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第30話 恋に恋するでもない話9p
「嵐、天谷を連れて来てくれてありがとうな。あの、あの子はどうした?」
日下部が聞くと嵐が直ぐに答えた。
「あの子……榎本はね、私が行った時は少しは落ち着いた様な感じに見えて、もう一人で大丈夫だからアタシ達は行っていいってさ。ま、他人のアタシ達が一緒にいるよりは一人がいいかもだし、本人の言う通りに一人にして来たよ」
「そうか」
日下部は嵐の話を聞いて、小さくため息をしてから、嵐に向けていた視線を天谷に移した。
天谷はとっさに日下部から目をそらす。
(う、なんだかいたたまれない。日下部に見られるのがなんだかすごく恥ずかしい事な気がする)
そう思って天谷は下を向いた。
日下部は日下部で複雑な表情を浮かべて天谷の顔を見ている。
二人の間になんとなく気まずい空気が漂う。
「えっと、あの、二人とも?」
嵐が戸惑い顔で二人を見て声を上げた。
その声を合図にする様に日下部が突然、無言で天谷の手を掴んだ。
「え?」
嵐は日下部と天谷の握られた手を見て目を丸くした。
「はへっ?」
天谷は驚いて妙な声を出した。
急に手を掴んだりして、日下部は一体どういうつもりなのか、疑問の言葉を天谷が口にするより早く、日下部は嵐に、「悪い、ちょっと行くわ」と言うと、天谷の手を掴んだまま歩き出した。
天谷は日下部につられて訳もわからずに足を動かす。
足がもつれて天谷は転びそうになるが日下部は立ち止まらない。
「あの、日下部?」
天谷のかける声を無視して日下部は無言のままに天谷を連れてグングンと歩く。
「えっ? ちょ、日下部? 天谷? 何? 何? どこ行く気? え? ちょっと、もう直ぐ次の講義始まるよ!」
嵐は遠ざかる日下部と天谷に向けて叫んだ。
日下部は嵐の声に立ち止まることはしなかったし、その日下部に引きずられる様に連れていかれている天谷は自分の状況について考えることで頭がいっぱいで嵐を気に止めてはいなかった。
二人が去った後、嵐はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やれやれとため息を吐いて二人とは逆方向に歩いた。
日下部は天谷を連れて廊下をどこまでも進む。
「日下部、どこ行くんだってば! 止まれって、ちょっと!」
天谷はそう言うが、日下部は答えないし、止まらない。
(日下部、黙ったままでなんなんだよ)
天谷は舌打ちをした。
天谷の目の前に階段が見える。
この階段は屋上へ続く。
天谷は日下部に引っ張られながら階段を危うい足取りで登った。
「日下部、離せよ! このままだと屋上だぞ! おい! 止まれよ!」
そう言うなら天谷自身も足を止めるべきだが、混乱している天谷にはそれが出来なかった。
人気のない屋上の階段の踊り場まで来て、日下部は足を止めた。
急に足を止められた天谷は勢い良く日下部に抱きついてしまった。
天谷は慌てて日下部から離れようとしたが、なぜか日下部の方が天谷を離さなかった。
「なんだよ! 離せ! ばか! 冗談……」
天谷は日下部に、冗談はよせと言うつもりだった、なのに言えなくなってしまった。
とても冗談だなんて言える空気ではない。
天谷は日下部に抱きしめられていた。
「っつ、日下部?」
驚いて天谷が日下部の顔を見ると、日下部は天谷が今まで見たこともない表情を浮かべて天谷を見返した。
「あ、えっ……日下部、あのっ……」
天谷は戸惑う。
(こんな顔、見せられて、どうしたらいいんだよ、日下部、どうしちゃったんだよ)
天谷の体から一瞬力が抜ける。
すると、天谷を抱きしめる日下部の腕が片方緩む。
その隙に日下部の腕の中から抜け出せそうなのに天谷はそうしなかった。
日下部は腕を片方、天谷の体から離した。
日下部の指先が天谷の頬に触れる。
その指先はゆっくりと滑り、天谷の唇に触れた。
日下部は天谷の唇に人差し指でゆっくりと、確かめる様に触れる。
「んっ」
天谷の唇から無意識の声が上がる。
(な、何? この状況、一体何?)
天谷は考えたが答えを見つける余裕が無かった。
「あっ、やっ、くっ、日下部っ」
日下部の手が天谷のシャツの中に入り、裸の腹を撫でている。
無防備な所を撫でられて、天谷は今まで味わったことのない妙な感覚に上ずった声を上げる。
(うっあ、やっ、なんだよ、この展開、急展開過ぎだろ! 誰も予想してねーよ、こんなのっ!)
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