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第42話 それぞれの光、青空へとアンコール④
街中を走り抜ければ、二月の冷たさの中、白い息がすうっと流れていく。
愛しいひとが待つあの場所まで、足取りは加速して。
街角に流れる音楽も、髪を乱す強い風も、心を躍らせて、まるで初めて恋に落ちたあの瞬間みたい。
体中に感じるときめきは、リズムのようになって、冬の空の下、木漏れ日も鮮やかなコントラスト。
少しやりたいことがあった俺は、優と待ち合わせをした。
一緒に目覚めて、すぐに交わしたおはようのキス、笑い合って食べた朝食、そんな今朝の記憶が蘇って、思わず微笑んでしまう。
二人で一緒に開けた家のドアは、いつもとは違って、明るい朝日が射すようだった。
俺の予定は思うより早く終わって、ただ優との待ち合わせの場所まで急いだ。
海沿いにレストランやショップが並ぶハーバーは、今日も人々で賑わっていた。
今日は、船乗り場には、白い周遊観光船だけでなく、少し離れた場所に白く巨大な、世界周遊をする、まるでマンションみたいに窓がずらりと並んだクルーズ船が停泊していた。
家族連れや、恋人たちが行き交う間をすり抜けて、波止場の海を見渡すベンチまで駆けていく。
息を大きく吸い込めば、目が覚めるほどの冷たさとともに、潮の匂いが体を満たしていった。
遠目からでも、そのすらりとした姿は、すぐに見分けることができた。
誰とも間違うことのない、ずっと見つめ続けてきた姿。
紺のウールコートに、ワイン色のハイネックニット、黒の細身のズボンで、両手をポケットに突っ込んで、潮風になぶられるままに、海を眺めている。
そこに、彼が立っている。
それだけで、見渡す海の景色は、油彩画のように鮮やかだ。
声をかけたいけれど、その光景をずっと見ていたい衝動に駆られて、思わず歩みを止めた。
約束した場所で、俺を待ってくれている。
それだけで、この胸は喜びでときめいて、約束が終わってしまうことが惜しいと思ってしまう。
「優」
掌で胸を押さえて小さく呟くと、ふっと、優が振り返った。
まっすぐに、その視線はすぐに俺を捉えた。
「優」
俺は、また駆け出した。
「葉司!」
ビックリしたように見開いた茶色い瞳で俺を見て、そのまま止まっている。
優のところまで駆けて、息も乱したまま、笑って見上げた。
「ごめん、待たせて」
「ううん」
海を吹いていく風の音が鳴って、しばらく俺たちには沈黙が落ちた。
「ビックリした」
優はそう言って、首を傾げて、しげしげと俺を眺めた。
「ごめん、急にしたくなって」
「ううん。すごく良い」
優は手を上げると、指先で俺の髪をすくっていった。
「髪切ったのかぁ。なんか表情が明るく見えるよ」
「本当?」
「うん。格好良くて可愛い。なんか凛としてる。前髪も良い」
首を傾げて微笑んだまま、優は俺を見つめて、指先で前髪を撫でた。
「あっ、あれ?」
「え?」
「昨日、俺が、葉司の子どもの時の写真見て、前髪短いのも良いって言ったから?」
「あ……それもある、かな?」
「サプライズじゃん。そんで、わざわざ髪切りに行ったんだ?」
「ん……」
嬉しそうに笑う優に、少し面映ゆくてうつむいた。
「あっ!でもどうせなら、切るところに一緒にいたかったな!」
「え、でも、待ってるだけだし。つまんないよ」
「ぜーんぶ俺の好みにできるじゃん。葉司は、俺が言ったらたぶん断れないだろうし」
「そ、そんなことないよ!」
「えー、本当に?」
そう言う優は、いたずらっぽい表情をしていて、俺はそのままどう答えて良いのか、言葉に詰まってしまった。
「それに、俺が」
俺はようやく言葉を探して、少しつかえながら続けた。
「なんだか、変わりたくて」
「葉司が?」
「うん。変わっていくのを見て欲しくて」
「俺は、どの葉司でも好きだよ」
外でも、あっけらかんとそう言う優の瞳が、どの俺でも良いんだと、優しく語りかけてくれる。
「あの写真を見てたら、あの頃からやり直したくて」
一人きり佇んでいた時間を飛び越えて、この先へともっと進んで行きたくて。
「そっか――うん」
優は、一度うなずいた。
「俺、見てるから。ずっとそばで」
「うん――」
「まだ俺が知らない葉司に出会えるのかな」
優は、俺の襟足から首筋を撫でながら、ふわっと明るく笑った。
寄り沿ってくれる人がいるという、大切な優がくれた宝物。
「あ、そうだ、これ」
優は、コートのポケットから取り出して、俺の手に渡した。
それは、小さめのココアの缶で、冷たくなった手に、ぬくもりが広がった。
優しさのこもったぬくもりが、心まで深く沁みわたって、淡く色づいていった。
「ぬるくなっちゃったかな?」
「ううん、あったかい。ありがとう」
優は、自分のココアをポケットから出して、俺の腕を引っ張った。
「ちょっと歩く?」
「うん」
二人して並んで、ココアを飲みながら、海沿いの波が打ち寄せる埠頭を、船乗り場のほうへ向かった。
「思えば、ここが、二人の最初のデートだったな」
ふっと、景色を見つめながら、優が呟いた。
「あれ、十月だったよね。優と、夜景見ながら乗ったボート、すごく綺麗だった。あの時は、こうして隣にいられるようになるなんて、ちっとも思っていなかったけど」
「えっ、俺は思ってたけど?」
優は、瞳をくるりと回して、俺を覗き込んだ。
