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【11】SIDE三井遥(2)-1

 その年の夏は特に暑かった。 「お母さん、たらいに水を張っておくから、時々タオルを浸してね」 「ありがとう、遥。今日は早く帰れるの?」 「実験があるから、少し遅くなるかも。母屋から食事が届いたら、先に食べてて」  うん、うん、と横になったまま梓は何度も頷いた。  花歩との婚約を(かたく)なに拒んだ遥を、壮介は宣言通り切り捨てた。梓との婚姻関係を解消し、二人の籍を宗森家から抜いた上で、その日のうちに屋敷から出てゆくよう迫った。  突然住む場所を奪われた遥と梓は、一時的にでも三井家に行くしかなかった。  宗森家に嫁ぐ際に梓は三井家の養女になっていたが、もともとの生家には以前から親がなく、梓を育てた祖母もずいぶん前に他界していたからだ。  梓が帰る家は三井家しかなかったのである。  だが、梓にとって三井家は、宗森家との婚姻に際し体裁を整えるために養子縁組をしただけの、いわば名前だけの実家である。そこにもともと梓の居場所はなかった。  その上、離婚の原因は花歩との縁組を遥が拒んだことにある。  三井家にしても、梓に戻られても迷惑なだけだ。それでも三井家が二人を受け入れたのは、たとえ戸籍の上だけだったとしても「実家」としての役目があると考えたからだった。  そのような状況である。  三井家での暮らしは、遥たちにとって針の(むしろ)に座るようなものになった。かと言って三井家を出ようにも、壮介に逆らって二人に家を貸す者はいなかった。   小糠雨の降る六月の初め、二人は宗森家の門を出てタクシーに乗り込んだ。その時には、梓はまだ自分の足で立って、しっかり頭を下げるだけの体力があった。  今ならまだ許すという壮介に、きっぱりと首を横に振ったのは梓だった。 「遥を、自由にしてやってください」  壮介に睨まれながら、震える声でそれだけ言って深く頭を下げていた。

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