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第三話 桜の巻(前編)

 見世が開くこの時間、部屋の中から格子越しに外を眺めてはまた溜め息をつく。見物人だけでなく此方に見向きもしない通行人の顔を見ても、そこにいて欲しい人の姿は無い。 「もう俺の事を忘れたのか……桔梗」 丁度三年前の今日に年季が明け、晴れて自由の身になった恋人が廓を出てから今日まで一度も会っていない。偶に顔を見に来るとの約束も果たされた事はなかった。 「桔梗さんがどうかしたか?」 隣で見物人を値踏みしていたらしい紫陽花が珍しく反応してきた。 「桔梗さんが此処を出てから一度も会えてない」 「嗚呼、そういえばお前と仲が良かったね。だからと言って一々見世に来るものではないしょう?」 なんて事無いように紫陽花は言う。俺と桔梗が付き合っているのは誰にも言っていなかった。「仕事の妨げになる」と反対されて引き離されるのが怖かったからだ。だから別に紫陽花が冷たいというわけじゃない。 「探す気はないが見かけたら言伝(ことづけ)くらいはしておきましょうか?『桔梗さんが会いに来てくれないから桜は女々しく泣いてます』って」 「泣いてねえ! けど頼むわ」 「成功報酬は?」 紫陽花が俺をじっと見据える。珍しく親切だと思ったらやはり報酬金目当てかよ。逆に言えば札束をチラつかせれば協力的になってくれると言うことだ。こいつは"見かけたら"と言ったが金額によっては探してくれるだろう。 「三十でどうだ?」 指を三本目の前に差し出せば、紫陽花は微笑んだ。 「見世に近寄ったら捕獲して差し上げます」 「流石食虫花、頼りにしてる」 「誰が食虫花だ」 食虫花……いや、紫陽花が眉を顰める。凛々しい華に見せかけて寄ってきた客を喰らって有り金を搾り取るんだ。渾名にはぴったりだと思っている。 「本当に言伝一つにそんなに払ってくれる気か? 後でやっぱなしは無いよ」 「桔梗の気を引けるなら安いものだな」 そもそも三年も音沙汰がないんだ。今更来ることもないだろう。五年前、桔梗さんはまだ子供だった俺に付き合ってくれただけだ。離れてひと月経った頃からずっと自分にそう言い聞かせていた。俺の年季が明けるまで待つと言ってくれたのも嘘かもしれない。あの人は優しいからそう言ってくれただけだ。 「失礼致します。桜様、お客様が上がられました」 ぐるぐると一人でそんな事を考えていたら禿の奏に呼ばれた。 「はいよ」 俺は優雅に立ち上がり、奏の後に続いて部屋を出る。 「客の前でもずるずる引き摺らないように」 「わかってるよ」 教育者のように言う紫陽花の方を見ずに返事をして、奏を追い越して早足で専用の部屋に行く。  この日は三人目の客を見送ったところで見世が閉まった。その後軽く食事をしてから寝所で眠り、昼過ぎに目を覚ます。いつも通り遅めの昼飯を食べ終えた時に柊さんに呼ばれた。   「桜、ちょっと良いかい? 大事な話があるんだ」 急に胸騒ぎがした。嫌な予感がする。聞かなきゃいけないけど聞きたくない。それでも断るわけにはいかず、俺は柊さんの元に向かった。 「それで、大事な話と言うのは?」 「うん。君のね、身請け先が決まったんだ」 「はあ!?」 重い空気が流れることはなく、柊さんはさらりとそう言った。 「何故ですか!? 嫌です! 俺、年季明けまで此処に居ます!」 嫌だ、と訴えても柊さんは首を横に振った。 「だけどもう決まった事だ。残念ながら今回の件は君に拒否権は無いよ」 「何でだよ」 頭にカッと血が上り、思わず柊さんの胸ぐらを掴んだ。それでも柊さんは落ち着いた様子で俺を見るから余計に苛立つ。 「ち、ちょっと桜さん、柊さんに何しているんですか!」 廊下を通りかかったらしい俺の二つ下のタチ花魁である椿が駆け寄り、柊さんから俺を引き剥がした。二人きりではない状況にようやく少しだけ冷静になる。 「確かに勝手に話を進めたのは悪かったと思っているよ。これも先方からの頼みだったんだ。だけど桜はどうしてそんなに嫌がるんだい?」 「だって、俺は……」 何度口を開けても柊さんの問いに答えられない。桔梗との約束があるなど言えるわけがなかった。俺は唇を噛んで俯く。 「君を身請けする人はきっと誰よりも君を幸せにしてくれる筈だ」 そんな人が居るわけない。桔梗以上の人は居ない。 「今日見世が開いたら君を引き取りに来る予定だから、それまでに荷物を纏めて挨拶を済ませておいてほしい」 無言で柊さんの元を離れ、自室まで歩く。だんだん目頭が熱くなってきた。