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第23話 雨上がりの空から、虹色のしずく③

「やっぱり葉司も着替えたら?」  二人きりの部屋で、シャツを脱ぎ捨ててしまった優が、目の前に立っていて。  俺はただ動揺の中に放り込まれて、立ちすくんでいる。  首筋から鎖骨にかけてのくぼみの影、肩から胸へのしっかりと引き締まった筋肉、縦長のヘソに、なめらかな肌色。  とてもバランスが取れていて、躍動感のある肢体。  まじまじと近くで誰かの肌を見たことなどほとんどなくて、その均整の取れた上半身を目にして、我知らずにうろたえてしまう。  胸の二つの淡い色――そこまで見て、俺は思わず目をそらしてうつむいた。 「ちょっと待ってて。これで良い?」  優は引き出しから、きちんとシワなく折り畳まれた白い開襟シャツと、カーキのコットンパンツを差し出した。  目じりを下げて笑う無防備な笑顔に、俺はなんだか後ろめたい気持ちになって、おずおずと差し出された服を受け取った。  手にしてみると、優の服からふわりと良い香がした。  それは、優のお母さんが洗濯したあとで、その香に包まれながら、俺は少し服を指先でなぞった。 「俺は、これでいいや」  作りつけのクローゼットに向かったまま、優がズボンまで脱ぎ出したから、俺はくるりと後ろを向いて、ベッドの方へ向かった。  優が着替えている間に、さっさと着替えてしまおう――  そう決めて、俺はカットソーを急いで脱ぐと、借りたシャツを素肌に羽織って、ボタンも留めないままに、ジーンズを脱いで床に落とした。  後で畳もうと思って、慌てて借りたコットンパンツを手にしようとかがんだ時だった。  背中に、どしん、と衝撃を受けて、俺はよろめいた。  優の重みが背中にかかっていて、ドキンと心臓が跳ね上がる。  こういう優の急な行動は、とても心臓に悪いし、いちいち息が止まりそうになるんだけど、背中にかかっている、この贅沢な重みに、何も言えなくなってしまう。 「我慢しようと思ったけど――なんか、俺――」 「あの、優……」  薄いシャツ越しに、優の素肌が触れていて、脚なんか、もろに肌と肌が触れていて―― 「やっぱり、無理」 「え、何……」  シャツの衿から、指が滑り込んでこようとして、俺は思わず反射的に、衿を手でぎゅっと握りしめた。 「ダメ?ちょっと葉司に触るだけ。いやなことしないから」 「え、え……?」  急な展開に頭はついていってなくて、余計に体は強張って、優を振り返ることができなかった。 「葉司が、ここで脱いでると思ったら――」 「脱い……着替えてたらそりゃ……」 「葉司の裸見たい。指、外してくれる?」  つーっと手を指先でなぞられて、俺はビクッと縮こまった。 「俺の裸なんか見ても……」 「えっ、ダメ?なんで?もう前に見たよ」  そうだ、修学旅行で傷痕を見せた時に、目の前で脱いだんだった――  意表をつかれて、一瞬脱力してしまった。  その隙に、どさりとベッドに押し倒されて、器用な指がするりとシャツの裾からめくりあげてしまった。 「ん。そう、これ」  こんな時までも、笑顔は相変わらずお日様のようで、俺はめまいに襲われた。 「触りたかった。思った通り、きれいな肌してる」  胸から腹を、確認するように掌が撫でていって、俺は頭が真っ白になって、とにかく止めようと優の腕をつかんだ。 「触るのダメ?たぶん葉司が本気で抵抗したら、俺に勝ち目ないから――俺は頼むしかないんだけど」  優は少し考えながらそう言った。 「好きだから、ぜんぶ見たい。好きだから、触りたいし、触って欲しい。そういうの、ダメ?いやな感じする?」  そっと優の体が上から重なってきて、初めて肌で識る、優の肌の感触と温度に、ぐるぐると頭が回る。 