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第36話 折れない翼をあげるから②
「え、色々と葉司が心配で。昨日の今日で体も心配だし、すげぇ動揺してたから。鷹宮さんですか? 初めまして、小山田優です」
優はお行儀よく頭を下げて、鷹宮さんに微笑した。
こういう時の優は、鷹揚としていて、俺には真似できない態度をするから、何だか眩しい。
「初めまして、鷹宮です。瑠奈から、葉司くんのお話の時に、お名前を聞くこともあったので、初めての気はしないですけど」
「安住さんから聞いてます?葉司の彼氏です」
つるりと優が言ったことに、俺はむせそうになった。
「あの、葉司。今日は、小山田くんは――」
瑠奈はいつもとは違って、珍しく言い澱んでいて、俺はさらに心配になった。
「優は、いないほうが良い話?」
「えっとね――」
「何? 鷹宮さんはいてよくて、俺は駄目なわけ?」
優は憮然として言った。
「だって、今日の話は――」
そこまで言って、瑠奈は言葉を止めた。
「うん、瑠奈。どうした?」
俺がそばに寄って、瑠奈の手を取ろうとする前に、鷹宮さんが瑠奈を励ますかのように、華奢な肩を抱いた。
俺は手のやり場を失くして、その場に立ち尽くした。
「だって、今日の話は、七年前のことだから――」
カランカラン、と遠く何処かで音がする。
それは、閉じられた扉の鍵が、落ちてしまった音だ。
その鍵は鈍色で、どこかこの冬空の雲に似ていて、何かを閉じ込めている。
瑠奈のまっすぐに俺を見る大きな瞳が、俺を飲み込んでしまいそうだった。
「七年……前って……?」
俺は瑠奈に笑いかけようとして、唇がうまく動いていないことに気がついた。
「その、だから、小山田くんは――」
「あ、うん。瑠奈は聞かれたくないんだね」
俺は止まりかけた頭で、一生懸命に言葉を探した。
「ごめん、優。もう体も大丈夫そうだから。心配してついてきてくれて、ありがとう」
「葉司、大丈夫?」
「え、うん、大丈夫。俺は、大丈夫だから。ありがとう」
「違うよ、葉司。わかってる?」
葉司は、ぐいと俺の顔を覗き込んだ。
「な、何……?」
「これからの話と、自分のこと、わかってる?」
「え――?」
俺が戸惑っていると、優はくるりと、瑠奈と鷹宮さんのほうを向いた。
「七年前の事件のことなら、俺はもう全部聞いてる」
「えッ、小山田くんが?」
「ごめんだけど、安住さんのことも聞いてる」
「あっ、優!言わないで!」
俺は真っ青になって、優に駆け寄ったけど、優はどこか怒った表情で、俺と瑠奈を見比べていた。
瑠奈が、他の人間も知っていることをわかってしまったら、ショックを受けるに違いなかった。
ずっと、あの事件が終わってからは、俺と瑠奈だけの秘め事だった。
実際に瑠奈は、美しい桜色の唇を引き結んだまま、青ざめた顔で、俺を見ていた。
やってしまったんだ――
もう瑠奈の信頼は得られないに違いない。
「もう、優……いやだ……」
違う。優のせいじゃない。
そうじゃないのに、俺も優も責めてしまって、ぐるぐると混乱して頭が回る。
「ごめん、優……」
所在なくうつむいて、小さく呟くと、優はぎゅっと俺の手を握った。
「うん。安住さんはきっと不安だから、鷹宮さんがそこにいるんだよね?葉司は不安にならない話?だったら俺は帰れるけど。そうじゃないなら、俺は帰らない」
俺は優の手を離そうとしたけど、存外に強い力で、ぐいっと引き寄せられた。
「私は――だって、葉司に」
瑠奈は、鷹宮さんに肩を抱かれたままに、泣き出しそうな顔をしている。
その顔を見るのがつらくて、この場のすべてを終わらせてしまいたかった。
「葉司に、謝りたくて……」
思いもよらなかった言葉に、思わず顔を上げた。
瑠奈の大きな黒い瞳が、正面から俺を見ていて、俺の視線とぶつかった。
そのまま時が止まってしまったかのように、しんと沈黙が落ちる。
「どういう、こと……?」
俺は動揺していることを隠そうと、笑おうとして、声が震えて掠れた。
「あの、鷹宮さんといる時に」
瑠奈はためらって、ちょっと口籠りながら、それでも言葉を続けた。
「思い出したの……あの時のこと」
「え……」
俺は頭を殴られたような衝撃に、ぐらりと倒れそうになって、繋いだ優の手に引っ張られた。
「え――な、何を? どこまでッ?」
「私と、葉司、だったんだよね……あの日に、被害に遭ったのは」
「……」
俺は不安に、押し黙るしかできなかった。
真っ黒な停止画面に、ザーッと灰色の砂嵐が現れて、目の前を覆ってしまった。
遠のきそうな意識の中で、俺の背をしっかりと支える優の掌だけが、何よりも確かなものだった。
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