34 / 45

第34話 花ひらく星月夜⑧

 まどろみの中から浮上すると、とても安らかな体温と匂いに包まれていた。 「葉司、起きた?」  すぐ頭の上から声は降ってきて、部屋はもう薄暗くなっていた。 「優」  そっと名前を口にすれば、茶色い瞳が瞬いて、俺を見つめた。  優の腕に抱かれたまま目覚めて、思いがけないほど静かな安らかさに、心は満たされている。  ずっと一人でいたこの部屋で、優に抱かれて眠っていたことが、ひどく不思議に思えて、どこか夢の中にいるようだった。 「まだ、眠い?」  俺は首を横に振って、優の首筋に鼻先を押しつけた。  優の匂い、温かさ、それは優がここにいるという確かな証拠で。  ふっと、自分がちゃんと服を着ていて、体も綺麗にされていることに気付いた。 「ごめん、俺――優が綺麗にしてくれた?」 「うん。勝手にタオル借りたよ?」 「あ、うん……ごめん」  俺は、自分が情けなくなって、うつむいた。 「俺、寝落ちするとか、ありえない……」 「なんか電池切れみたいになってたよ」  優にくすくすと笑われて、ますます自分がいたたまれなかった。 「ほんと、ごめん」 「うーん、いっぱい頑張ってくれてたんだなーって思って、葉司の寝顔をずっと見てた。もっと好きになったし、ずっと大事にしたいなって思って見てたよ」  優は、俺の額にそっとキスすると、ぎゅっと手を繋いだ。 「俺も、優が好きだよ」  この心のすべてを伝えたいけど、そんな言葉しか出て来ないのが、もどかしかった。  しばらく手を繋いだまま、優しい沈黙が落ちた。  ふと、優が顔を上げて、首を傾げた。 「葉司、お腹減らない?」 「あ、ごめん。俺が寝てたから夜になっちゃって」 「母さんの料理、食べよっか?」 「あ、うん。じゃあ電気つけて用意……」  立ち上がろうとして、ビリッと体に痛みが走って思わず止まってしまった。 「葉司?どうかした?」 「あ……なんか」  俺は戸惑いながら、自分の体を確かめた。 「体中、痛い……」 「えっ」 「たぶん……ずっと緊張してたのと、ヘンな力入ってたからかな……なんか体がバキバキに……うん、でも、大丈夫」  全身が筋肉痛みたいになっていたけど、何とか起き上がって、優に笑いかけた。  立ち上がろうとしたところを、ぐいっと優に抑えられた。 「もう、葉司は無理しないッ。葉司は我慢強いから、ダメッ。俺がそうさせちゃったんだし。ちょっと待ってて。俺がここに持ってくるから」 「えっ、いいよ。それくらい動けるはずだし」 「いやだ。葉司をすんげぇ甘やかしたいんだもん」 「え――えっ?いやいや、大丈夫」  俺は慌てて首を振った。 「葉司はここで待ってれば良いんだって。それと、明日の安住さんとの待ち合わせ、俺もついて行く。ちょっと心配で一人で行かせられない。じゃあ、ちょっと待ってて」 「えっ?優」  止める前に、優は部屋を出てしまっていた。  部屋から優はいなくなったけど、そこかしこに、優のいた跡があって、俺をそれを不思議な気分で見回した。  優は隣にいないのに、確かに優の存在を感じていて。  俺は優の温もりが残る布団を抱きしめて、そっと頬を寄せた。  その夜を、優がクリスマスにしてくれた。  優しい幸せに包まれた聖夜を、きっとこの先もずっと忘れない。  オレンジの火の灯った、いくつもの白いキャンドルみたいに、輝いた思い出は重ねられて。  優のお母さんの料理をお皿に取って、差し出してにこりと笑った優の顔。  いっせーの、でケーキを食べて、二人して笑い合った瞬間。  優はクリスマスプレゼントを用意してくれていて、赤いリボンがかかっていた。  リボンをするり解いて開けると、そこには深いグリーンのカーディガンが入っていた。  それを着ると、優の温もりにずっと包まれているようで、心がふわりと優しくなる。  俺は大したものはプレゼントできなかったけど、ケースに入ったシルバーのシャーペンを贈った。  それは、いずれ大学が違ってしまっても、少しでもそばにいたいっていう、俺の願い。  少し前まで知らなかった愛しさは、今ここにあって。  これからも一緒に、という想いで満ちていった。 「おやすみ」  部屋の電気を消すと、優が静かに囁いた。 「おやすみ」  そう返すのは、どこか面映ゆくて、それでいて幼い頃に好きだった絵本のページをめくるような、懐かしさがする。 「おやすみ、優」  もう一度、その言葉を大切に繰り返した。 「おやすみ、葉司」  すぐに微笑みとともに返ってきた。  眠る時に、すぐそばに誰かがいること。  少し前には考えられなかったこと、恐れていたことが、今はこれほどに安らかな気持ちになるなんて。  過去の自分に教えても、きっと信じられないに違いない。  出会って、未来が変わって、俺自身が変わって。  優と身を寄せ合って、布団にくるまって、目の前で眠そうにうとうととする顔を見つめている。  俺は手を伸ばすと、優の頭を撫でて、その手を取って胸に抱き込んだ。  優は目を閉じたままで少し微笑うと、そのうちに小さな寝息を立て出した。  こうして優が眠っていくのを眺めていられる、静かで幸福な夜の時間。  いくら眺めていても飽きなくて、いくら大切に想っても足りない。  茶色いくせっ毛が枕へと流れて、閉じた瞳は睫毛が影を刷いている。   安らかな寝息は、ただこの心を愛しさでいっぱいにしてしまう。  しばらく優の寝顔を見つめていたけど、涙が溢れそうになって、俺は起き上がった。  ふっと見上げると、カーテンを開け放したままの窓から、夜空が見えた。  そこには雲ひとつなくて、ちかちかと瞬く冬の星座に、夜空は藍色に染まっている。  今夜は、何処にも金色のしずくを落とす月は浮かんでいなかった。  冬の冷たい空気の中に、星々だけがきらめいて光っている。  いつもの部屋で、いつもの窓から、夜空を見上げているのに、いつもとまるで違う空に見える。  それは、ただ隣に世界でたった一人、優という愛しいひとが眠っているから。  そのことが、心を花ひらくみたいに柔らかくさせる。  臆病だった始まりに、手を繋いで、ここまで連れて来てくれた人。 「好きだよ」  ずっと好きだった。そして、これからも。  このまま時が止まれば良いのに――  夜にただ二人きり、同じ時間を分かち合って、大好きって気持ちを抱きしめて。  この胸には、しんしんと、星屑が落ちては積もっていった。  まだ瑠奈の抱える心には、思いも寄らないままに。

ともだちにシェアしよう!