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第19話 目覚めたら、心も傷痕もひらいて見せて⑥

 怖いくらいに孤独。  そこは奈落の底の、さらに果て。  寄せては返す黒い波のように、夢は繰り返しやってくる。  明日を眺めることもなく、明日を望むすべもないまま、あの日の場所に、今も立っている。  舌の奥が痺れて、このまま生きてはいけない。  何も答えも出ないままに、ただ時は過ぎて、夜にじっと息を潜めている。  目の前で赤く広がる向こう側には、影がいる。  誰かこの胸の棘を吸い出して、この記憶を、連れ出して欲しい。  さあ、この綱渡りのような、赤い夢をひらいて見せて。  ほら、ごらん。やって来た。 「葉司―」  また俺はあの夢の住人になる。  もう七年前から何度も何度も繰り返し。  目覚めれば消えても眠ればまた戻ってきてしまう。  もうやめたいのに。  このリピートを止められない。 「葉司―」  鈴のなるように可愛らしく高い声。  この声をきくと振り返ってしまう。  振り返ってはいけない、振り返ればまた繰り返されてしまうと分かっているのに。 「瑠奈」 「ねっ!」  走って追いかけてきて飛びついた可憐な姿。  黒い髪が肩でゆらゆら揺れていて、まるでうつくしい日本人形みたい。  真新しい水色のワンピースのフリルの裾が揺れて、ひざのあたりでヒラヒラ舞っている。  こっそりと自分のグレーのパーカーの汚れを指でこすって、隠した。 「剣道道場もう終わり?」 「うん」  竹刀や道着の荷物を持ち直すと、瑠奈に並んで夕焼けの下の道を一緒に歩いた。 「お母さんの手がかり、何かあった?」  首を横に振ると、瑠奈は白い顔を曇らせた。  お母さんが家から居なくなって二週間、お父さんは何も言わないし、何が何か分からないまま、日を過ごしている。 「おうちには、全然?」 「何にも――ない」 「そっか……あ、また、アザ」  サッとパーカーの袖を引っ張って隠した。 「お祖父さんの道場、厳しい?」 「まあ――ね」 「勿体ないな、こんな傷。葉司、綺麗なのにな」 「俺は……全然」 「今日は、どこ探しに行く?」 「もう家も、他も探したし……もう手がかりがあるようなところは」  瑠奈は卵なりの顔を、こてんと傾げて、しばらく考えていた。 「うーん、葉司のところの、あの林道沿いの蔵はどう?」 「物置だよ、あれ」 「お母さんのもの、何かないかな?思い出の場所の手がかりとか――どこかに行ってるのかもしれない」  瑠奈は俺の返事を待たずに、行き先を決めてしまうと、どんどんと先へと歩いて行ってしまった。  俺は慌ててその水色の背中を追い駆けた。  夕暮れも沈みかけた林道は人気もなくて、うっすらと暗くなっていく。  ひらりひらり舞うワンピースの水色が、その中の色彩だった。  瑠奈に追いついて、古い蔵の木戸の、簡易な錠を抜いてしまうと、俺は片手で扉を押し開いた。  入口で竹刀と荷物を置いてから、中を見回すと、独特の埃っぽい匂いがする。  壁伝いに手で探って、スイッチを入れると、天井の裸電球のオレンジ色の灯りがぼんやりと点いた。  背後でガタン、と荒い物音がしたので振り返った。 「瑠――」  俺は後頭部に激しい痛みを受けて、そのまま目の前がまっくらになった。 「葉司――葉司!」 「ああ……どこまで、話したっけ……?」  肩を揺すぶられて、俺はベッドに座って、隣にいる優に話していることを思い出した。  俺は眼鏡を外すと、こめかみを指先で押さえた。 「母親は、父親からの経済DVで耐えられずに失踪したんだ」  今なら分かること。探しても仕方ないって。 「それと――男は、前からこの辺りに出没していたらしい。痴漢をしたり……人通りの少ない場所だった。俺は、入口に置いておいた、自分の竹刀で頭をふいに打たれて気絶したらしい」  頭が割れるようにガンガンと痛かった。  なんとか霞む目を開けると、黒くこんもりした大きな影が暗闇の中でうごめいていた。 「俺は、叫んだけど、あれは声になったのかな……」  見た光景に、息が止まってしまったから。 「大きな影の下に、気を失った少女の体があって、影はそれを撫でまわしていた。その少女が瑠奈だと気付いて――」 (瑠奈……ッ!) (やっと、起きたか)  奇妙な笑い声。 「影に突進されて、逃げようとしたけど、足をつかまれて転がされた」  抵抗したけど、男は力づくで胸の上に馬乗りになった。  その時に、床に擦れる背中や脚がざらりと痛くて、自分が全裸なことに気が付いた。 