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【16】SIDE三井遥(6)-9 ※R18
バカなことを、と思う。
感情のない目で新井を見下ろしていた。
突然、新井の身体が後ろに引かれ、スーツの襟を掴んだ蓮見の拳が丸い顔面にめり込んだ。
新井の身体が跳ねるように床に転がる。
その上に乗り上げた蓮見が、二発三発と続けざまに顔の真ん中を殴る。あたりは騒然となった。
西園寺と谷が、二人掛かりで蓮見を新井から引き離した。
顔中を血だらけにした新井は、濁った目で蓮見を見上げた。醜く歪んだ赤い顔に侮蔑の色を浮かべ、呻くような声で吐き捨てる。
「へ……、そうか……。おまえ、が……、三井の、今のおと……」
言いながら気を失う。
――おまえが……。
おまえが、三井の今の男か――。
身体からすっと血が引いてゆくのがわかった。
――三井の男か……。
何がどうという論理の筋道がないまま、自分の存在が蓮見を傷つけたのだと思った。
何かが壊れるのは一瞬だ。
異性を愛せない。ただそれだけの理由で、遥は全てを失った。
宗森家の御曹司として当たり前のように持っていた幸運も、それに恥じぬよう積み上げてきた努力も、何の意味も持たなくなった
それどころか、その全てが遥を苦しめた。そして……。
梓を、母を失った。遥が殺したのだ。
たった一枚のジョーカーを引いた瞬間、揃えたカードが全ての意味を失う。たった一つの石が、それまで白かったオセロの盤面を全て黒く変える。
一瞬なのだ。
わずか三ヶ月の溺れるような恋。甘く、幸せで、そばにいられるだけでいいと思った。
けれど、蓮見には別の未来がある。
新井のような者に蔑まれることもなく、人に隠れて求め合う必要もなく、明るい場所で生きる未来がある。
いつか、全部話す日が来ればいいと思っていた。
そんな日が来ると祈るように信じていた。
それも、全て夢だったのだ。
遥が失くしたものと同じものを、蓮見から奪いたくなかった。
仕事で家を売る。遥はいつも、その家族の幸福を願う。三十坪ほどのささやかな家。クルマが一台、小さな庭と真新しい外壁。日の当たる場所で父親と母親、そして子どもたちが幸福そうに笑う。
蓮見ならきっと、優しくて頼りがいのある父親になるだろう。
蓮見と未来の家族が、幸福そうに笑う様子が瞼に浮かんだ。
冷たくなった頭の中に、コンコン、と乾いた咳が聞こえる。白くて冷たい雪の夜が横たわる。
――僕が……。
遥が、殺した。
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