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第35話 折れない翼をあげるから①
「んーと、こうかな?」
「あっ、そんなに一気にお湯入れたら……」
「えっ、ダメなの?」
ドリッパーにコーヒー粉を入れた上から、優がザバッとお湯を入れたので、慌ててやかんを取り上げた。
「うん。味が雑になるよ」
中心から外に向かって、のの字を描くように細くお湯を注ぐ。
「へえー。これで良いかな」
優が棚を開けてマグカップを取り出したので、それをお湯を注いで温めた。
しばらくしてからお湯を捨てて、黒くきらめく液体を注ぐ。馥郁とした香が立ち込めた。
「わー、葉司って細かい」
「はい」
コーヒーを注ぎ終わってカップを渡すと、優は俺を眺めて、にこーっと笑ってからテーブルへと運んだ。
「え、な、何?」
「葉司と一緒に住んだら、こんな感じかなって。まじで早く大人になりたい。えっ、もう大学で下宿するッ?」
「え……優の一人暮らしとか、相当に心配だなぁ」
フィルターを外して足元にあったゴミ箱に捨てながら、俺は考え込んだ。
「突っ込みどころ満載じゃん!そこ、俺と一緒に住む前提。んで、俺の生活力は信用ない?」
「えーと……?」
「葉司も言うようになったよなぁ。だいぶん俺のことわかった証拠だろうけどさぁ」
ふくれたように横をぷいと向いた優は、少しすると我慢できなくなったように、笑い出した。
「葉司、だいぶん俺に慣れたよなぁ」
「え、慣れ……?」
「だって、最初は俺に距離取ってたじゃん」
「そう?それは」
「わかってる」
優は、俺の隣で、渡したトーストに器用にバターを均一に塗り広げながら、ふっと微笑んだ。
「色々あったけど、俺はずっと葉司が好きで変わらないよ」
「優は――」
俺で良かった?
そんな不安はまだあるけれど、俺は言葉を飲み込んだ。
「コーヒーにミルク入れる?入れない?」
「入れる」
「じゃあ、持っていっとく」
そんな何気ない朝食の会話が、日当たりの悪い家にも束の間に射し込む、明るい朝日の中で交わされている。
「優が、ここにいると、不思議」
「え?」
「昨日までは朝にいなかった優が、ここにいる」
幸福感に漂うように、俺はうっとりとそう言った。
目覚めた冬の朝は、ぴったりと優の温かさに包まれていて、すぐに、おはようのキスが降りてきた。
二人して朝のまどろみの中、目を見交わして、くすぐったいみたいに微笑んで。
「葉司は、優しい顔するようになったね」
「そ、そう?」
「うん」
優は後ろから抱きつくみたいに、俺の腹に腕を回してくっついた。
「葉司の、そういう顔が好き。なんか俺のこと好きなんだなーって思う」
「だって、それは、本当だから」
俺は、優の腕の中でくるりと振り向いて、両手を上げて、優のなめらかな頬を包んだ。
爪先だって背伸びをして、そのくっきりとした唇に、羽根の触れるようなキスをした。
優の息遣い、唇の感触、すべては愛しくて、この世界は淡い色にふわっと染まる。
それは幸せで、心が溢れて、泣きたくなるような大切な時間。
きっとこの朝は、何度も手にとって、何度も見つめたくなる、大事な宝物。
このまま時よ止まれと、泣き出しそうになる。
何処へも行かずにここにいて欲しいけど、時間が過ぎていけば、そんなわけにはいかなくて。
「あーもうっ。帰りたくない」
「うん。でも」
「帰らないと、だよなぁ。あー、ツマンナイ」
「でも、俺も思ってた。行かないで欲しいって……」
「まじか。俺たち同じこと思ってた?」
「うん」
優は突然に、ぴたりと俺の目の前に、長い指をさし示した。
「ちょっと、葉司、これ見て」
「な、何?」
ゆっくりと指が円を描き出して、くるくると回り出した。
「葉司は将来、俺と暮らしたくなーる、同棲したくなーる」
「えぇッ、な、何やってるんだよっ」
「何って、催眠術」
俺はぽかんと優を見上げた後、優のいたずらそうな瞳の色に、思わず笑いが込み上げた。