ゆっくりと行き場のない感情が目元に集まり、零れ落ちてくる。自分の部屋に入り障子戸を閉めた瞬間、足の力が抜けてその場に崩れ落ちた。    どれ位の時間が経ったか、暫くしてから障子戸の向こうから俺を呼ぶ声が聞こえた。 「桜さん……入っても宜しいでしょうか?」 遠慮がちに聞こえたのは菖蒲の声だった。俺は背を向けたまま入れ、と促す。 「失礼致します」 「何の用だ?」 振り向かずに聞いた。菖蒲は俺の正面に座りじっと此方を見ている。 「椿さんに聞きました。今日身請けされると……」 「その話はすんな」 「嫌なら、廓から逃げませんか?」 その言葉にハッと顔を上げた。もう二十年近く此処で暮らしていたんだ。その選択肢を考えたことはなかった。 「他の廓でそういう事例がありました。不可能ではないんです。俺は……見つかって捕まるのが怖くてできませんでしたが……一つの手だと思います」 「逃げる……そうか、上手く行けばこのまま……」 ほんの少し、希望が見えた気がした。 「それはお勧めしない。もし逃げるなら私が止める」 何の断りもなく紫陽花が部屋に入ってくる。部屋の外から話を聞いていたようだ。 「俺を止めるってどういう事だ?」 「どうって、その言葉の通りの意味でしかないでしょう」 紫陽花が座るのと同時に菖蒲がそっと距離を取る。相変わらず紫陽花が苦手なのか。分からなくはないが。 「紫陽花、俺の全財産の九割をお前に渡す。俺の逃亡に協力してくれないか?」 普段ならこれで頷く筈だ。しかし紫陽花の瞳は揺るがなかった。 「柊さんの方に付いているのか?」 「別に何方の味方をするかなんて考えていないよ。ただお前は逃げ出すよりもこのまま夜を待った方がいい」 紫陽花は障子戸の前に座り直した。代わりに菖蒲が立ち上がる。 「それでも、だって理不尽じゃないですか! 桜さんは此処に残りたいって言ったのに!」 「残りたいなら残ればいい。どうせ逃げ出したらもう二度と華乱の上級花魁など名乗れやしないでしょう」 それは確かにその通りだ。菖蒲が言葉に詰まっている。でも俺はこの仕事を続けたくて残りたいわけじゃない。年季が明けて自由の身になって桔梗の元に行きたいだけだ。身請けなんかされたら一生会えなくなるかもしれない。 「それでも、他の誰かの物になりたくねえんだ」 「桔梗さんか?」 紫陽花の言葉に思わず目を逸し、手で口を塞いだ。何事か分からないのであろう菖蒲はきょとんとした顔をしている。 「桔梗さんがどうかしたんですか?」 「桜と桔梗が恋人同士だって話だよ」 俺の代わりに紫陽花が答える。菖蒲はえっ、と声を上げた。 「じゃあ尚更此処を出た方がいいじゃないですか! 桔梗さんのところに行きましょう」 グイッと俺の手を引っ張る菖蒲を紫陽花が止める。菖蒲の目は何でだよ、と言いたげに紫陽花に向いていた。 「菖蒲、最近仕事が楽しくなったからって忘れたのかい? 廓は牢獄だって事をさ」 「ですが、昔廓から抜け出した人が居たって……」 昔、今から二十年以上前に一人の男花魁がとある遊郭から逃げ出した。その話は俺も何度か客から聞いた事がある。確か楼主の部屋に火を点け、その混乱の隙に去って行ったとの話だ。 「で? その花魁がどうなったのかは知っているのか?」 「それは……」 紫陽花は口篭る菖蒲に追い打ちをかけるように言う。 「途中で捕まったとか殺されたとか言われている。何方にせよいい話ではありませんよ。菖蒲も知っているでしょう?だから禿のうちに逃げ出せなかった。違う?」 「……………」 菖蒲は唇を結んで完全に黙ってしまった。きっとその通りなのだろう。 「諦めがついたら二人共支度を整えなさい。もうすぐ見世が開く時間になる。嗚呼、桜に一ついい忘れていたが__」 紫陽花の言葉に目の前が真っ暗になった。紫陽花が部屋を出ていき、障子戸が閉まる音だけが聞こえる。 「桜さん? 大丈夫ですか」 残された菖蒲が心配そうに俺の顔を覗き込む。だけどどうしても目を合わせる気になれなかった。 「悪い……一人にしてくれないか」 菖蒲はそれ以上何も言わず、立ち去ってくれた。一人になった途端、紫陽花の言葉が頭を支配する。できればあいつので嫌がらせの為の嘘であってほしい。さっきまで止まっていた筈の涙がまた溢れ出してきた。 「桔梗さんはお前との約束を守れない、と言っていたよ」 理解っている。もしも桔梗さんが覚えていたとしても、破るのは俺の方だって事を……

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