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第14話 目覚めたら、心も傷痕もひらいて見せて①

 初秋の青空は、うっすらと白い雲をたなびかせて、まだ緑色の紅葉の向こう側へと広がっている。  明るく広がる陽射しに、俺は眩暈を覚えた。  昨晩はよく眠れずに、USJを回った疲れが脈々と残ったままで、俺はただぼんやりと空を見上げて、風に吹かれて立っている。  どうして、修学旅行なんかに来てしまったんだろう――  それは、小山田優がいるから。  たったそれだけの、簡単な答え。  溢れそうになった心を抱えて、零れそうに水の張ったこの胸は、そばにいたいのに、なぜこれほど苦しい。  ふっと視線を感じて、斜め後ろを振り返ると、列に並んでいる優の端正な顔がこちらを見ていた。  にこり、と明るく曇り一つない笑顔は、すらりとした長身によく相まっていて、その笑顔が自分に向けられたのだと気付いて、頬が熱くなって、慌てて前を向いた。 「集合時間を必ず守って、各自バスの座席へ着いておくこと。出発に送れないように。では、解散!」  東大寺前の奈良公園で、紺色のブレザーの高校生の集団は、わらわらとたむろしたまま、ざわめいている。  俺もその一員のはずなのに、どこか果てしなく遠い。  頭がくらりとして、俺は指で眼鏡を押し上げた。  太陽の光は頭上から降ってきて、足元の芝生にきらめいて溜まっている。  その芝生の上を、小鹿の細い脚がかろやかに通り過ぎていった。 「きゃあっ」  女子たちが鹿せんべいを片手に、鹿に集まられて、逃げながら歓声をあげていた。  鹿はわらわらと群れ集ってきて、その後を追いかけている。  その横でよちよち歩きの子どもが鹿に触ろうとして転びかけ、母親が急いで抱きとめた。  その向こうに見える山はなだらかで、その山の端の草色と空の水色が美しい。 「仁木」  気付くと、すぐ横に剛田が立っていた。  短髪にがっしりとした体躯で、紺色の制服姿がどこか可笑しいほどに、高校生に見えない。 「大丈夫か」 「何が?」  目を細めてスッと俺を見る男らしい顔は、唇を引き結んでいたけど、優と原がこちらに歩いて来たのを見て、俺から距離を取った。 「時間あるから、こっから出ようぜー」  原がステップを踏みながら寄って来て、くるりと回って止まった。 「いや、俺は東大寺と春日大社を回る」 「えっ、だからさぁ。寺社仏閣趣味は修学旅行では止めろって言ってんじゃん!一応班行動なんだし?てか、東大寺と春日大社、目の前な!ここで終わるつもりかよー」  原は剛田に畳みかけた。 「奈良なんだし、何処行っても景色か史跡だろ」 「いや、あるじゃん!ならまちとか、駅前の商店街とか、あっそうだ、スイーツ店に行ったら女子もいるかもしれないし!」 「じゃあ、別れたら良いだろ。最後に一緒にバスに乗り込めば、バレないだろ」 「えぇーっ」 「仁木も俺のコースが良いって。な」  突然に名前を出されて驚いた。  けど、あまり寝ていない体調で、昨日のUSJばりに回るのは限界を感じていたから、俺は剛田の声掛けが有難かった。 「あ、うん」 「葉司は東大寺と春日大社行くの?」  優が、くっきりとした瞳でじっと俺を見ていた。 「あ――うん。行ったことが、ないから。その、大仏殿も行ったことないし……」 「葉司、行ったことなかったのか。じゃあ、俺も行く。柱くぐりとか、あるんだよ。子どもの頃は通れたけど、今どうかな。今見たら大仏はどんな大きさに見えるかなぁ」 「東大寺盧舎那仏像な。高さ約一四・七メートル、基壇の周囲七十メートル。聖武天皇により七四三年に造像発願されたが、実際の造像は七四五年から準備開始され――」 「あーっ!もういい!もうっ、行けば良いんだろっ!お前らと安易に同じ班になった俺が間違いだったッ!」 「あ、安住さん」  優が長い指を上げた先に、確かに長い黒髪たなびかせ、小鹿のように軽やかに歩いて行く後ろ姿が見えた。  門前の、鹿と人で溢れる石畳の上を歩いていても、瑠奈のほっそりした美しい姿は、すぐに見つけられた。 「安住さんも東大寺みたいだね」  優がいたずらっぽく笑ってそう言うと、原は急に歩き出した。 「行く」    優の案内の中で、剛田のどこまでも続くうんちくと、原のぶうぶう言う文句をBGMに、集合時間にはバスに着席した。  俺は後ろのほうの席で、優の隣だ。  すぐ前に、原と剛田で、原は車酔いしやすいんだと言って、絶対に窓側を死守している。 「はー、結構海外からの観光客が多かったね」  優は、先に座席にどさりと座って、茶色がかったくせっ毛を手で掻きあげている。 「あ、じゃあ、昨日のUSJも初めてだったとか?」 「え、来たことあった?」 「そりゃまあ、ディズニーランドとかシーとかUSJとか、あと有名な歴史跡とかは家族で行ったよ」 「そっか……」  入場の前から大きく賑やかな音楽溢れていたテーマパークは、各エリアごとに違っていて、人がごった返して広くて、ただ呆気に取られて、三人の後を着いていくだけだった。  アトラクションのために並んだり、ジュラシックパークのスプラッシュダウンで、心臓が止まりそうになったり。  心身ともにヘトヘトになって、今日は心なしか、体が痛い。 「あ、でもUSJは何年かぶりかな?もしかして、ランドもシーも行ってない?」 「あ……まあ」 「葉司と行きたいな。こう――学校からじゃなくて二人で」  最後のほうは囁くようで、優がそう思ってくれることに、頬が上気した。 「優、ちょっと静かにしろ。移動の間に寝るから」  ひょいと剛田が前から顔を出して、やや不機嫌そうに太い眉をしかめて見せた。 「え、ごめん。てか、寝る?」  優が軽口を叩くと、剛田はちらりと俺を見た。 「俺は枕が変わると熟睡できねぇんだ。仁木も寝とけよ、先は長いんだから」  先は長い――まだ二泊、あとまだ二泊。 「はいはい」  優はひょいと肩をすくめて、頬杖をついた。  その横顔は、ざわめきの中で動き出したバスの、過ぎて行く緑色の景色を背景に、くっきりと浮かび上がって、確かなものに見えた。  それを眺めているうちに、バスの揺れの中で、ふっと眠気に襲われていく。  昨日の疲れと、寝不足で、俺はうつらうつらと浅い眠りに落ちて行くのを止められなかった。  その時、右手の甲に、すり、と温かな感触が触れた。  重たい瞼をかすかに開けると、優はこちらを見ずに頬杖をついたまま、左手の甲を俺の右手にぴったりとくっつけていた。  触れ合った手の甲から、じんわりと温もりが広がっていって。  そこだけがひどく熱くて鼓動が高鳴るような、それでいて、心は包まれて安心するような。  相反する想いに戸惑いながら、俺は抗えない短いまどろみの中へと落ちて行った。  眠れない夜が引き起こす出来事に、この時はまだ、何の予感もないままに。

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