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第17話 目覚めたら、心も傷痕もひらいて見せて④
「またすげぇ遅かったなぁ」
しんと静まった真暗な部屋の襖を開けて、直後に声をかけられたから、俺は驚いて立ち止まった。
薄闇の中で見降ろすと、近くの布団に、剛田が肘をついて横になっていた。
真ん中に原が引っくり返って熟睡していて、その向こうの窓側に、優が背を向けて眠っていた。
「剛田こそ、遅くまで……」
「もう消灯とっくに過ぎてるぞ」
「ごめん……」
「まあ、座れよ」
剛田は入口すぐの空いている布団を指差して、俺はそれに従った。
頭はどこか現実感がなくて、自分の言葉がただ舌から唇へと滑って落ちていく。
「いとこなんだって?」
「え?」
「安住瑠奈と。優がそんなこと言い捨てて寝たけど」
「あ……まあ」
剛田は鋭い目で俺を上から下まで見て、それから興味を失ったように、ふいと目を反らした。
「仁木、引っ越したことってあるか?俺、十歳の時に引っ越したんだよ、親父の仕事の都合で」
突飛な質問に面喰らったけど、かすかに頷いた。
「親父はすぐに事件に当たって、その辺りからだな、俺が父親の背中を追うようになったのは」
「そうなんだ……」
「仁木は、将来何になりたいんだ?」
「それは、まだ――特に、何も……受験して、入れた大学で考えるかも……」
「そんなもんか」
「俺は、そんなもんだよ。国立大学なら、どこでも良いんだ」
「ふーん。自分で向いていることくらい、探しておいたらどうだ」
「そりゃ、そうだね……」
「人生、先は長いんだぜ。順当に生きられりゃ、学校行くより仕事していく年月のほうが長い。何か希望をかけられるものを探したって良いと思うぜ」
俺は少し黙ってから頷いた。
「そうだね……」
「ちゃんと寝ろよ」
「あ……うん」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
おやすみ――
どこか優しい響きの言葉。
こんな言葉を誰かに告げたのは、何年ぶりなんだろう。
背を向けた優の姿を目に入れないようにして、俺もまた背を向けて布団に横になった。
人を傷つけた衝撃は、自分が選びとった道の結果。
向けられた優しさも、好意も、希望も、自分自身を晒さないことと引き換えに、この手で打ち砕いてしまった。
傷つけることのないよう、幸せを願って、そっと見つめていようと思っていた愛しい心を、自分の運命のために傷をえぐってしまった。
鋭い棘のいばらの冠をこの頭に抱いて、血を流すままに、今もここで立っている。
何処にも行けず、裸足のままで、誰も俺の名を呼ばない場所で。
俺は、もう、仕方のない人間なんだ。
だけど、大切な人に涙させてしまったことが、いたたまれない。
午前は、集団行動で京都観光で名所を巡った。
俺はなるべく群れの端で一人になって、優の目の入らないところにいるように気を付けた。
夜は横になったまま、頭だけがグルグルと冴えて、舌が痺れて、胸の薄い皮が破れたように痛くて、とても眠れなかった。
太陽が黄色いとはこのことだ――
射してくる初秋の陽射しさえ、目にチカチカと眩しくて、痛い。
集団の後ろを着いていくのが精一杯で、、いったい何処を歩いて、何処に行くのかさえ朦朧として、足がもつれかける。
ふっと緑の木漏れ日に包まれて、下鴨神社で立ち尽くしている自分に気が付いた。
制服の集団は少し前を行ってしまっていて、俺は重い足で前へ歩き出した。
静謐な空気が辺りを覆っていて、瞼を閉じて、息を吸った。
眼鏡をかけ直して、慣れた仕種をして、安堵する。
世界とレンズ一枚隔てて、眼鏡のフィルター越しに見ていれば、何とかこの世界で生きていけそうな気がした。
バスでの短い移動は、優は原と並んで、先に前に座っていた。
「よう、仁木」
剛田は片手を上げて、男らしい顔で俺を覗き込んだ。
「ケンカでもしたか、優と」
「あの……俺が、悪い、だけ」
「そうなのか?優もあれで、きかん気なとこあるからな」
片頬で笑って、剛田は隣の席に、どしん、と座った。
「そう……なんだ」
たぶん俺の知らない時間を、幼い頃からたくさん過ごしてきたんだろう。
「そうさ。思わねぇか?まあ、長い目で見てやってくれよ」
「いや……あの――」
もう友だちでさえないんだ――
そう言い募りそうになって、剛田は頬杖をついて考え込むような顔をしていたから、何も言えなかった。
結局、剛田はそれ以上は喋らなかった。
昼食は和食処での班ごとにテーブルについての食事で、斜め前に優が座っていて、俺はとても箸をつけることが出来なかった。
何も食べずにじっとしていることも、優と会話しない不自然さも、とても耐えられなくて、俺は御膳を返そうと立ち上がった。
「仁木、食べてねぇじゃん」
原が俺を見上げて、いぶかしそうに言った。
