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第3話
突然キッチンから姿を消した兄が、再び突然姿を現した。
「何処行ってたの?鍋火に掛けっぱなしじゃんか!」
ふつふつと煮え立つ鍋の前で、お玉を片手に弟はムッと唇を尖らせた。
だが、兄は何の反論もせず、何処かショックを受けた様子で突っ立っている。
訝しげに思った弟が彼の目の前に手を翳し、ヒラヒラ振ってみたが、焦点が合わない。
「兄ちゃん?ちょっと?どうしちゃったの?久しぶりに大翔くん帰って来たのに、嬉しくないの?」
『大翔』と言う名に反応して、漸く兄の眼が弟に焦点を合わせた。
弟はきょとんっと目を丸くして首を傾げている。
「・・・・・・悪い・・・・・・瞬 、大翔にソレ食べさせてやって・・・・・・俺部屋でちょっと寝てくる」
ふらふらとキッチンを出て行く兄の背中を見送り、弟は首を傾げた。
「おやすみぃ・・・・・・って、何落ち込んでんの?」
取りあえず二人分の食事を用意して、自分の席に着く。
シンと静まり返った部屋の中。
壁に掛けられた時計が静かに時を刻んでいる。
テーブルに肘を立て、秒針をぼんやりと眺めていた。
「・・・・・・・・・・・・あの?」
秒針が何周したか数えるのに飽きた頃、漸く大翔がやってきた。
「大翔くん、遅いよぉ!兄ちゃん待ちきれずに寝ちゃったじゃん!」
ガタンと音を立てて椅子から立ち上がると、びくりと肩を震わせて大翔が一歩下がった。
「どうしたの?」
大翔の反応に、瞬はきょとんと目を丸くして小首を傾げる。
「・・・・・・・・・・・・お前・・・・・・誰?」
壁際まで下がり、何かに怯えているように大翔は目の前の銀髪男を見た。
彼の眉間に深い皺が刻まれ、訝しげな表情で大翔を見詰め返す。
「誰って・・・・・・瞬だよ?何言ってんの?」
「じゃぁ、アイツは?アイツは何なんだよ!」
(アイツ?)
この屋敷に住んでいるのは自分と兄だけ。
「兄ちゃんのこと?」
思い当たるのは兄のことだけ。
「兄?」
「永久 兄ちゃん!本当の兄弟じゃないけど・・・・・・まぁ、俺狼男で兄ちゃんは吸血鬼だから・・・・・・って、今更でしょ?」
「知らねぇよ!なんだよ、それ!」
「へ?」
まったくおかしな事を聞いてくるなぁ、と肩を竦めて見せた瞬間に、思わず自分の耳を疑うような返事が返ってきた。
「からかってんのか!お前ら何なんだ!俺をこんなとこに連れてきてどうする気だよ!!」
「・・・・・・・・・・・・何言ってんの、大翔くん?」
信じられない事を口にする目の前の彼は、どうやら本気で自分の事を恐れている。
自分に向かって恐怖の眼差しを向けてくる。
こんな視線を向けられるのはいつ以来だろうか?
けれど、彼からそんな視線を向けられたことなど、今までに一度もない。
なかったのだが・・・・・・
「何でそんなこと言うんだよ!」
「ち、近寄んな!!」
テーブルを越えて近づこうとした瞬に震える声で叫んだ大翔の呼吸は浅く、早い。
おおよそ演技とは思えず・・・・・・・・・
「知らねぇ!てめぇらなんか知らねぇ!」
首を大きく左右に振り、瞬を拒絶する。
「うそだ!知らないなんて言うな!」
「嫌だ!来るな!!」
瞬の目が金色に光った。
「大翔くん!」
「来るな!!」
大翔は瞬に背中を向けて駆け出した。
「大翔くん!!」
「知らねぇ!瞬も永久も!!知らねぇっつってんだ!!」
背後から瞬の足音が聞こえ、すぐ近くにあった扉を開けて部屋に飛び込んだ。
扉に鍵を探したが見付からず、両手でノブを掴んだ。
直後、バンッと扉に衝撃があった。
ノブがものすごい力だ捻られる。
更に強い力が扉を押し、大翔は部屋の中央へ吹っ飛ばされた。
「痛っ!」
床を転がり、テーブルか何かの足に背中を強かに打ちつけた。
「大翔くん!」
瞬は倒れている大翔の身体に馬乗りになって彼の胸倉を掴み上げた。
「やめろ、瞬!」
突然頭上から入った静止の声にビクッと瞬が動きを止める。
それは昨夜聞いた、いや先程別の部屋でも聞いた声だった。
大翔からは見えない位置にあるベッドの上でゴソゴソと身動きする影があった。
「大翔から離れろ」
「・・・・・・・・・・・・兄ちゃん」
ベッドの上で赤い目がこちらを観察するように動く。
途端に冷静を取り戻した瞬が、ゆっくりと大翔の上から退いた。
体の自由が解放されて、大翔は身体を捻って窓があると思われる方角へ這って行く。
腕は震え、うまく力が伝わらない。
暗幕のようなカーテンまで辿り着くと、その裾を握り締め、一気に開いた。
燦燦と照り輝く太陽の光が部屋の中に入り込む。
瞬はその光に手を翳し、ベッドの上では永久が眩しそうに目を細めた。
二人をそのままに大翔は窓を開けてバルコニーへ飛び出した。
「大翔くん!」
手摺に身を乗り出して飛び出そうとしている彼の背中に瞬が手を伸ばす。
手摺の向こう側は断崖絶壁。
落ちれば間違いなく命を落とし、湖の底に沈んだ体は二度と浮かんでこない。
大翔の足が手摺に乗せられたとき、瞬が飛び出すよりも早く、永久の腕が大翔を捉えていた。
そのまま大翔を抱き込んでバルコニーに倒れ込む。
「嫌だ!離せ!!触るな!離せぇ!!」
パニックに陥った大翔が永久の腕の中で暴れる。
だが、永久はその腕の力を緩めようとはしなかった。
「ごめん・・・・・・もう何もしないから・・・・・・大翔、大翔」
背後から抱き締められたまま、大翔は首を左右に振り続ける。
瞬はその様子をただ呆然と見詰めていた。
本気で大翔は兄を拒絶している。
「嫌だぁ・・・・・・離し・・・・・・てっ・・・・・・離せっ!」
「頼む、大翔・・・・・・落ち着いてくれ・・・・・・何もしないから」
この声は大翔の耳に届いているだろうか。
「・・・・・・・・・・・・何もしない」
永久はそう繰り返していた。
腕の中の大翔の身体から次第に力が抜けていく。
大翔の声が聞こえなくなり、そっと腕の力を抜いた。
「大翔?」
ぐったりとした大翔の頬に手を当て、髪を後ろへ流してやりながらその顔を覗き込んだ。
腕の中の大翔はいつの間にか意識を失っていた。
「兄ちゃん、その人、大翔くんだよね?なんで僕らのこと知らないなんて言うんだ?ねぇ、なんで?」
「俺だって分かんねぇよ・・・・・・くそっ!」
強く大翔を抱き締めて、永久は唇を噛み締めた。
(ここ出て行ってから何があったんだよ・・・・・・大翔)
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