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第12話 くちびるに恋④
―葉司、どうしてる?私、報告があるんだぁ。
暗闇で光ったスマホは、瑠奈からのメッセージを浮かび上がらせていた。
瑠奈――俺はその名前を見て、玄関の灯りをバチンと点けて、よろよろと廊下をふらつきながら歩いて行った。
部屋の照明のスイッチを入れ、大きく息をついて、床に座り込んだ。
唇には、まだ優からくちづけられた感触がまざまざと残っていて、いくら時間が経ったって、とても消えそうにない。
彼の熱さ、彼の匂い、彼の囁き。
どれも脳が処理しきれずに、現実感がなくて浮遊している。
膝を抱えて、スマホを両手で握りしめた。
―うん。どうした?
震える指で打ち返して、ただ返事を待つ。
瑠奈に会いたい。
そうすれば、彼女を守るために生きている、責任感があって強いナイトに戻れる気がする。
これほど頼りなく脆い思いじゃなくて、確かな慣れた何かに縋りたかった。
真の自分は、こんなに弱くて無防備だ。
好きな彼に、自分の想いひとつ、伝えることも怖くてたまらない。
―私、鷹宮さんとチューしてしまいましたっ!
―本当?
ふっと頬が緩んで、知らないうちに微笑していた。
―私のほうが、葉司よりお姉さんになったっ!瑠奈さんと言いなさい。
くすくすと一人の部屋で笑って、どう返事しようか考える。
長い黒髪をさらりと流して、凛とした瞳を、どこかいたずらっぽく細めて微笑する瑠奈の姿が思い浮かんだ。
―お姉さん、ね。あ、でも、俺もキス
とまで打って、慌てて消去しようとして、指が滑って送信を押してしまった。
「あっ」
と思った時には、静かな空間に突然、電話の音が鳴り響いてた。
「葉司!」
電話に出ると、瑠奈の鈴の鳴るような声が大きく響いた。
「えっ、何?あれ、俺もキスって、何?葉司もしたの?誰、誰と?え、何も聞いてないよ、私。どういうこと?」
「いや、あの……」
「ちょっと、お姉さんに言いなさい!何、どういうこと?誰とキスしたのッ?」
「あ……」
「瑠奈さんが聞いてあげるから、任せなさいッ」
「……」
「何その沈黙。私だけ報告とかあり得ないッ」
「だから、その……」
「うん」
「小山田優と……」
シーンと沈黙が落ちて、それから電話の向こうで、大きく息を吸い込む音が聴こえた。
「あの、小山田くん?」
「そ、そう……」
また息を大きく吸い込む音がして、それから瑠奈はゆっくり言った。
「嘘……良かった……」
電話越しに、しゃくりあげる音が聴こえてきて、俺は慌てた。
「瑠奈?」
「良かった……と思ったら……なんか、泣けてきて……」
嗚咽する音が続いていた。
「両想い、だったんだ?すごい……すごいことだね。すごいよね。ずっとそうなったら良いなってことが現実になったら、こんなに嬉しいんだ。私、鷹宮さんと付き合った時も、すっごいすっごい嬉しかった。それと同じくらい嬉しい――」
こんな風に、俺のことで一喜一憂してくれるのは、世界でただ一人、瑠奈だから。
「あっ、んー?そっか、だからだ」
「?」
「小山田くん、私には目線きつかったなーと思い出して。あれは、葉司が好きだったんだね?私に嫉妬してたってことかな?ふふ」
「ふふって」
「何だか、すごい。私と葉司は、運命が一緒だね。ねえ、ファーストキスの歳も一緒だね?」
瑠奈は、大丈夫だった――?