「あ、こういうの、好きじゃなくて。ごめん、先行ってるから」
「おいッ」
声をかけられるのに振り向かず、俺は急ぎ足でそのテーブルを立ち去った。
御膳を返して、次の予定になっている、隣接する体験工房の建物のほうへと歩き出した。
食べ終わった班から、各自選んだ体験をするようになっている。
確か、陶芸を選んだと思うけれど、俺はとても出来そうにない。
ぼんやり歩いていると、斜め前に日本庭園が広がっていて、誘われるようにそちらへと行った。
白砂が敷き詰められて、それは波紋を描いていて、その上に景石が置かれていた。
これから紅く染まっていくんだろう、まだ青い紅葉の清らかな緑色と、木製の腰掛にかけられた布の緋色の対比が美しくて、俺は束の間、しんと立ち尽くしていた。
「お前ら、マジでケンカしたのか」
ぼんやりと振り返ると、シャツの上からでも分かる逞しい腕を組んで、剛田が呆れたように俺を見ていた。
「ケンカ……でも、ないよ」
「じゃあ何だ?そんなんで過ごすつもりなのか?」
「うん――ごめん。夕飯も行けないや。ホテルでの食事だったよね?俺、部屋にいるから――先生には具合悪いからって断っておくから」
「優が何か言ったのか?」
俺は力なく首を横に振った。
「俺から、優に言ってやろうか?事情は知らんが――ちっとはあいつも冷静になんだろ」
「言わないで――」
俺はサッと青ざめた。
剛田は難しい顔をして、俺を見つめた。
「そんな顔すんなよ。何て言ったら良いか分からん。ちッ、面倒だな、もう」
「ごめん」
「優だよ、優」
「……」
「別に、あいつが正しいってわけでもねぇだろ?どうせ。自分の言葉で、伝えなきゃなんねぇことは、言ったほうが良いぜ。人なんて、言わなきゃ分かんねぇこともあるし。優はこの学校で純金育ちだから、想像が追いつかねぇとこもあるしな」
剛田の低い声を聞いていると、同い年なのが不思議に思えてきて、少し可笑しかった。
「そんなの、剛田だって同じ育ちだろ」
「一緒にすんなよ」
剛田はちょっとムッとした顔をしたが、短髪の頭を大きな掌で擦り、大きく溜め息をついた。
「まあ、頼まれもしないことをやる趣味はない。夕方は部屋にいるなら、あっちに売店があったから何か買っておけよ。何も食べてないと倒れるぞ。体調管理ちゃんとしろ」
「あの――」
「何だ」
「ありがとう」
剛田は太い眉を寄せて、珍しいものでも見たかのように俺を見直して、それから、にやりと笑った。
「じゃあ、あとでな」
俺は黙ってその広い背中の後ろ姿を見送った。
ホテルの部屋で一人、買っておいた軽食を食べて、ザッとシャワーを浴びた。
鏡には、黒髪の、青白い顔をした自分が映っている。
伸びた前髪から切れ長の目が覗いて、疲れた表情で、どこか沈鬱にさえ見えた。
ようやく一人になれた部屋で、俺は隅のベッドにドサリと寝転んだ。
ずっしりと身体が重くて、睡魔はもう眩暈とともに頭中を浸食して、もう一歩も動けない気がする。
体力は極限を迎えていて、ここまで動いて来れたほうがいっそ不思議だった。
わずかに開いたカーテンから見える空は暗くて、そこだけは切り取ったように、いつも通りの一人の部屋と同じような気がした。
瞼が重くて、もう抗うことは無理だった。
いつしか意識は茫洋と沈んでいって、眠りの深海へとゆるゆると引きずり込まれていった。
ゆらりゆらりと、波間を漂うように、流される。
沖彼方まで何もない海で、ただ目も耳も閉ざしてしまって、いつまでも何処までも果てしなく沈んでいきたい。
このままあてどなく海鳴りに流されたい。
なのに、ねえ、遠くで誰かがうるさい。
どうして、このまま静かに眠りにつかせてくれないんだろう?
騒音のように、うわんうわんと頭にまで響いてくる。
「うわあぁぁーッ」
うるさい!と叫びたいのに、自分の口は固まってしまって、ただぽかりと開いているだけだった。
「うわあッ!ああッ!」
うるさいうるさい――
「仁木!仁木、起きろ!」
強く揺すぶられて、がくりと意識が真っ赤に弾けた意識の中へ放り込まれたのが分かった。
急降下して、俺は突然にあの何度も繰り返した場面へと放り出された。
目の前に迫った闇の人影に、俺は手をかざして、拒んだ。
自分の体が硬直して、それからビクンビクンと波打つのを止められない。
「うわぁッ!ああぁッ!」
自分の叫び声が止めどなく漏れて、痙攣して、そして手を伸ばした。
「瑠奈!瑠奈だけはやめろ!」
「仁木ッ!」
「ううぁ……ッ!」
ガバッと強い力が、俺の痙攣する体を押さえるのを感じた。
俺は叫びの止まらない口に無意識に手を突っ込んで、押し込んだ。
「仁木!やめろ!」
「ううぅ……!」
肌が破れて、血の味が広がっていく。
背骨までが軋んで、烙印のように焼き付けられた真紅のモーションを、俺は再び繰り返していた。
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