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【10】SIDE三井遥(1)-6
「遥、いる?」
その頃になると、花歩は遥を「遥お兄様」とは呼ばなくなっていた。
『お兄様なんて呼んでたら、まわりから笑われちゃう』
それが花歩の言い分だった。遥は笑って『どっちでもいいよ』と言った。
「遥ってば」
「花歩ちゃん、今日はどうしたの?」
三年の教室にも花歩はよく足を運んだ。これでは誤解が解けることは当分ないだろうなと思いつつ、遥は特に咎めることもなく花歩の好きにさせていた。
「今日、お母様がお夕食に来て欲しいんですって。だから、電車で帰らないで、そのままうちのクルマのところまで来て」
花歩は運転手付きのクルマを使って通学していた。
花歩のお嬢様ぶりが周囲に知れ渡るにつれ、遥の家が土地を支配する宗森家であることや、遥がその家の御曹司であることもまわりの意識するところとなった。
「やっぱり、さすがだなあ」
「宗森は、俺たちとは住む世界が違う人だったんだな」
耳に届く言葉に寂しい気にもなったが、幼い頃から壮介の姿を見て育った遥は、宗森家の当主がどのように扱われるかもよく知っていた。
宗森家の者が人から特別扱いされるのは、当たり前のことだった。
今までが気楽だったのだと考え、自分を納得させた。
周囲が遠巻きに見つめる中を、二人揃って黒塗りの高級車に乗り込む。
「花歩ちゃんは、クルマで送ってもらったほうがいいの?」
「だって、うちは学校から遠いもの」
三井家の土地は、隣県との県境にある。確かに遠い。だが、同じ地区から電車やバスを使って通う者がいるのを遥は知っていた。
「電車を使うと、友だちと一緒に帰れて楽しいんだけどな」
花歩には友だちがいるのだろうか。遥のところへ来てばかりで、誰かと親しくしているところを見たことがなかった。
「わたしは遥がいればいいの」
「友だちが増えると、世界が広がるよ? 僕とは学年も違うし……」
花歩が口を尖らせた。
「私からこんなこと言われたら、普通は真っ赤になってうろたえるのに」
「え……?」
「遥って、ほんとに女の子に興味がないのね」
遥は笑った。
賢く、美しく、天真爛漫な花歩は、確かに男子生徒には魅力的な女性だろう。
遥も花歩のことは大切に思っていた。
花歩を傷つけるようなことはしたくないし、花歩が泣くところを見たくない。この世の罪悪から可能な限り守ってやりたいとも思っていた。
けれど、それは恋愛感情ではなかった。妹に向ける愛情である。
「花歩ちゃんは、花歩ちゃんだからね」
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