。
一歩一歩、歩くたびに、唇と心がズキズキと疼く。
好き、初めて知ったあの眼差しも。
好き、初めて知った唇の熱さも。
真っ暗な家に帰って、真っ暗な玄関で、がくりと膝を着いた。
ズキリと下腹と内股にある古傷が痛む気がする。
心と、体は、まったく別になって、バラバラと虚空へと落ちていく。
「好きだよ……」
俺は掌で顔を覆って、ただ一人で嗚咽した。
その時、暗闇の中でスマホが光って、メッセージが届いた音がした。
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