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第13話 くちびるに恋⑤
俺は、電話を優に聞かれたくなくて、目くばせで、ごめん、と告げてから二階の自分の部屋へと上がっていった。
「そうか。勉強はしてるか?成績は変わりないか」
「前にメールで添付した通りです」
「ああ――そうか。そう言えば、そうだったな。ちゃんとキープしとけよ」
「どうしたんですか?そちらは、電話かけてくるような時間帯でもないと思いますけど」
「まあ、何となしに目が覚めてな。思い出したんだ」
「そうですか」
「しっかり勉強して、国立大に合格しろよ。そのために附属高校へ高い金払って通わせてやってるんだからな。大学まで私立には行かせないからな。背水の陣で受験に挑めよ。何事も覚悟決めてやるんだ、男だからな」
「わかってます」
「なんだ、反抗的な口調だな。不自由させていないのに。まあいい」
ふじゆう――それはどんな意味だったか、頭で反芻しなければ一瞬理解できなかった。
昔から変わらない。
ハードにお金は払っても、ソフトに費やしたりはしない。
学費やこの家の保持費用は払ってくれているけれど、生活費は十分にはない。
俺の母親が生活的な経済DⅤに遭っていたのだ、と理解できたのは、母がいなくなってずっと後のことだ。
「母さんにもそう言ってたんですか」
「何がだ。いつも分からんことを言うやつだな。お前は母親譲りで頭がおかしい」
「……」
「お前の弟も、来年エレメンタリースクールだぞ」
「弟……」
「憲太は優秀だから、こっちでもゆくゆくどの大学に行くのか楽しみだぞ」
見たこともない、名字が同じだけというその存在を、果たして単純に弟という、その無神経さに寒気がする。
この男と、また結婚した女性がいるのだから、そのことに限りない驚嘆をしてしまう。
「そうですか」
「じゃあ葉司、また電話する」
一方的に電話は切れた。ツーツーと果てもなく繰り返される音。
たまに何のつもりかこうして電話してくる。
その突発さが、まるで監視されているようで、息苦しい。
俺は力なく畳の上に座り込んで、ぐったりと壁にもたれた。
(お前は一族の恥なんだ!)
そう怒鳴りつけた声と凄まじい形相を覚えている。
スマホを握りしめた指は白くなっていた。
なぜ心は何かを感じて、こうして冷たく凍るのだろう。
「早く大人になりたい……」
もう縛られることのないよう。力を得て自分で歩めるように。
「葉司」
開け放しだった部屋の入り口から声をかけられて、俺はハッと振り返った。
そこには優が立っていた。
「もう切れてるよ」
長い指で、俺のスマホの画面をタップして電話を切り、そっと俺の掌から取り出した。
「なんで……」
「ごめん、なんか葉司の表情が、気になって」
「なんで、いるんだよッ!」
叫んで、突き飛ばして、優がされるがままに床に手をついて俺を見上げた姿を見て、俺はサッと青ざめた。
「ご、ごめん。ごめん――俺、駄目だ……」
青ざめたままうろたえて、突き飛ばした優に、手を差し伸べて、触れて引き起こすこともできない。
「ごめん、ごめん……!」
「いや、俺が悪かったから。お父さんと、弟?」
「弟って……会ったこともないし、その母親も知らないし……向こうの新しい家族のことは、よく知らない」
「そっか……勝手に来てごめん。でも俺は、葉司のこと、知れて良かった。それじゃ、ダメ?」
「もう……分かったろ?俺と優は、全然違う――だから、やっぱり……」
俺の憧れ、俺の想い――
「あまりにも、環境が違うし。俺は、色々と……優に、相応しくない」
大切に想うのなら、彼の幸せを願うのなら、それはきっと俺といることじゃない。
「でも俺、葉司が好きだよ」
ごく単純に、伝えられる言葉。
「葉司を環境で好きになったわけじゃないし。ここにいる葉司が好きだよ。今日は初めて制服じゃない姿を見て、ほんとはうわーって思ってたし」
くすりと優が照れたように、目じりを下げて笑った。
「こんな、部屋着なんか……」
「なんかもっと、ゆるーい感じの葉司が見てみたいなーって思った。その希望は葉司は叶えてくれないわけ?」
無邪気にくすくすと笑う、その風が吹きすぎるみたいな微笑みが、俺の胸に小さな温もりを灯すようで、俺はぎゅっとシャツをつかんだ。
「俺、葉司が良いな。俺も、早く大人になりたいって思ってた」
「それは……俺と、優じゃ、意味が違うっていうか……」
「俺も、早く抜け出したい。何にも束縛されずに自力で生きて行きたい」
俺が考えていたことを、優が言って、思わず俺は優を見返した。
「あーあ、学生なんてツマンナイね」
「……優は楽しそうに見えるけど」
「そうだね、そう見えるかもね。俺、そんなに簡単に手の内明かさないからね」
