5 / 18
第三話 桜の巻(後編)
いつの間にか、部屋が薄暗くなり、外の方が騒がしくなってきた。微かに威勢のいい客寄せの声も聞こえる。いっそ一生来なければ良いのにと思っていた時間が来てしまった事は嫌でも分かる。
「桜、入っても良いかい?」
障子戸の向こうから聞こえた声にビクリと肩が跳ね、一気に緊張が走った。柊さんの声だ。
「もうすぐ約束の時間になる。身請けの件は僕から皆に話しておいたけど、桜の方は準備はできているかな?」
できているわけがない。そもそもする気もなかった。でも柊さんもそんな事は予想できていたのだろう。しつこく返事を求めてはこなかった。
「桜、せめて顔合わせだけはしてほしい。彼は本当に君を愛していて、きっと大切にしてくれる人だ。幸せになれるかどうかは桜次第だけどこれだけは信じている。だから数分でも良い。ちゃんと会って会話をしてくれないか?」
「そんなんで俺の気持ちが変わるとでも思ってるんですか? 絶対に"はい"なんて言いませんから」
自分の声は思った以上に低く冷たかった。でも柊さんに悪いと思う気持ちは一切ない。戸で隔てている上、俺は背を向けているから柊さんがどんな顔をしているのかは知らない。長めの沈黙が続き、暫くしてから従事の者らしき男の上擦った声がした。
「例のお客様がいらっしゃいました」
「客間にお通ししてくれ」
「かしこまりま……あっ、ちょっと、あの」
男の返事が慌てた声に変わった。柊さんが溜め息をつく。
「勝手に上がっていいとは言ってないが……まあ、桜は見ての通りの様子だ。部屋から一歩も出てきてくれない」
俺を身請けする男がそこに居るのだとわかった。くっくっと微かに聞こえる笑い声に懐かしさを感じるのは気のせいだろうか?
「桜さん、僕が貴方を身請けする者です。どうかお顔を見せてはいただけませ……」
「桔梗!?」
よく知っている声に驚き、話も最後まで聞かずに勢い良く障子戸を開けた。
「うわっ」
そこに居たのは着古してところどころほつれた服を着た、肩まで伸びた暗めの茶髪の男だった。見間違える筈もない、待ち望んでいた恋人だ。
「なんで……?」
桔梗は気まずそうに目を逸らし、口を開く。
「ごめん……約束破った。桜の年季明けまで待てなくて」
「なんで言ってくれなかったんだよ」
今日何度目かわからない涙が零れた。声も震えている。桔梗は申し訳なさそうに眉を下げた。
「驚かせるつもりだったんだけど、ごめんね。傷つけたよね」
「もう、っ、二度……ヒック、二度と会えなく、っなるかも……ヒック、って、おも、った」
「三年間一度も来れなくてごめん。ずっと待っていてくれてありがとう」
まともに話せない。上手く呼吸もできない。充分過ぎる程に腫れた顔を見せたくなくて着物の袖で顔を隠す。そのまま包み込まれるように抱きしめられた。
十分くらい経ってやっと、懐かしい匂いと心地良い心音に落ち着く事ができた。
「そろそろ正式に取り引きに移りたいんだけど大丈夫かな?」
半ば忘れかけていた柊の存在をやっと思い出し、慌てて桔梗から離れた。
「あっ、うん、どうぞ」
桔梗も柊さんの方に向き直る。
「書類も印も僕の部屋にある。そっち行こうか」
俺達は揃って柊さんの部屋へと向かう。俺と桔梗は柊さんから三歩後ろに離れてこっそりと指を絡ませて歩いた。
部屋に入ってから柊さんと桔梗は机に幾つもの書類を広げ、話し合っている。名目上只の「商品」の俺は蚊帳の外だ。
「桜、はい。これだけ読んで署名して」
ぼーっと二人のやり取りを眺めていたら一枚の文字が少ない紙を桔梗から渡された。簡単に言うと俺が桔梗に引き取られるという旨の内容が書かれており、楼主である柊さん、身請け人である桔梗それから身請けされる花魁の俺の署名をするものだった。
「これ源氏名でいいんですか?」
「そっちで良いよ」
桔梗から小筆を借り、サラサラ書きなれた自分の名前を書く。
「出来ました」
紙を柊さんに渡そうとしたが受け取ってくれる気配が無い。その紙の、俺の署名した部分をじっと見つめているだけだ。何か間違っていただろうかと見直すが、書く場所も自分の名前も間違ってはいないと思う。
「柊さん?」