そんなことを訊きかけて、俺は息を飲んで口を噤んだ。
たぶん言わないほうが良いこと、そんな引き出すようなこと。
「葉司、前は私の不安も聞いてくれて、ありがとう」
「……うん」
「何があっても葉司がいてくれるって思えたし。葉司が言ってくれたから、緊張するって鷹宮さんに言えた。鷹宮さん、すっごく優しかった。緊張したけど、鷹宮さんを信じて進みたいって思えた。鷹宮さんを好きだから――ねえ、好きってすごいチカラだね」
くすり、とどこか泣くみたいに笑った瑠奈。
「そっか……瑠奈、良かった」
瑠奈は、自分の心の力で信頼関係を築いて、閉ざされた世界から、大きく羽ばたこうとしている気がした。
俺は、もう足枷になってはいけないんだ。
「もう修学旅行も近いし――ね、小山田くんと一緒だね」
「えっ、あ、そうか……」
俺は少し呆然として、呟いた。
「荷造り、一人で大変だったら手伝うからね?」
「あ……うん、たぶん、大丈夫」
「そっか。ね、私も葉司もおめでとう」
そう囁いた瑠奈に、ゆっくりと優しくおやすみを告げて、俺はただぼんやりと一人座り続けていた。
ほぼ眠れずに寝苦しい夜を過ごした翌朝、体中が痛くて、高熱が出ていた。
自分で高校へと休みの電話を入れ、台所で、買い置きのポカリスエットやカップラーメン、レトルトのお粥などが揃っているのを確かめて、ひとまず安心した。
俺はペットボトル一本を取り出して、二階へ上がって畳の上の布団へと引っくり返った。
風邪でもない。たまにこうして熱が出る。
でも、今回は体中で逃げているんじゃないかという気がする。
会いたい。
けれど、会うのが怖い、愛しいひと。
三日経って、三十七度二分まで熱は下がったけれど、俺はぐずぐずと行く勇気がなくて、結局休んでしまった。
もうほぼ普通の生活に戻っているし、休んだ分の勉強は取り返さなくてはいけない。
あれほど、羽ばたくように明るい彼の姿を見なければ生きていけない、と思っていたのに。
いざ触れてしまうと、とても怖い。
たぶん――きっと、彼に触れることなんてとても望んでいなくて、きっと、側に寄れるなんて思ってもみなかった。
瑠奈を守るナイトでいる、なんてお門違いも良いところで。
瑠奈は自分の力で、鷹宮さんという人を見つけて、先へと進んで行こうとしている。
本当は、俺のほうにこそ瑠奈の存在が必要だったんだ。
瑠奈を守るんだ、という思いに縋って、依存して、それでようやく自分の存在意義を見出して。
あっさりと飛び出して行ったのは、瑠奈。
俺だけが、過去の傷痕の上にいて。
憧れていた彼と近付ける奇跡が起こって、普通の人間なら、幸福の絶頂にいるはずなのに、 それも出来ずに、ただ逃げることしか出来ない。
その自分のふがいなさが、ひどく情けない。
夜の眠れなさが疲れとなって、その日はぼんやりと過ごしてしまった。
夕陽の茜色が窓から差すようになって、俺はハッと起き上がって、机に座った。教科書と参考書を出して、慌ててページを開いた。
「すみません、お邪魔します。どなたかいらっしゃいますか」
階下のほうから声がして、俺は顔を上げた。
「?」
俺はゆっくりと階段を降りて行って、それから玄関の引き戸を開けた。
ガラリと戸を開けると、急に腕を引き寄せられて、つんのめりかけたのを片脚で踏ん張で、何事かと瞬間的に臨戦態勢で見上げて、そのままフリーズした。
「葉司!」
固まったままでいると、ぎゅうっと抱きしめられて、その肩に鼻がぶつかった。
そこにいたのは、紛れもない、小山田優だった。
「ちょっと……あ、の」
喘ぐように言うと、パッと体が離れた。
「ごめん、家なのに。葉司に会えて、嬉しくて。ずっと学校来ないから心配してて。居ても経ってもいられなくて。ちょっと、熱い?」
額に掌が当たって、俺はビクッと後退った。
「学校に来るまで待とうって思ったけど、どうしても会いたくなって。安住さんに、葉司の家の住所聞いたんだ。あの、ここは離れ?母屋に出られたのは、お祖母様?」
「ああ、まあ……」