優は俺の横に敏捷に座ると、ずい、と俺のほうに身を乗り出してきた。
澄んだ茶色い瞳が近くにあって、俺はどきりと固まった。
鼻梁の高いどこか日本人離れした顔立ちは、この薄暮にもくっきりとしていて、それは優の存在そのものだ。
「附属幼稚園から上がって来た俺たちは、この附属の世界で純金って呼ばれてるけどね。こういう家系や環境にいるのも、皆それぞれ違うけど、俺だって色々ある。幼稚園入る前から幼児教育でお受験して、その後は週5でおケイコに塾だぜ。一族の親戚が集まれば、躾チェックに容赦ないし、どんな素行で、どんな成績で、医学部に行くのが前提になってる。さらに、どの大学に医学部に行くのか、そんなことが俺を見る判断材料なわけ」
肩をすくめて、優は続けた。
「俺は、まだ兄貴がいる。兄貴がいて、優秀だったから、俺はまだお気楽でいられたところはあるよ。兄貴は一身に背負って――それがまた、長男として背負い切ってくれたね。兄貴はここにうまくハマれたのかもしんない。俺は本当に自分が何をしたいかなんて分からないうちに、道が決まっていた。俺の環境って何?この狭くて融通の効かない環境のこと?」
くるりと瞳を回して、真っ直ぐな視線が、俺を見ている。
「俺、勉強もレンアイも言われるままだったかもしんない。やっぱ結婚しないとと思っていたから女の子と付き合わないとって思ってた。そこを外してくれた桜井先輩には感謝してる――けど、自分で見つけたのは、葉司だったんだ。もし、俺が、葉司を好きになった理由がいるなら」
「……」
「葉司もまた、ここを抜け出したいって感じていたことじゃないかな。俺、葉司は大人っぽくて――ごめんね、最初はスカしてんなって思ってた。でもなんか、すごく気になって――ああ、違うんだって。何かは分からなかった。でも、他の同い年のやつらとは、確実に何か違うんだなって。たぶん、今なら分かる。そういうとこ、好きになった。それで」
優はぴったりと肩に肩をくっつけて、寄り添ってきた。
触れた肩は熱くて、俺は浅く呼吸した。
「葉司がいてくれたら、きっと頑張れる。俺だって、疲れるんだよ――」
こつん、と俺の肩に頭をもたせかけた。
「葉司はすごく頑張ってる。それを支えたいなって思った。ただ一緒にいたいんだ。こうやってぴったり隣にいて、葉司に触ってたいし、もっと知りたい。色んなこと――一人にさせたくないって思ってしまったのは、俺のワガママかな?」
よく分からない感情が、今まで味わったことのない感情が、胸の底で渦巻いていて、やがて溢れだしてくる。
目の縁から、涙が一筋、伝って落ちていた。
「もっと教えて?ぜんぶ教えて。葉司のこと、もっと知りたい。俺も、これからは離して良い?聞いてくれる?ダメって言われたら、俺はまた一人になっちゃうよ」
いたずらっぽく笑うのは、優がそう言えば、どこかで俺が断れないって見抜いているから。
「そばには、いさせてくれたら、嬉しい……けど、あの……恋愛関係は……」
「俺、葉司が可愛いなーっと思って、誰にも先越されたくないって思って焦っちゃった。葉司って色々知ってるような雰囲気だし。でもそうじゃなかったんだよね?だから、ごめんね。ちゃんと葉司に合わせるから。それじゃダメ?」
まじまじと瞳を覗かれて、頬が赤らむのは隠せない。
「俺だけ見ていてくれたら、焦ったりしない」
「それは……俺は、ずっと、優しか……」
「だったら、ずっと一緒にいてくれる?学校に来て、修学旅行も一緒に行こう?」
「……うん」
何処まで一緒にいられるんだろうか。
だけど、こんな俺にだって、数瞬の奇跡みたいな夢を見たって、良いんじゃないだろうか――
「良かった」
明るく無邪気に笑う優には、俺にさえそう思わせる力があって。
優は、温かな掌で、俺の手をぎゅっと握り込んだ。
「葉司、大好きだよ」
その長い指が、俺の伸びた前髪をそっと掻きあげて――
触れるか触れないかの優しさで、温かな唇が、俺の額にゆっくりとキスした。
なんだかそれは、神聖な瞬間で、俺は静かに目を閉じた。
優となら行けるだろうか、自分がまだ知らない高みへ。
手の届かないと思う存在に、ただ見つめて憧れているだけだった。
恋愛など一生することはないと思っていた。未来もその先も。
いま隣に優がいる奇跡を、そっとこの掌に大切に包んで、もしも抱きしめても良いのなら。
いつか、やはり躓いて、すべて失ってしまう瞬間が訪れたとしたって。
俺が、優に何か出来ることがあるのなら――
「葉司と修学旅行、すんげぇ楽しみ」
にこりと笑ったその顔に、俺はそっと微笑んだ。
三泊四日もの夜を、いったいどうやってやり過ごすのかを考えながら――
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