「僕がこれを受け取ったら君はもう僕の物ではないし、華乱の花魁でもない。君の所有権は君の隣の男に渡る。本当に良いのかい?」
「はい!」
俺は背筋を伸ばして居住まいを正し、真っ直ぐに柊さんの目を見た。再び両手で署名した一枚の紙を柊さんに差し出すと、ようやく受け取った。柊さんに安堵の表情が浮かぶ。
「うん。確かに受け取りました」
「よっしゃ!」
桔梗が両手を上げる。さっきまできっちり座っていたのにもう既に足を崩し始めた。それを横目に柊さんは書類を纏めている。書類の端からちらりと覗いた、零が幾つも書かれた数列は俺の身請け金だろう。軽く俺の上級花魁になってからの三年分の俸給はあった気がする。つまり普通の花魁、向日葵や菖蒲、夕顔達の六年分以上の筈だ。
「桔梗……お前この金どうしたんだ?」
「えっ? どうって……此処で稼いだ分が殆どだけど。多少は最近の稼ぎも含まれているよ?」
「此処で稼いだ分って、お前の稼ぎ他の奴らよりちょっと少なかったじゃねえか?」
幾ら年季が明けて三年経ったからって他の仕事じゃあ廓での稼ぎよりも圧倒的に少ない。ましてや桔梗の俸給は花魁の中でも少ない方だった。
「それはだってかなりの金額を先に抜き取ったから」
「おい!」
桔梗は悪びれずにあっさり告白した。しかも柊さんの目の前で。俺は恐る恐る柊さんを見る。
「ん? 結構皆ちょろまかしているみたいだよ? 桔梗が一番判りやすく持っていったけどね」
「きっちり全額渡してるの柊さん大好き組と馬鹿正直な桜ぐらいだって」
柊さんと桔梗は顔を見合わせて笑った。信じられない。そんな話は誰からも聞いていない。
「ところで次の上級花魁を決めるんだけど、桜の方から誰か推薦したい子はいる?」
散々笑ってから柊が聞いてきた。次のネコ側の上級花魁を決める。真っ先に浮かんだのは向日葵だった。あいつの集客数は俺とほぼ同じ、若しくはそれ以上だ。多分ここで名前を出せば間違いなく柊さんの中でも有力候補に挙がるだろう。
「いえ。柊さんの意向のままに」
だけど俺はそう答えた。俺の手を借りるのはあいつにとって不本意だろう。空いた席があるなら必ず自力で登ってくる。向日葵はそういう奴だ。
「じゃあこちらで決めてしまうよ。結果は今度通りがかりにでも見に来てくれ」
「はい」
それじゃあ行こうか、と桔梗が席を立った。俺も桔梗が伸ばした手を取って立ち上がる。
「桜さま、僭越ながら門出のお支度をさせて頂きました」
柊さんの部屋を出た所で奏が俺の鞄を持って立っていた。鞄を受け取り中身を確認すると、俺の私物と貯めておいた今までの金が全て綺麗に入っていた。
「それからこれ、桜の今月分の俸給。無駄遣いしないように」
柊さんに渡された封筒を受け取る。まるまるひと月分はないからいつもよりも軽い。
「見送りは此処で良いかい?」
「はい」
柊さんはしっかりと手を繋いだ俺と桔梗を交互に見て微笑んだ。
「それでは桜、桔梗、末永くお幸せに」
「勿論」
「はい! 柊さん、今までお世話になりました。ありがとうございました」
柊さんに向かってゆっくりと深くお辞儀をする。再び頭を上げたとき、柊さんはとても優しい顔で俺を見ていた。気のせいかその隻眼の瞳は潤んでいる。
「こちらこそ、長い間華乱を支えてくれてありがとう」
ほんの数秒抱きしめ合って、俺達は表玄関へ向かった。華乱の見世を外から見れば、見物人の人垣の隙間からよく見慣れた数人の花魁が、皆好き好きに過ごしているのが見える。上級花魁の部屋では何人目かの客を取りにきたらしい紫陽花が奥から戻ってきた。紫陽花と一瞬だけ目を合わせ、そしてそれぞれ別々の方を向いた。俺はこれから向かう新しい道へ、紫陽花は自分を求める見物人へ。
俺が桔梗に買われて一週間が経った。そういえばそろそろ見世が開く時間だと、お使いの最中だけどふらっと買い物袋を持ったまま華乱の前を横切る。
「さあさあ、お兄さんも旦那様も寄っていらっしゃい! 今夜も綺麗な花が咲いているよ」
あの部屋の中で聞いていたよりもよく通る客寄せの声が聞こえ、変わらず人が群がって見世の花魁を見ていた。変わった事はひとつ、上級花魁の部屋で紫陽花の隣に座っていたのは向日葵だった。
「向日葵、おめでとう」
それだけ呟いて俺は桔梗の待つ家へと歩き出した。
ともだちにシェアしよう!