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第21話 雨上がりの空から、虹色のしずく①

 強く過ぎていく風が、砂埃を舞い上げた。  びゅう、と俺の髪をなぶっていって、黄昏の街並へと吹き過ぎていった。  学校の裏門へと向かう道は、木々に囲まれて緑に溢れた丘陵になっていて、一帯の住宅地が向こうへ見えた。  俺はスマホと取り出して時間を確かめて、それから何もメッセージがないことを確認した。 「もう少しかな……」  校舎から続く道は、どんどんと細くなって、草むらや木々の茂みに囲まれている。  中等部、高等部と同じ敷地内にあるこの附属学校は山手にゆったりとした広さを取られていて、だいたいの生徒が、駅から近い、白く大きな正門から登下校している。  この裏門は、簡易で狭いゲートから、階段を降りていって、住宅街へと続くようになっている。  大回りすれば、駅へと行けないこともないけど、山側の住宅街に家がある生徒くらいしか、こちらへは来ない。  ここで待ち合わせする相手は、たった一人。 「葉司!待った?」  振り返れば茶色いくせっ毛をなびかせて、片手を上げて、すらりとした長身で駆けてくる優がいた。  その笑顔を見るだけで、愛しい想いが胸の奥に迫る。  西風みたいに駆けてきて、隣へとぴたりと身を寄せて並んだ。  長い指が、俺の指を包むようにぎゅっとつかんで、それから離れていった。  一瞬のことだけど、言葉を失ってしまうくらい、鼓動が跳ね上がった。 「優は時間、大丈夫?」  俺は優を見られないまま、訊いた。 「あ、うん。ちょっとはね」  二学期の中間考査は終わっているけれど、優には予備校の模試が今週末に迫っていて、ここ毎日は下校して予備校に通っている。  電車に乗って、別々の駅に降りるまでの下校の時間を、なるべく人気のない道を、こうして二人で帰るようになった。  裏門へと続くひっそりとした、緑の木々に囲まれた細い道と、閑静な住宅街を通って、駅までをなるべく大回りして帰る、誰にも言わないデート。  修学旅行から帰って来て、同じクラスで会っているけど、そこはもちろん二人の関係を持ちこめる場所じゃないし、街の何処かにも、俺たちが寄り添う場所はなくて。  同級生たちは、イベントが一つ終わって、受験へと力を入れていく雰囲気になっている。 「あー早く模試終わりたい」 「うん、日曜日は頑張って」  俺もそろそろ、受験に向かう色んな算段をしていかなくちゃいけない。  とりあえず情報を集めてから、計画を練って、どのあたりを狙っていくのかも、そのうち―― 「葉司?どうかした?」 「あ、いや……俺も、そろそろ色々と考えないとなって」 「そうだな。一緒に考えような」  まっすぐな茶色い瞳が、俺を覗き込んで、にこりと笑った。 「あ……うん」  YES、と優の言葉に返せる幸せ。  優の掌が、後頭部を撫でるようにさらりと滑っていって、秋の風に吹かれるままに、俺は熱い頬を晒している。  夕暮れをこうして並んで歩いているだけでも、少し前にはとても考えられなかったこと。  この胸はときめきに弾けて、揺れている。 「模試の次の日、祝日じゃん?どうする?」 「どうする、って?」 「え、予定あった?」 「え、ない……けど」 「じゃあ、会おうよ」  そう言って明るく笑う顔は、頬がサンセットに染まっていて、ふっと見惚れた。  一日会えるんだ――そう思って、喜びで胸が詰まってしまう。 「……うん」 「良かったッ!もう修学旅行から帰ってきて、全然二人の時間ないじゃん!学校でも無理だし、なかなかデートする日も合わないし。もー葉司が足りない」  どう答えて良いか分からないまま、自分の心は伝えたくて、言葉を探した。 「俺も、優と――いられたら、嬉しい」  そう言って見上げると、視線がぶつかって、頬が熱くなるのを感じる。  優の指が、するりと俺の頬を撫でていくようにすべって、肩でつと止まった。 「じゃあさ。あの、俺の――」 「あの海に行きたいな」 「えっ?あのさ――」  優は少しびっくりしたみたいに、俺の顔を覗き込んだ。 「優が、前に俺を連れて行ってくれた、あのシティボート――今度は昼に行ってみたいな。すごく楽しくて、キラキラしていて、忘れられなくて――夜の空を見るたびに思い出して……」  優が何か言いたそうにしているのを見て、はっと口ごもった。 「ご、ごめん。優にはつまらないよね……」  ぐいっと腕を引っ張られて、道から木の茂みへと逸れた。  