16 / 45

第16話 目覚めたら、心も傷跡もひらいて見せて③

「どうして……ここ――に」  腕組みしたまま、微動だにしない優は、今までに見たことがない厳しい表情で、ただ俺だけを見据えていた。  俺は唇が渇いて、ただその表情を見返すのが精一杯だった。 「部屋にいてって言ったよね?いないから、探しに来たんだよ」  いつもの明るさのない沈んだ瞳に、呼吸が苦しくなった。 「葉司はすぐに見つかったけど――どうして、俺じゃなくて安住さんと会ってたわけ?」 「あの……見た、んだ?いつから――」 「いつからか、気になる?どうして?」 「その……」  瑠奈のことを何か聞かれただろうか?  瑠奈は、どこまで何を喋っていたか、停止しそうな頭で必死に思い出した。  今も、俺と瑠奈の胸には、七年前の時間が止まっていて、マイナスの冷気の中で凍ってしまっている。  それは乱雑に他人に扱われば、あっという間に粉々に壊れて、砕け散ってしまいそうな、心の血で濡れた真紅。 「こんなところで、隠れるみたいに、どうして二人でいたんだよ?」 「その――呼ばれたから」 「呼ばれたら、俺が待っててって言っても、行くんだ?葉司は誰と付き合ってんの?俺たちって付き合ってるんだよね?」  付き合ってる――  俺は、何度か瞳を瞬いた。  付き合うってどういうことだろう――  今さらながら、そんなことに立ち止まってしまって、俺は後退って背後の壁にぶつかった。 (レンアイのゴールって何?)  そう、瑠奈に問われたからかもしれない。  あなたに問えば、その答えは易々と見つかるんだろうか?  目の前にいる、誰よりも愛しいひと。  あのシティボートに二人して甲板に立って、夜風になぶられるまま、メリーゴーランドのように巡り巡ったイルミネーションのきらめき。  あの新緑のような壁に囲まれた優の部屋で、白と青の眩暈のように、その温もりを感じてくちづけた戸惑い。  とても会いたくて、その笑顔を見つめていたくて、そのずっと先の光のような輝きがあるだけで、俺の心を救ってくれたひと。 「俺が瑠奈といるから、ってどういうこと?ずっと隣にいるからって葉司はどういうつもりで言っていた?」 「それは――」  俺が最後に瑠奈の傷に留めを刺したからだ。 「一緒にいるのは俺じゃないの?どうして、安住さんに一緒にいるって、葉司は言うわけ?」 「今、瑠奈を、理解できるのは俺だけだ、と思う、から――きっとこの先はそうじゃなくなると思うけど……ただ、今は。そういう風に、俺が、してしまったから……」 「どういうこと?」  言葉はひりついて、この咽喉からは出ては来ない。  舌の奥が痺れたようになって、心臓がこのまま止まりそうになる。  ねえ、答えられたら、どれだけ楽だろう?  でも、話してしまえば、永劫に、俺は優の隣にはいられない。  そうか――どの道を進んだって、優の隣にずっといることは出来ない。  ただ俺の我儘で、一瞬でも一緒にいたかった。  そんな夢を、かすかなまどろみの中で一瞬見て、宝石の眩しさのようにこの胸に閉じ込めておきたかった。 「安住さんと、何してた?」 「優……」 「俺は葉司が好きなんだよ?他のやつとベタベタしてるのなんか耐えられない。葉司も逆だったら嫌だろ?」 「それは……でも、優が誰かを好きになることを、俺には止める権利は、ない……から……」 「え?じゃあ、俺が誰かを抱きしめてんの見ても平気なんだ?葉司が今していたみたいに。あんな風に抱きよせて、額をくっつけて、ずっと一緒にいるよって囁いていて、平気なんだ?」 「あ……」 「それじゃ桜井先輩と一緒じゃないか!」  痛みとも哀しみともつかない、涙をうっすらと溜めた、まっすぐな瞳。 「ごめ……ん……」  波打ち際に溜まった白い飛沫のように、その涙は優の瞳に留まって、俺は息も出来ずに苦しくなる。  優が、その心に持ったトラウマを、俺がもう一度、抉ったんだ。  そう分かって、瞬間に青ざめた。 「どうして、謝んの?