「優は格好良いけど、俺は……痩せてて格好良くないし……うまくできるか、わからないし……」 「えー、俺なんか最初のほう失敗ばっかりだったけど……あ、まあ、これはいいや。葉司は綺麗。だし、なんか、見てたら……」  優はふう、と息をついてから、くすぐるように耳朶から首筋を撫でていった。 「前に見てから、葉司の裸が、頭の中グルグルしてさ――触ったらどんな感じなんだろう、とか。肩とか、腹とか、太腿とか、ちく――」 「わッ」  優の指が胸先をすべっていったから、俺はビックリして思わず声が上がってしまった。 「どんな反応なんだろう、とか」  くすくすといたずらっぽく笑って、俺を見る眼差しはやさしくて、俺は言葉を失ってしまう。 「ごめん。今日は初めから、こういうつもりで葉司を部屋に呼ぼうと思ってた。もちろん葉司の大丈夫なところまでで良いんだけど。葉司が許してくれないと、俺は何も出来ないよ。ダメ?俺のこといやになった?」  ゆっくりとした丁寧な口調だった。 「いや……なんて……」  気の利いた答えなんて何も見つけられずに、ただ口ごもった。  この胸に巣食う恐れを連れ出して、優の望みに上手く応えられたら良いのに。  そんな夢みたいなことは起こらずに、体は硬直して、優の重みに気が遠くなる。  この世界をさかさまにして、優の望みを叶えられる自分に今すぐになれたら良いのに。 「ごめん……俺じゃ、なかったら……いいのに」  冗談みたいに言おうと思って、でも上手く笑えずに、ただ唇は強張った。 「葉――」  流れそうな涙は何のため。  ただ遠くから見つめていた光に、これほど近付いて、奇跡みたいな瞬間に、こんなことしか言えない自分が情けなかった。  優を傷つけるくらいなら、自分の恐れなど投げ出してしまったほうが良いのに、心はせめぎ合って、答えを見つけられない。 「大丈夫、優。俺は、大丈夫」  自分に言い聞かすように、真っ白な頭のまま、俺は絞り出すようにそれだけを繰り返した。 「葉司、俺――無理させてる?キスも大丈夫になったから、俺、焦ってる?」  俺は強く首を横に振った。 「葉司、遠くに行かないで。俺だけを見て。ほら、ここにいるの、俺だよ」  首筋に息がかかり、それがつと上がってきて、頬をくすぐるようにキスが落ちた。  柔らかで清潔な吐息は、確かな優の存在で、心に分け入ってくるようだった。 「俺に触って、葉司」  囁くような低い声で、じっと俺を覗き込む。  その瞳は、今までに見たことのない色をしていて、見てきた姿からは想像もできなくて――  茶色い瞳は追い詰められたようでいて、それなのに、あやしく光るようで、俺は魅入られていた。  その長い指が俺の指をからめて握った。  優は、俺の手を自分の首筋へと押し付け、それから肩へとすべらせた。  掌にはしっかりとした優の肌の感触があって、ためらいがちに指を伸ばしてみた。  それから、両手で優の頬に触れて、不思議な気分で、首筋、肩、腕、胸元へと掌へとすべり下ろしていった。  数十秒のことなのに、長い時間が過ぎていったみたいに感じる。  ここに、優が生きている。  その当然みたいなことが、こうして触れていると、まざまざと伝わってくるみたいで、しばらく優に触ることに夢中になっていた。  とても大切な時間に思えて、この両手いっぱいに優の命を感じて、それをさらに確かめたくて、もっと触りたくなる。  背中に手を回すと、それまでじっとしていた優が、ふいに俺を抱きすくめた。 「葉司――」 「……優」  好きだ――  愛しさで身動きがとれなくなるほど。  どちらからともなく唇を触れ合わせて、それを何度も繰り返した。  胸と胸をぴったりとくっつけて、肌を寄せ合って、指と指をからめて、確かめるようにくちづけ合う。  自分の呼吸が上がっていって、ただもう目の前には、優だけしか見えなくなった。

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