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第15話 目覚めたら、心も傷痕もひらいて見せて②

「ありがとうございました」  髪の毛をおざなりに拭いて、まだ湿ったまま、カットソーとズボンを着て、シャワーを借りた教師の宿泊部屋を一礼をして足早に出た。  修学旅行の一泊目と三泊目は、ホテルで各部屋にユニットバスが付いているけど、今夜は旅館で、大浴場を使用の予定だった。  プールにも出席しない俺には、教師の宿泊部屋の内風呂の使用が許された。 割り当ての部屋に戻ると、和室の真ん中で、優がパッと顔を上げた。 「葉司」 「仁木、今から大風呂行こうぜ。連行!」  原が、がしっと肩を組んで来たから、迅速かつ丁重にその腕を外した。 「いや、もう入って来たから。俺はいいや」 「えっ、いつ?今?早ッ!まじか!」 「葉司?」  優は何か物問いたげに、少し首を傾げて、俺を見据えている。 「おーい、じゃあ俺たちで早く行こうぜ。帰りに、ロビーの店に寄りたい」  剛田はがっしりした首にタオルをかけて、ドアのノブに手をかけようとしていた。  その声にホッとして、俺は手にぎゅっと握りしめたままだった荷物を、部屋の奥へと降ろした。 「葉司」  声をかけられて慌てて振り返ると、ぶつかりそうな距離に、優がいた。剛田と原はもう部屋を出て行こうとしていた。 「なんだ、一緒に入れると思ったのに」  低めた声で、囁くようにそう言い、その指先がするりと首筋から鎖骨へとなぞっていく。  その感触と、いたずらっぽく微笑する瞳に、まるで射抜かれたように、俺は硬直して立ち尽くした。  心ごとその瞳に飲み込まれて、ふらりと後ろに倒れてしまいそうだった。  この部屋ごと何処か果てない夜の向こうへさらわれていくようで、この呼吸も時も止まってしまいそう。 「俺だけ風呂からすぐ帰って来るから。待ってて。分かった?」  すべての色を変えてしまいそうな、その声。  微笑だけを残して手を振った姿に、俺はかろうじて、少しだけ手を上げた。  ドアが閉まって、皆いなくなってから、俺はヘナヘナとその場に座り込んだ。  そっと優の触れた首筋から鎖骨を自分の指でたどってみる。  そこはまだ、まざまざと感触を残していて、刺さった棘のように抜けない。  ふと目を上げると、すぐ前に優の鞄が置かれていた。  白と青のツートンカラーの鞄は、あの優の家や部屋を思い出すようで、胸の奥から熱さが込み上げて、心はふらりと彷徨った。  昨晩はあまり眠らずに過ごしたから、渦のような目眩がやって来る。  移動のバスで取った仮眠で、何とか一日乗り切れたようなものだった。  優の温かな手の甲がずっと俺の手の甲に触れていて、鼓動は速まるのに、どこかうっとりとしていて、穏やかな浅い眠りの中にいた気がする。  ただ一晩、誰かと一緒に眠るのは、怖い。  熟睡してしまえば、またあの悪夢がやって来て、自分の叫びで目覚めてしまう気がする。  それがただ、怖い。  真っ白な吹雪の中で、目の前も見えずに、遭難してしまうような。  泥のような疲れに捉われて、畳みの上に倒れ込んだ。  このまま、少しでも休息しておかないと――  その時、自分の荷物の合間からスマホが鳴って、俺はそちらへと手を伸ばした。 「葉司!」 「ごめん。待った?」  部屋を出た廊下では、風呂の時間で大浴場へと行き来する生徒たちがわらわらといた。  その中を抜けて、エレベーターを通り過ぎ、奥にある人気のない階段へと向かって足早に来た。  その姿は、膝に頬杖をついて階段に腰掛けていて、長い黒髪がさらりと流れて、香ってくるようだ。 「んーん。待ってないよ」  桜色の唇でくすりと笑う。Tシャツでシンプルな格好なのに愛らしく見える。 「はー、最近、葉司と会えなかったから話したかったよぅ。来てくれて嬉しい。修学旅行中はダメかと思ってた。お風呂とか、大丈夫だった?」 「うん。俺はもう入ったし、部屋の皆は今行ってる」 「そっかぁ。良かった。ずっと一緒なんだよね?」 「ん?」 