やっぱり、謝ることしてたんだ?」  俺は何処に行ったって、ジョーカー。  ただ一点の黒い染みのように、決して拭えることのない汚れ。 「それは……」 「何?」  その傷ついた瞳を見ることほど、つらいことなんてない。  いつも下手を打って、こうして大切な人を傷つけてしまう。 「それは、瑠奈と俺は、いとこ、だから……」  それだけを喘ぐように小さく呟いて、息継ぎをした。 「いとこ?」  優はしばらく考えを巡らすように黙っていたけど、しばらくして呟いた。 「ああ……だから、なんか似てたんだ?葉司と安住さんは――」 「もうずっと小さいうちから一緒に居て――瑠奈が幸せになるのを見てたいだけで、それまで守りたいだけで……」 「昔よくこうしたね、って言ってたもんね?ずっと長い間、側にいて、こうして来たんだ?それってもっと性質悪いじゃん」 「ゆ……う……」 「安住さんの記憶にないってどういうこと?それと、葉司と、関係してる?ちゃんと聞かないと俺は納得できない。ちゃんと説明してくれるだろ?」 「それ――は……」 「葉司は俺のこと好きなんだよね?安住さんといとこだったって、何でもないってどうやったら、俺は信じられる?さっきの二人を見て、俺はどうやって信じたら良い?」  まるで、どこか縋るみたいに、矢継ぎ早に紡がれた言葉。 「このままじゃ、葉司を信じられない。葉司と安住さんって、いったい何?」  眉をきつく寄せて、苦しそうに哀しみ零れ落ちていく瞳を、真正面から見ているのも、心が痛い。 「答えろよ、葉司!」  その声色に、体はぐらりとよろめいて、背に当たる壁で支えた。  自分の体が冷たくなっていくのが分かる。  震えるな、唇。崩れるな、両脚。  ぐるぐると回り出した景色の中で、呼吸だけを浅く繰り返した。 「葉司!」 「もう……」  問わないで、愛しいひとよ。  これ以上、答えるすべがない俺を、忘れられない断崖から突き落とさないで。  この掌には、冷たい夜しかないのに、さらに光射さない闇へと追いやらないで。 「葉司――」  優が手を伸ばしてきて、振り上げた。  殴られる、と思ったけど、そのまま受けようと静かに瞳を閉じた。 「……ッ!」  伸びた手は、そのまま俺の肩をつかんでいた。  押し付けるように、激しくくちづけられていて、目を見開いた。 「ん……ッ!」  俺が驚いて、キスされたままに、優の腕を掴みしめると、ドン!と壁に押し付けられた。  肌の触れ合うところから、キスした唇のすべてから、火傷したみたいに熱くて堪らない。  バチン、と電流が走ったみたいに目の前が真っ赤になって、弾け飛んだ。  考える前に、体が反射的に動いていて、ぐいっと優の襟元を掴みしめて押し上げると、優の体の中からするりと逃れた。  震えるのを抑えて、咽喉をつかんだ。  息が出来ない。 「どうして?」  哀しい、震えた優の声。 「安住さんとは、あんなにくっついてたのに、俺にはキス一つ出来ない?」 「違……」  何が、一体、違うんだろう。 「俺のこと好きって、嘘だったんだろ……?俺のこと、からかってた?葉司、面白かった?」 「それは――違う……!だって俺は、本当に……」 「違わない!」  俺はビクッと身を震わせた。 「違わない!全部嘘だったんだ!俺のそばに二度と寄るな!」 「ゆ……」  もう俺の顔さえ見ずに、駆け出して去って行った背中。 (だから、仁木が好きだよ)  そう言って、温かな優しい眼差しを向けて、柔らかな微笑をしていた。 「あ……」  失ってしまったんだと識るには、時も心も、すべてが止まってしまっていて。  ふらりと床に崩れ落ちた。  ねえ、瑠奈、安心して。  小さな声で、震える肩で、泣いたりしないで。  夢から覚めたら、ずっともっと大人になって。  昨日の哀しみが今日の喜びになるように。  その日まで遠く、近く、見守り続けるから。  だって、きっと俺はずっと、これからも一人だから。  また暗闇の中で一人になって、明日は何処にも見えない。

ともだちにシェアしよう!