「あはは、何やってんだよ?」
「葉司、笑った。可愛いな」
優の胸に抱き込まれて、俺はその背中にぎゅっと腕を回した。
「俺のほうが、優に一緒にいて欲しいって、思ってる。俺が望んで良いことかわからないけど……俺は、優といると幸せになるから。愛してる、優」
「ずっと、笑ってて、葉司」
俺が見上げると、優はまっすぐな瞳で俺を見つめていた。
「愛してるから、ずっと、俺の隣で笑ってて」
そういう声はひどく穏やかで、静かで、俺はそっと目を閉じた。
「うん、優」
朝のキッチンで立ったままのキスを、俺たちは何度も繰り返した。
十二月も末の冬空は、どこか雲が厚くて、午後の陽射しをうっすらと透かすだけになっていた。
黒いコートの下には、優からクリスマスプレゼントにもらった、深いグリーンのカーディガンを着て、優と並んで川沿いを歩いていく。
住宅街の中のリバーロードは、小さな公園があったり、ベンチがあったり、親子連れや散歩する人々が通り過ぎていった。
春には桜の盛りに合わせてお花見する人々も、夏には川遊びをする子どもたちも、冬にはまばらで、しっかりとコートやマフラーを着こんでいる。
川を水面をさらっていく風は、冷たさを増して、肌にひんやりと吹きすさぶ。
枯葉が足元でカサカサと音を立てて、舞っていった。
「この少し先なんだ」
「子どもの頃に、安住さんとよく来てたところ?」
「うん、そう」
「葉司がどんな男の子だったか、見たかったな」
「そんなの。今と大して変わらないよ」
「その頃に会ってても、やっぱり好きになってたかな?」
「俺はきっと――優を好きに、なってたよ」
俺は少しうつむきながら、答えた。
だって、たぶん、今と変わらぬ眩しさで、俺の前に現れたに違いないから。
「やばい」
「え?」
「すんげぇ手を繋ぎたい」
照れたように笑う優を、眩しく見つめながら、どこか切ない気持で頷いた。
「うん、俺も」
ぎゅっと一度だけ、その手に手を重ねて、すぐにパッと離した。
二人きりの空間を出てしまえば、俺たちは触れ合うことはできなかった。
「葉司とこうして歩いていると、デートだな」
ふふ、と優は笑って、俺のうなじをそっと撫でていった。
柔らかなくすぐったさに少し首をすくめると、目の前に懐かしい風景が見えていた。
「瑠奈との待ち合わせ、あそこなんだ」
川沿いから少し外れて、常緑樹がぐるりと立つ窪みのようになった場所に、隠れ家みたいに八角形の木造の屋根だけが見えた。
近付いていくと、茂みの隙間から、屋根の下のベンチにいる人影が見えた。
水色のふわりとしたスカートに、白いショートコート、袖にはゴールドの飾りボタンがあって、さらりとした長い黒髪を流した小さな顔の、品の良い姿を引き立てていた。
揃えられた前髪の下の大きな瞳は、いつも通りに涼やかで、だけど遠目にも真剣な色を湛えていて、俺は胸騒ぎがした。
ベンチに脚を揃えて座っている瑠奈の横で、背の高い姿があった。
薄いグレーのウールコートに、モノトーンのニット、黒い細身のズボンに、ナチュラルにセットされた黒髪、知性的な鼻筋の通った顔は、どこか瑠奈と似合っている。
「隣にいるのが、安住さんの彼氏の鷹宮さん?」
「あ……そう、だけど。話って何だろう?改めて二人で話って?えっ、俺に話すことって何だろう?」
「落ち着けってば、葉司。こういう時は、聴くまで何も考えないのが一番なんだよ」
あっけらかんと、優はそう言って、歩みが止まかけていた俺の腕を、ぐいぐい引っ張って歩いて行った。
「こんにちは、安住さん」
瑠奈は顔を上げて、驚いたように優を見た。
「えッ、小山田くんッ?」
鷹宮さんは一度目を瞬いたけど、見守るように立ったまま静かにしている。
「な、何でッ?」
瑠奈は、優がいては気まずいような表情で、ただ黒い大きな瞳を見開いた。
俺はますます胸騒ぎがして、ただ不安の中へ引き込まれていった。
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