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第37話 折れない翼をあげるから③
流れる黒髪は、川を過ぎてきた冷たい風に、ざあっとなびいた。
冬の風は、指先までをも冷たくさせて、感覚をも奪っていく。
瑠奈の白く小さな顔、震える唇、不安げに瞬いた黒い瞳。
うっすらと青く血管を透かせたその手の甲を、鷹宮さんの手がしっかりと包んでいて、瑠奈はそこに立っていた。
「あの、私たちが林道沿いの蔵に行った日。あの日、私たち二人とも、犯人に殴られて気絶したんだよね……?」
つかえながら、つらそうにそう口にした瑠奈の表情は、どこか見覚えがあった。
感覚はどこか現実感がなくて、どこで見覚えがあったんだろう? とぼんやりと考えた。
「私だけじゃない。葉司も、だったんだよね……? 私が気が付くと」
そこで言葉を止めて、白い咽喉をつかんだ姿に、ふっと思い出した。
これは、俺だ。
俺と同じ姿で、同じ記憶を、瑠奈が話している。
「気が付いて、目が覚めたら、私の上には真っ黒な大きな影があって」
どこかおぼつかないながらも、言葉を一つ一つ選び取って、俺の前に並べようとしている。
恐れるように止まりがちな言葉を聴きながら、俺はただじっと一点を見つめて、すべての動きが止まっていた。
「何がなんだかわからなかった。体だけが重くて、目の前で空洞みたいにぽっかりとあいた二つの目が怖くて、ただ恐怖でいっぱいになって」
瑠奈がひらいて見せる記憶に、自分の血流が脈々と鳴っているのがわかる。
割れそうな心臓は、ひやりと凍った手でつかまれたように痛かった。
「でも、私、あの時、聴こえたの――葉司が叫んだこと。瑠奈って、葉司が私を呼んで。瑠奈だけは止めろって叫んだこと」
そこにいるのは、ぼんやりと記憶を失くした瑠奈じゃなかった。
「俺のことも、その先のことも、思い出した……?」
遠くで、さらさらと川の流れていく音が、かすかにする。
それは瑠奈の動き出した記憶の音のようで、俺は微動だにできずに立ち尽くしていた。
「うん。私、あの時、葉司が見えた」
「そっか……」
もう俺は諦めないといけないのだとわかった。
「葉司は赤くて、あの時、怪我していたんだよね……?そしたら、どしん、と音がして、目の前の黒い影が倒れて――」
「ごめん、瑠奈」
俺は瑠奈に近寄って、その目の前の光景を塞ぐように、その小さな頭を胸に抱き込んだ。
「もう話さなくても良いよ。その記憶は、俺にもあるから。話さなくてもわかるから。つらいことを言わなくても良い」
たぶん、瑠奈はあの時に、長く気を失っていて、その時のことはわからないはずだった。
ただ俺がしたことを思い出したのなら、これで終わりかもしれなかった。
「ごめん、瑠奈。俺がその時にしたことで、瑠奈は衝撃を受けて、長く入院しないといけなくなったんだよ」
「葉司……?」
「思い出してつらかっただろう?」
「葉司」
「俺が、瑠奈の前で、いつまでも犯人を叩きのめしていたこと」
「……」
「俺は加害者で、あんまりにも酷い光景を、俺が瑠奈に見せたから。だから瑠奈は、病院で長いこと、ずっとお人形のようになって、目の前の壁だけを見つめていたんだよ」
瑠奈の頭をそっと離して、両手をうすい肩に置いた。
「瑠奈、ごめんね。俺はそんなことをしてしまった人間で、だから一人になってしまった。本当は、瑠奈の両親にも、会わないでくれって言われてた。でも、瑠奈は退院できるようになって。ある日、俺の前に現れて、もう一度笑ってくれた時、どんなに嬉しかったか――」
(葉司!)