「だって、葉司は俺を見てるなーってあの時には思ってたし。だってもう葉司を落とすつもりで、二人で抜け出したんだもん」
脳裡に色んな優との記憶がめぐっていって、それは膨らんで、きらめきを吹き込んだバルーンみたいにぐるぐると回り出す。
それは手離さないで、ずっと大切に手にし続ける記憶。
優と並んで歩きながら、自分の足元を見つめた。
「優」
「ん?」
「初めて一緒に眠った夜にさ」
「初めて?修学旅行の時のこと?」
「うん、そう。あの時、夢を見たんだよ。いつもと違う」
「夢?」
すぐ隣の俺を見て、首を傾げて、茶色い瞳を何度か瞬いた。
「夢では、俺は十歳で、一人で歩いていてさ、名前を呼ばれたんだ。瞬間に、おかあさんが迎えに来てくれたんだ、って思った」
「うん」
「でも、そうじゃなくて。その声は、優だった」
「俺だった――?」
「うん、そんな夢だった。すごく不思議な気分がしてさ。俺はずっと長いこと、どこかでおかあさんが迎えに来るんじゃないかって、ただ待っていた気がする。でも優と出会って、少し気付いたんだ」
「どんなこと?」
「探していたのは、自分が愛せる人だったんじゃないかって」
「それは、俺のこと?」
「うん。優だよ」
優は、俺の手の甲に、すり、と手を擦りつけて、そのまましばらくいた。
「葉司、それはさ」
「うん」
「俺のほうかもしんないな」
「え?」
長い指で唇を引っ張りながら、優は少し首を傾げて考えていた。
「俺は、自分の環境に不満は抱きながら、ずっと自分を変えられなかったんだ。将来のことも、ぼんやりと決められたままで、展望も本当は持てなかったし、本音もそうそう言えなくて」
俺は、高い鼻梁の端正な横顔を見つめながら、静かに言葉を待った。
「葉司と出会って、葉司のことを知って、一人でこんなに強く生きて来たんだなぁって思って。俺は、そのことを支えられる人間になりたいし。それに、葉司と一緒に生きるためにどうしたら良いか?って考えるようになった。この先、二人の未来、俺は葉司と一緒に住めるようになりたい」
「……優」
「俺の幸せと、葉司の幸せと、それってどういうことかな?って。いずれ、こういう俺のこと、家族にも認めて欲しいし、葉司が隣にいれば、強くなれる気がするんだよ。葉司に見合う人間になりたい」
「俺なんて……」
「変えられない状況から、連れ出してくれる誰かを探していたのは、俺かもしれない」
「優が?」
俺は不思議な気持ちで、じっと前を見て歩き続ける優を見直した。
「葉司と出会って、前にまでいた、ぼんやりとしたところから、自分の気持ちとか、自分の希望とか、はっきり強くなった。それを今度は周りに伝えたいと思うし」
「……うん」
「周りの期待じゃなくて。期待される俺じゃなくて。この誰でもない俺自身で」
「優」
「葉司が、俺を愛してくれたから」
優の、繰り返される呼吸の音。
そして、ふっと俺を見た、澄んだ眼差し。
時が止まったみたいに、この時間がずっと続くようで、優だけを見つめている。
「だって、優は、ずっと眩しくて」
そう伝えると、面映ゆい気持ちでうつむいた。
「俺の憧れで。真っ暗な場所にいた俺には、優は、遠くの光みたいで」
「俺、すっげぇ片思いされてた?」
「そうだよ。ずっと片思い。ただ眺めてる大切な光」
「今は、もう遠くじゃないよ」
優は俺の肩に、その肩をどしんとぶつけて、照れたように笑った。
「今は、横にいるよ」
「うん、それで、もっと好きになった」
これほど素直な気持ちを言ってしまえる、不思議。
「やばい。ぎゅーってしたくなるじゃん」
俺たちは、人通りの少ない建物の壁際に立って、顔を見合わせて笑った。
優の指先を、少しだけ軽く握って、人気のない埠頭で、ただ広がる海を見つめた。
まだ午前の光に、水面は波打つたびに、きらきらと転がるように白く輝いて、いつまでも揺らめいている。
「優は、俺が持たない光を持っていて。眩しい」
美しい海を見つめながら、どこか幻想のように、俺はぽつりと呟いた。
「葉司は、ずっと綺麗だよ。それって、葉司の言う、光なのかもな」
「え?」
すぐ横を見ると、思うより近くに優の茶色い瞳があって、その視線に捉えられてしまう。
「俺には、きっと見えてたんだな」
優は、柔らかな微笑を浮かべていて、それは雲ひとつない青空からの冬の陽射しに、白く照らされている。
「葉司が持ってる光」
「俺が?」
「皆、きっと持ってるのかもしれない。葉司だって、瑠奈だって」
「優……」
「だって、ずっと、葉司は綺麗。葉司だけの光が、ちゃんとここにあって。俺はそれを探すことができて――今、幸せなんだ」
繋いだ手は柔らかな温もりで、ただ素直に言える。
ざわめきも遠く、ただ、さざ波の繰り返す音だけが聴こえて、心のままに伝えられる。
「優――優がいてくれて、ありがとう。優が、生まれてきてくれて」
優がこうしていることは、当たり前なんかじゃなくて。
「葉司がいて、俺は幸せだよ」
俺がこうしていることも、きっと当たり前なんかじゃなくて。
並んだ二つの影は、手を繋いで立っている。
あなたが愛しいから、心は喜びに満ちる。
大切なことをあなたが気付かせてくれて、だから、明日も迷わずに確かに歩いていける気がした。
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