「葉司がいるからって、表からこっちに案内してもらったんだけど、葉司はここで、ご両親と住んでるの?」
「……」
この離れは、ごく簡易で二階建てでも狭い造りだ。
「いや、ここには俺一人で」
小さく呟くように言って、俺は玄関先にいたままの優を招き入れた。
ダイニングに通すと、どこか物珍しそうにキョロキョロとしながら、行儀よくテーブルの椅子を引いて、静かに座っている。
完全の和風の造りで、簡易で狭いこの離れは、優のあの白い洋館のような家に比べると、あまりに貧相で、そして狭く古かった。
俺はキッチンで紅茶の缶を開け、ポットに入れると、沸かしたてのお湯を注いだ。茶葉がジャンピングして、良い香りが湯気とともに立ってくる。
優に紅茶を出して、自分も椅子に座ってみたけど、どこか夢の中の幻のようで、優がこのあまり物もない家にいることが、性質の悪いジョークみたいに思えた。
「お母様は、仕事に?」
「ああ……母は、いなんだ。ずっと前に」
「え――?ごめん」
するりとそう言う優は真っ直ぐで、他の人が言えば、心が荒れそうなことさえ、胸にすとんと入ってくる不思議。
「じゃあ、お父様と二人?」
「父は、アメリカに」
アメリカで、新しい生活をしている。
「あ――そうなんだ」
優は、紅茶を音も立てずに飲んで、それから、ふと顔を上げた。
「え、じゃあ具合悪い間は、さっきのお祖母様が葉司の看病に?」
「看病って――特に寝てるだけだし……食糧もこういう時用に買いこんであるから、特に誰の世話にもならないよ」
「えっ、じゃあ普段はどうしてんの?」
「普段って?ずっと一人でやってるけど――料理もできるし、身の回りのこともできるから、特に誰もいらないけど」
「え……」
優は軽い衝撃を受けたように、くっきりした茶色い瞳を見開いて、俺を見直した。
こうして真正面に優がいると、胸の奥から想いが込み上げて来て、愛しさに苦しくなる。
「優は、あのお母さんが色々してくれそうだよね」
「あぁ――まあ、そうだけど」
「うん。優は、そういうとこが良いな」
あの洋館みたいな白い綺麗な家で、大切に手をかけられて育った優の、幼い頃をふっと見てみたい衝動に駆られた。
剛田や原なら知っているんだろう――まどろむような空想に頭がさらわれていると、優がガタッと立ち上がって、俺の隣へと座り直した。
「俺に、連絡くれたら良かったのに。そうしたら、すぐに来たのに」
「別に、大したことないって」
「だって、俺が心配だった」
すぐ横から引き寄せられて、抱きすくめられて、その吐息が耳元にかかってカッと頭が熱くなった。
身じろぐと、さらに強く抱きしめられて、優は俺を離さなかった。
「ごめんって。葉司。もう焦らないから。そんな逃げないでって」
切羽詰まったような声に驚いて見上げると、哀しげな色の瞳にぶつかって、俺はすぐに目を伏せた。
「俺が焦って――嫌われたかと思って。本当に熱あったんだな。まだちょっと熱い?すぐに来れば良かった」
「優を嫌いになんて……なれるわけがない……だけど、俺は、やっぱり」
その時に、抱きしめられたまま、優の頬が俺の頬をすりっとなぞっていって、少し震えた。
「葉司」
ゆっくりと優しく両手で頬を囲まれて、俺は速まる鼓動を止められずに、息が出来なくなった。
突然、スマホの着信音が、静寂を引き裂くようにけたたましく鳴って、俺は慌てて手に取った。
「……」
「鳴ってるよ?」
少し体を離して、優が首を傾げて、俺のスマホを覗き込んだ。
「うん」
着信の名前を見て、俺はさっきまでの夢のような世界から、一気に現実の世界へと突き落とされたようで、指先まで体が鉛のように重くなった。
「葉司。元気だったか」
聴こえてきた声に、俺は立ち上がって、優から離れた。
「元気です、父さん」
絶対に出ないわけにはいかない電話――
やっぱり、なんとなく間の悪い人間、というのがいるなら俺に違いなかった。
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