「打たれて気絶している間に、脱がされていて、ただその間のことは記憶にないんだ」 (二人そろってるとは運がいいなぁ) 「あれは、ペドフィリアなんだな。たぶん女も男も関係なかったんだ」 「そんな……」  何かがぬるりとあごに当たり、それで口元をぐいぐいと突かれた。  思わず押さえられず金切り声が出た。 「男はナイフを持っていて、俺が抵抗すると、叫んで、逆上した」  空中に銀色のきらめきが光って、ドン、と内股に熱湯をかけられたような衝撃が走った。 「俺は、内股と、それから下腹を刺された」  地面を転げまわっていたのは、あれは誰?  遠くから、悲鳴みたいなかぼそい声。 (おまえも起きたか!) 「男は瑠奈に突進したんだ」 (瑠奈!瑠奈だけはやめろ!)  目の前が真っ赤に燃える。  自分が何者でどこにいるのかさえももうわからない。 「立ち上がって、流れる自分の血を踏んで、俺は床に転がっていた竹刀を震える指でつかんだ」  男はいま背を向けている。 (うわああああーっ!) 「上段の構えで、渾身の力で竹刀を振り下ろしたんだ。何度も、何度も。あれは、瑠奈を守るためだったの?自分の怒りのためだったの?どちらだったんだろうね」 「そんな――」 「俺が瑠奈の前で、あんな流血を見せてしまったから、瑠奈はしばらく口もきけずに入院してた。犯人は半身不随。瑠奈は、この記憶は失ってる。ただ自分に何かあって、俺が助けたって思ってる」 「だって……実際、そうだろ――?」 「俺は、瑠奈を守ってなんかない。俺が母親を探さなかったら。あの場所に行かなかったら。そしたら、瑠奈はもっと幸せで、俺になんか頼らなくてもよかったんだよ」  ふふ、と笑いが口をついた。なんだか可笑しかった。 「だって――葉司だって被害者じゃないか!」 (おまえは、なんということをしてくれたんだ!) (瑠奈を守りたかったんです) 「父親は言った。おまえは、加害者だと」 (会社にもいれやしない。おまえのことお祖母さんに頼んである) (お父さん、ごめんなさい) (葉司は私を守ってくれたんだよね。私のナイトだね) 「目覚めた瑠奈の笑顔のきらめき。それが支えで、俺はそれに頼った」 「葉司は、一人で苦しんでた――」 「違う。それは瑠奈だ。彼氏ができたのに、瑠奈は怖いんだ。心の奥で覚えてるんだ。苦しんでるのは、瑠奈だ」 「それ……は、葉司だって一緒じゃないか!」  ガクガクと体をゆすぶられて、視界がはっきりしない。 「ああ――瑠奈も俺も、二人なら大丈夫なんだ。お互いに手をつないで、寄り添っても。たぶんきっと、同じあの瞬間にいた二人だから。でも、俺も瑠奈も、他の人間と触れ合うのは怖いんだ。何か重ねてしまいそうで」 「ごめん――知らずに責めて……」  俺はそっと首を横に振った。 「だから、瑠奈が良くて、優とキスがいやだとか、そういうわけじゃないんだ……ただ――」 「ただ怖かっただけなんだな……」  溜め息のように優が呟いて、思わずその顔を見上げた。 「一人で苦しませて……ごめんな」  俺を正面から見つめるまっすぐな瞳から、涙が溢れてこぼれていった。 「ゆ……う……」  優のなめらかな頬をつたう涙は透明で、どこまでも澄んでいた。  その涙が俺の手にぽたりと落ちて、小さなきらめきと温かさになった。  小さなきらめきは、そこからゆっくりと広がっていくようで、初めて知るような不思議な感覚に、俺は手をかざして見た。  宙に上げた手を、優の指に絡めとられ、ぎゅっと握られて、俺はビクッと縮こまった。  けれど、それは俺の手に落ちた小さなきらめきと同じ温かさで、清らかな優しさを感じた。 「ごめん――その時に、一緒にいてあげられなくて……」 「え……?」  優は片手で、俺の頭を繰り返しやわらかく撫でていた。  そうされると、まるで良い子になったような不思議な感覚に捉われて、俺は目を閉じた。 「葉司……俺は――どうして今出会ったんだろう?どうしてその時、俺が葉司を守ってやれなかったんだろう?その時に飛んで行って、俺が葉司と安住さんを守りたいよ――葉司、怖かったね……」  自分の唇が震えだすのを止められなかった。 「優……!」  気が付くと、自分の頬を、涙はあとからあとから溢れていて、俺は震えながら泣いていた。  優が俺の頭を抱き込むと、その肩に、俺の涙も震えも吸い込まれていく。  限りない優しさに包まれて、俺は泣いていた。

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