もうすでに裏門に来ていて、ぐるりと学校を囲む塀がそこに続いている。  あ、そうか。もうここだ――  学校を出る直前、塀に背をもたせかけて、俺の頭はかすむように考えられなくなってくる。  そこは道沿いの茂みでいっそう覆われていて、道から外れて茂みに入ってしまえば、人からあまり見えない場所になっている。  春にはこの裏門には桜が二本立っていて、薄紅の花弁が重なり合って、あえかな色づきを見せていた。  二年になった始業式の帰り、春の光に手をかざしていた時に、ここで優に出会ったことがある。  もう優には忘れてしまったことかもしれない。  桜は、いまは少し冷たい風に吹かれて、赤く染まった葉をひるがえし、砂利道に落ちて行く。  夕刻に、さくらもみじは、秋にだけ見せる美しいきらめきを放っていた。  塀に肩を押し付けられて、それから頬を温かな両手がゆっくりと囲った。 「葉司……」  端正な顔が近付いてきて、俺は言葉も失って、呼吸の仕方も忘れそうになって、ぎゅっと目をつぶった。  頬を掌で挟まれたまま、くちづけはそっと、ひそかで、それなのに重なった唇から流れ込んでくる熱さは確かで――  二人で帰るたびに、この場所で、キスしている。  もう何度目かわからないくちづけは、今でも心拍数を押し上げて、まだ慣れそうもない。  舌が唇をノックしてきて、おずおずとうすく唇をひらくと、柔らかな舌が唇のふちを舐めとっていく。  意識はズームアウトしそうで、息も出来ずに溺れてしまいそうで、思わずその肩を指でつかんだ。 「ん……ッ」  性急に舌が唇を割りひらいて、吸いとってしまいたいみたいに、舌が舌にからんで、もつれ合う。  熱い吐息も、擦り合う舌も、何度も角度を変えて重ね合う唇も、どちらのものかわわからなくなるまで、混ざり合って、乱れていく。 「ん――んっ!」  優の指が、首筋から耳朶をくすぐるようにまさぐり、それから衿の中へと入って来ようとして、ビクッと身を縮こまらせた。 「ゆ……」  身を突っ張って、うつむいて唇を離すと、反射的に優の腕をつかんだ。 「あ――ごめん」  優は、ふっと気が付いたように動きを止め、それから、力が抜けたように、ガバッと俺を抱きしめて、俺の肩にその顔を下ろしてうずめた。 「ちょっと――ちょっと、こうさせてて」 「う、うん……」  いつも通りでない掠れた優の声に、どう返事して良いかわからないまま、俺は身を硬くして立ち尽くしていた。  昨日までとのやさしいキスとも違っていて、俺はどう対応して良いかわからずに、俺の肩に顔を伏せている優の、呼吸に上下する背中をそっと撫でた。 「はー、やばい」  顔を上げた優の表情は、どこか上気しているようで、その初めてみるような眼差しに、わけもなく鼓動が高鳴った。 「葉司、大好き」  真摯な瞳のいろに見つめられて、もう何処へも行けなくなる。 「俺も、優が……大好き」  溺れるように、息もつけずにそう言うと、まるで今まで知らない世界へと飛んで行くよう。  愛するひとに、言葉を告げられる幸せに、ただ胸がいっぱいになって漂っていく。 「優、時間は?」 「うん。行かないと、だな」  優が俺の手をぎゅっと繋いで、茂みから砂利道のほうへと出ようとしたから、その手を引っ張った。  そっと指を外していって、それから鞄を持ち直して、優と並んで歩く。 「ここからは、友だち、でなきゃ」 「葉司――あーもう早く大人になりたい」 「どうして?」 「なんかもう、色々とッ。自由になりたい」  溜め息みたいに言う優の、視線を落とした横顔を見つめながら、肩を並べて裏門から階段を降りていく。 「あのさ……いつも、あの場所だね……人通りがあまりないからかもしれないけど……あそこで俺と優、会ったことあるんだよ」 「うん、知ってる」  きっぱりと頷いた優の返事に驚いて、俺はその顔を思わず見上げた。 「ね、葉司。俺にずっと笑っててくれる?」 「うん。もちろん」 「今度の祝日、一日ずっと一緒な」 「うん」  ふいに優は俺の肩をぎゅっと引き寄せて、それからパッと離して、唇を引き結んで歩いて行った。  優といると、この心はふうっと息を吹き込まれたように、色づいて回っていく。  空へと舞って、何処までも飛んで行くようで、その目的地は一つしかなくて。  ほんの少し先へ行く背中を追って、俺は駆け寄った。  優とのデートのための、初めての待ち合わせに、心はふわり踊って、好きという気持ちに膨らんでいった。

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