あの日より以前と同じイントネーションで呼ばれて、振り返った時の、可憐な桜がひらいたような笑顔。
瑠奈との色んな記憶が蘇って、知らずに涙が頬を落ちていた。
「瑠奈に記憶がなくて、本当は安心してた。黙っていれば、瑠奈といれるんじゃないかって、思ってしまった。だって、俺は……」
瑠奈に微笑もうとして、うまく笑えずに、ただ唇は強張った。
「一人になってしまって、寂しかったから」
「葉司……」
「ごめん、瑠奈。でも思い出してしまったなら、もう、俺は、瑠奈といられないね。ずっと、ごめん」
俺はそっと、瑠奈の肩から手を離した。
「違う……よ。葉司――」
瑠奈は小さく息を吸い込んだ。
「違う! 違うよ! 葉司! 何言ってるの?」
「俺は……だって……」
「葉司が、私を守ってくれたんじゃない!」
「瑠……」
「葉司だって、怪我してた。葉司だって、被害者だった――なのに、瑠奈だけはって私のことを守ってくれんだよ!」
瑠奈は腕を上げると、俺の肩をつかんで揺さぶった。
「あの時、私は何もできなくて、葉司だって、きっと、ううん、もっと怖かったはずなのに。私と同じ年で、たった一人で、救ってくれたんだよ!」
瑠奈は青白い顔で、一心に糸をつむぐみたいに、止めることなく話し続けている。
「私は、どうして、こんなに大切なことを忘れていられたんだろう? あの時、葉司が闘ってくれなかったら、二人とも死んでいたかもしれない。葉司も、私も、いなかったかもしれない。葉司がいたから、こうやって高校生になれたんだよ。私にはずっと、葉司がいたから!」
鷹宮さんも、優も、しんとしていて、ただ瑠奈の言葉だけが、吹きすさぶ冬の風の中で響いている。
「私は、どうして、葉司に守り続けてもらえたんだろう? 葉司はずっと私のナイトだった。ねえ、私が、葉司に謝らないといけないの」
瑠奈は、俺の肩をつかんだまま、顔を伏せて、こらえきれなくなったように泣き出した。
その体を抱きしめたいけど、俺にはそうできる手がなかった。
「私が、そんな風に思わせていたのかも――私が思い出したら、葉司は私といられない、なんて。ずっと、葉司は、一人だけ覚えていて」
「……」
「全部のこと、一人で背負っていたんだよね?ずっと黙って、私のこと慰めて、支えてくれてた。本当は、葉司こそ、そうしてもらいたかったはずなのに。私、ここにいたのに、何もしてあげられなかった」
「俺は、瑠奈が、両親に反対されても、俺に会ってくれていただけで良かったんだ……。瑠奈を守ろうって思うことで、立っていられたから……」
「ごめんね――葉司。七年間、ごめんなさい。ずっと、私を支えさせて、一人で覚えさせていて、ごめんなさい。葉司のつらさを、分かち合ってあげられなくて、ごめんなさい」
瑠奈の黒い大きな瞳から、はらはらと落ちていく涙は、澄んだ光のようで、俺はぼんやりと落ちていくのを見つめていた。
「俺……は」
何だ、と言いたかったのだろう?
「だって、瑠奈は、思い出さないほうが良いことで……すべてを」
「うん。思い出して、正直つらい。こんなに七年経っても、昨日のことみたいに苦しい。思い出した時は、とてもパニックになって――これからも、きっと、苦しいと思う……」
「うん……」
「でも、それは、葉司のせいじゃないの」
「瑠奈」
「私のせいでも、葉司のせいでもないの」
瑠奈は指を上げて、俺の頬に触れた。
その言葉は静かで、どこか天使の告知のような神秘的な響きがした。
少し不思議な感覚で、俺は首を傾げて、瑠奈の美しい顔を見つめた。
「私、葉司がいるから、ここまで来れたの。ありがとう、葉司。これからも、まだ葉司と一緒にいたいの。ねえ、葉司の手を離したくないよ。明日も、その次の日も、これからも。だって、葉司が好きだから」
「瑠奈……」
俺は頬にかかった瑠奈の指を、そっと手に取った。
「俺も、瑠奈が……好きだよ……」
「うん、葉司」
うなずいた微笑みは、いつでもそばにあった、変わらない大切な笑顔だった。
運命でからまってしまった糸をほどいて、俺と瑠奈は、今ここにいた。
俺と瑠奈の空に、光のラインが渡って、吸い込まれるようにすっと消えていった。
鷹宮さんと手を繋いで、何度も何度も振り返りながら、帰っていった瑠奈の姿は、いつまでも俺の目に焼きついていた。
もう瑠奈のいなくなった場所に、俺はいつまでも立ち尽くしていて、肩にそっと温もりが広がるのを感じた。
「葉司」
そう俺の名前を呼ぶのは、優。
「葉司」
俺の肩を引き寄せて、何度も囁いて、隣にいる。
「帰ろう、葉司」
ふっと見上げると、限りなく優しい眼差しが、そこにあった。
「うん、優」
言葉にするよりも、何よりも、多くを伝える沈黙が、二人を包んで優しい時間にしていった。
「優――ありがとう」
優は、両手を囲って、俺の唇を隠すようにした。
それから、ふわりと一瞬だけ、羽根が触れるようなキスをした。
俺たちは隣り合って、再び川沿いをゆっくりと歩き出した。
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