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第18話 目覚めたら、心も傷痕もひらいて見せて⑤

「優!何をボサッと見てんだッ?仁木を止めろ!」 「ど……どういう……」 「どうもこうも言ってる場合か!」 「な……何で――」  ひたりひたりと黒い人影は追いすがる。 「いや――いやだ……ッ」  跳ね上がるように痙攣した体で、自分の首を両手で絞めた。 「葉司――葉司!」  ぐいっと抱きしめられて、どこだか覚えがある体温と匂いに、ひどく混乱した。 「葉司、どうした?俺だよ、葉司」 「いや――いや!」  抗って、揉み合って、強く突き飛ばした。 「俺じゃ、ダメなのか……?」 「ダメでもやれよ!好きなんだろうが」 もう一度強く引き寄せられて、体ごと抱きしめられた。 「俺のこと――わかる?どうした?」  温もりは確かに覚えがあって、頬に唇に肩が当たっていて、清潔な匂いが体の中へと流れ込んでくる。 「落ち着いて――葉司」  その温かさと、優しい仕種。澄んだ風のようで、俺はふっと瞬いた。  意識の遠くで黒いパレードが鳴っている。  そして、目の前にはかすかな明るい輝きがあって、体ごと抱きしめられていることに震えた。 「葉司……大丈夫」  ゆっくりと頭を撫でられて、目の前の光景が開けていく。 「ゆ……」 「うん、そう。そうだよ」 「優……」  何度か瞳を瞬くと、そこは照明の明るくついたホテルの白い部屋で、俺は優に抱きすくめられて、そばに剛田と原が立っていた。  その時、外からドアをノックする音が響いた。 「おーい、大丈夫かー」  剛田がサッと顔を上げた。 「隣の部屋の和田たちだな。まあ、聞こえるわな……そうだ」  剛田が、原の腕をぐいっと引き寄せた。 「あ、え?」 「和田たちに、俺と優が喧嘩したって説明してきてくれないか?あと、空気がすんげぇ悪いから、俺とお前で和田たちの部屋で寝られないか、聞いてくれ」 「え――えぇっ?」 「交渉、得意分野じゃねぇか」 「まあね。って、いやいやいや、どこで寝るわけよ?」 「床に何か引きゃ寝れるだろ。お嬢さんでもあるまいし」 「いや、俺は粗雑にできてねぇよォ」 「ちッ、いちいち言わせるなよ」 「え、何がッ?」  剛田は、ぐるりと振り返って優を見た。 「もう、はっきり言って良いか?優。俺たちだけのことなんだから」 「……うん」  かすかな頷きの、優の返事。 「仁木と優は付き合ってる」 「は――え、えええぇっ?え、何?え、俺だけ知らなかったわけ?どういうこと?」  原は目を丸くさせて、それぞれの顔を見ていった。 「いや今の流れでも気付くだろッ?優が仁木を好きになった時に気付いたわ!そっから呼び方も距離感も変わってっし!」 「ええぇー?」 「とりあえず仁木が分からんけど混乱してんだから、優と二人にしてやった方が良いだろ」 「あー、そう……えーと、うん、分かった」 「とにかく和田たちに話してみてくれ」 「あー、はいはい。相変わらず無駄に人遣いが荒い奴だなー」  原は、髪の毛を片手で乱しながら、それでも立ち上がって部屋の外へと出て行った。    ガチャリとドアが閉まって、原がいなくなると、剛田は俺に向き直った。 「大丈夫か?」 「……」  俺の肩にまわされた優の温かな腕を、ゆっくりと外した。 「ごめん。そばに寄ったらいけなかったのに」  小さく呟いて、そっと謝った。 「葉司……」 「剛田、ごめん。迷惑かけて。修学旅行、来るつもりなかったんだ。やっぱり来たらいけなかったよね」  剛田は大きな溜め息をついた。 「何だ?どうなってんだ、お前ら?」 「葉司が、安住さんと昨日抱き合っていたから、俺が怒ったんだ」  優がうつむいて言うのを、剛田はじっと聞いていた。 