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第34話 花ひらく星月夜⑧
まどろみの中から浮上すると、とても安らかな体温と匂いに包まれていた。
「葉司、起きた?」
すぐ頭の上から声は降ってきて、部屋はもう薄暗くなっていた。
「優」
そっと名前を口にすれば、茶色い瞳が瞬いて、俺を見つめた。
優の腕に抱かれたまま目覚めて、思いがけないほど静かな安らかさに、心は満たされている。
ずっと一人でいたこの部屋で、優に抱かれて眠っていたことが、ひどく不思議に思えて、どこか夢の中にいるようだった。
「まだ、眠い?」
俺は首を横に振って、優の首筋に鼻先を押しつけた。
優の匂い、温かさ、それは優がここにいるという確かな証拠で。
ふっと、自分がちゃんと服を着ていて、体も綺麗にされていることに気付いた。
「ごめん、俺――優が綺麗にしてくれた?」
「うん。勝手にタオル借りたよ?」
「あ、うん……ごめん」
俺は、自分が情けなくなって、うつむいた。
「俺、寝落ちするとか、ありえない……」
「なんか電池切れみたいになってたよ」
優にくすくすと笑われて、ますます自分がいたたまれなかった。
「ほんと、ごめん」
「うーん、いっぱい頑張ってくれてたんだなーって思って、葉司の寝顔をずっと見てた。もっと好きになったし、ずっと大事にしたいなって思って見てたよ」
優は、俺の額にそっとキスすると、ぎゅっと手を繋いだ。
「俺も、優が好きだよ」
この心のすべてを伝えたいけど、そんな言葉しか出て来ないのが、もどかしかった。
しばらく手を繋いだまま、優しい沈黙が落ちた。
ふと、優が顔を上げて、首を傾げた。
「葉司、お腹減らない?」
「あ、ごめん。俺が寝てたから夜になっちゃって」
「母さんの料理、食べよっか?」
「あ、うん。じゃあ電気つけて用意……」
立ち上がろうとして、ビリッと体に痛みが走って思わず止まってしまった。
「葉司?どうかした?」
「あ……なんか」
俺は戸惑いながら、自分の体を確かめた。
「体中、痛い……」
「えっ」
「たぶん……ずっと緊張してたのと、ヘンな力入ってたからかな……なんか体がバキバキに……うん、でも、大丈夫」
全身が筋肉痛みたいになっていたけど、何とか起き上がって、優に笑いかけた。
立ち上がろうとしたところを、ぐいっと優に抑えられた。
「もう、葉司は無理しないッ。葉司は我慢強いから、ダメッ。俺がそうさせちゃったんだし。ちょっと待ってて。俺がここに持ってくるから」
「えっ、いいよ。それくらい動けるはずだし」
「いやだ。葉司をすんげぇ甘やかしたいんだもん」
「え――えっ?いやいや、大丈夫」
俺は慌てて首を振った。
「葉司はここで待ってれば良いんだって。それと、明日の安住さんとの待ち合わせ、俺もついて行く。ちょっと心配で一人で行かせられない。じゃあ、ちょっと待ってて」
「えっ?優」
止める前に、優は部屋を出てしまっていた。
部屋から優はいなくなったけど、そこかしこに、優のいた跡があって、俺をそれを不思議な気分で見回した。
優は隣にいないのに、確かに優の存在を感じていて。
俺は優の温もりが残る布団を抱きしめて、そっと頬を寄せた。
その夜を、優がクリスマスにしてくれた。
優しい幸せに包まれた聖夜を、きっとこの先もずっと忘れない。
オレンジの火の灯った、いくつもの白いキャンドルみたいに、輝いた思い出は重ねられて。
優のお母さんの料理をお皿に取って、差し出してにこりと笑った優の顔。
いっせーの、でケーキを食べて、二人して笑い合った瞬間。
優はクリスマスプレゼントを用意してくれていて、赤いリボンがかかっていた。
リボンをするり解いて開けると、そこには深いグリーンのカーディガンが入っていた。
それを着ると、優の温もりにずっと包まれているようで、心がふわりと優しくなる。
俺は大したものはプレゼントできなかったけど、ケースに入ったシルバーのシャーペンを贈った。
それは、いずれ大学が違ってしまっても、少しでもそばにいたいっていう、俺の願い。
少し前まで知らなかった愛しさは、今ここにあって。
これからも一緒に、という想いで満ちていった。
「おやすみ」
部屋の電気を消すと、優が静かに囁いた。
「おやすみ」
そう返すのは、どこか面映ゆくて、それでいて幼い頃に好きだった絵本のページをめくるような、懐かしさがする。
「おやすみ、優」
もう一度、その言葉を大切に繰り返した。
「おやすみ、葉司」
すぐに微笑みとともに返ってきた。
眠る時に、すぐそばに誰かがいること。
少し前には考えられなかったこと、恐れていたことが、今はこれほどに安らかな気持ちになるなんて。
過去の自分に教えても、きっと信じられないに違いない。
出会って、未来が変わって、俺自身が変わって。
優と身を寄せ合って、布団にくるまって、目の前で眠そうにうとうととする顔を見つめている。
俺は手を伸ばすと、優の頭を撫でて、その手を取って胸に抱き込んだ。
優は目を閉じたままで少し微笑うと、そのうちに小さな寝息を立て出した。
こうして優が眠っていくのを眺めていられる、静かで幸福な夜の時間。
いくら眺めていても飽きなくて、いくら大切に想っても足りない。
茶色いくせっ毛が枕へと流れて、閉じた瞳は睫毛が影を刷いている。
安らかな寝息は、ただこの心を愛しさでいっぱいにしてしまう。
しばらく優の寝顔を見つめていたけど、涙が溢れそうになって、俺は起き上がった。
ふっと見上げると、カーテンを開け放したままの窓から、夜空が見えた。
そこには雲ひとつなくて、ちかちかと瞬く冬の星座に、夜空は藍色に染まっている。
今夜は、何処にも金色のしずくを落とす月は浮かんでいなかった。
冬の冷たい空気の中に、星々だけがきらめいて光っている。
いつもの部屋で、いつもの窓から、夜空を見上げているのに、いつもとまるで違う空に見える。
それは、ただ隣に世界でたった一人、優という愛しいひとが眠っているから。
そのことが、心を花ひらくみたいに柔らかくさせる。
臆病だった始まりに、手を繋いで、ここまで連れて来てくれた人。
「好きだよ」
ずっと好きだった。そして、これからも。
このまま時が止まれば良いのに――
夜にただ二人きり、同じ時間を分かち合って、大好きって気持ちを抱きしめて。
この胸には、しんしんと、星屑が落ちては積もっていった。
まだ瑠奈の抱える心には、思いも寄らないままに。
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