「小山田くんと」 「……」  俺はサッと頬が熱くなったのが分かって、片手で頬を覆った。 「ふふ」 「……」  からかうように片眉を上げた瑠奈は、微笑してどこか甘い表情で俺を見ていた。 「なんか新鮮」 「……」 「良いなー。私も鷹宮さんと旅行とかしてみたい」 「旅行たって、修学旅行だし」 「でも、ずっと一緒じゃん」 「……」  俺は何も言い返せずに、少しうつむいて言葉を探した。 「ほら、葉司座って」 「あ、うん」  隣に座ると、身を寄せてもたれかかってくる。  それはどこか白い猫のような仕種で、ふわふわと柔らかい。 「あー、葉司だったら安心するなー」 「え?どうした?」 「うーん、どうして葉司は平気なんだろうね。鷹宮さんだとすっごいすっごい緊張するのに」 「それは、好きだからじゃない?」 「おっ、言うねえ。そうか、葉司くんは小山田くんに緊張すんのか。瑠奈さんは聞いたよ?」 「だから……」  言い募ろうとして、瑠奈の目じりが仄赤いのに気付いた。 「瑠奈、どうした?」  真剣に言うと、大きな瞳のふちに、涙がいっぱい溜まっていく。 「どうして、好きなのに、怖いんだろうね?」  俺は華奢なその肩を引き寄せた。瑠奈は崩れるように倒れ込んでくる。 「キスのその先へ、行けるのかな、私」  それは、俺にも答えられない。  俺にも分からないからだ。 「なんか、レンアイのゴールって何?」 「何って」 「両想いになること?えっちすること?結婚すること?どこがゴールなの?どこに行ったら終わりなの?」 「終わりって……」 「どこに行ったら、これで安心ですよってスタンプもらえるの?私はそこに行けるの?どうしてこんなに怖いの?好きなのに、どうしてこんなに怖いの?」 「瑠奈……瑠奈、ごめん」 「どうして葉司が謝るの?葉司が何かしたの?葉司は私を助けてくれたよね?どうして私がこんな話をしたら、皆申し訳ないような顔をするの?」 「それは――」 「分からないよ。色々考えようとすると、頭の中が霞がかかって分からなくなる。鷹宮さんにどう話せば良いの?どう分かってもらえば良いの?ねえ、葉司は私の記憶にないこと、知ってるの?」 「……」 「鷹宮さんと、別れてしまって、ずっと一人だったら、どうしよう」 「瑠奈」 「なんだか怖いの、このまま一人なのは、とても怖いの」 「そうしたら――そうしたら、俺が、瑠奈といるから。ずっと隣にいるから。ずっと見守ってるから」 「嘘だよ。小山田くんがいるじゃん。私、なーんにも出来ないまま年取って一人ぼっちなんじゃないかなぁ」 「嘘じゃないよ。瑠奈を守るって、俺は決めたから」  わっと俺の腕の中に身を投げ出して、頬をすりつける。  その肩を抱きしめて、背中をのひらでやさしくトントンと叩いた。 「俺は――ずっと、いるから」  壊れそうな世界で、二人、見つからない光を探して。  俺は瑠奈の白い額に、自分の額をこつんとくっつけた。 「――昔、よくこうしたね」  瑠奈の黒い瞳からは、涙の筋が幾重にも落ちていく。  その苦しみは俺のせい。 「俺は瑠奈がいらないって言う日まで一緒にいるから。大丈夫だよ」 「うん……ごめんね」 「どうして?それは――俺のほうが……」 「ありがとう」  透明に零れ落ちていく言葉。 「葉司、ありがとう」  瑠奈の白い腕が俺の背に回って、ぎゅっと抱きしめてくる。  寒い夜に丸まった二匹の猫のように、俺たちはしばらくそうして寄り添い合っていた。  瑠奈が去ってから、しばらくぼんやりしていたけど、時間が経っていることに気付いて、急いで立ち上がった。 (すぐ帰って来るから。待ってて。分かった?)  頭の中で、優の言葉がリフレインする。  もうその約束は破ってしまったかもしれなかった――  階段を駆け上がった踊り場で、こちらを鋭い目で見つめる人影を見て、俺はぎょっとして立ち止まった。 「葉司、どういうこと?」 「……ゆ……う」  腕組みをして、じっと鋭く俺を見据えている表情を見て、俺は心臓が止まりそうになった。

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