「いとこなんだろ?」 「いとこだったって、抱き合って、ずっと一緒にいるね、なんか言われてたら衝撃だよ……」 「仁木と、話はしたのか?」 「……」  それから、おもむろに口を開いた。 「まあ、俺の話をしようか」  剛田は、優も俺も見ずに、部屋の中をゆっくりと歩き出した。 「俺は、父親の仕事の都合で、十歳の時に引っ越したんだ。神矢町に」  俺は瞬間、ギョッとしてと剛田を見上げた。  剛田は俺を見なかった。  そのまま話が続いて行く。 「引っ越してすぐに親父が担当することになった事件があった。同じ学年の、同い年のいとこの男児女児が連れ去りにあった。犯人は四十代無職、発見時には犯人と女児が意識不明、男児が傷害」 「子どもは無事だった……?」 「そうだな。どうしてだと思う?」 「それは誰かが通報して――警察の発見が早かったから?」 「いいや。警察の発見は遅かった。現場ではすべてが終わっていた」 「じゃあ、二人は……」 「助かった。男児が正当防衛したからだ」  俺は遠いさざ波のように剛田の話を聞いていて、そこでふっと微笑した。 「正当防衛……?良いように言えばだね……」  剛田はうつむいたまま、優はどこか固まった表情で俺を見た。 「俺は、衝撃を受けた。俺もその時、十歳だった。そんな現場で、大人と闘えたやつがいたのかと――俺ならどうしただろうかと。そこから考えた。俺も強くなりたい、と。俺は想像した。血濡れた現場で一人立つ少年を。それが、俺を警察官へと向かわせるきっかけになったことだ」  しばらく沈黙が落ちた。 「町内のことで、どこに載らなくても様子は流れてきた。女児は入院、男児はそのうち町から出て行った」  剛田は初めて、俺を見た。 「俺は最近、色々と迷いがあった。そんな時に仁木と出会った。自分の運命はやはり決まっているのだと――思い直せた。ありがとう。俺も前に進まないといけない。だから、明日にはこのきっかけの事件のことも忘れて、自分の道を作って歩いていくつもりだ。ただ忘れる前に、ありがとうと言いたかったんだ」  俺は返事をしなかった。  剛田は何も言わずに軽く頭を下げると、そのまま背を向けて、ガチャリとドアを開けて部屋を出て行った。  しん、と部屋にさらに静寂が落ちる。 「さっきの……」  優の掠れた声が、ベージュ色のカーペットに落ちて吸い込まれていく。  俺はそれが目に見えるようで、じっと床を見つめていた。 「さっきの……男児と女児っていうのは……仁木と、安住さん……?」  俺は答えない。  それがすべての答え。  オール・イズ・オーバー――塞がれてきた七年の時間を、人前に晒して。 「仁木が、安住さんを、助けたから……だから、安住さんを……ずっと守るって、言ってた……?」 「俺は、瑠奈を、助けてなんかないよ」  俺が急にはっきりと告げて、優をまっすぐに見据えたから、優は驚いたように茶色い瞳を大きく見開いた。  その澄んだ瞳の色、清らかで温かな指先、なめらかな頬にさす無垢な血色。  俺が持たないすべての、憧れ。 「俺は瑠奈を助けてない」  静寂が二人の間を訪れて、この部屋ごと包んでしまう。  どこか彼方の遠くから、かすかに響いてくる。  アポカリプティック・サウンド――終わりの音が聴こえる。  第七の天使がラッパを鳴らして、神に選ばれなかった人間は終わりに飲まれていく。  ねえ、優――その前に、俺という刻印をその心に刻んで良いかな?  すべてを晒して、その心に、俺という闇を落としてしまっても良いかな? 「ごめんね、優」  出会ったその時から、きっと。  俺は静かに息を吸い込んだ。

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