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第六話 柊の巻

 此処は男遊郭、華乱―からん―。男相手に身を売る男花魁の見世__そして僕は華乱の楼主。花魁を管理し廓を経営するのが僕の仕事だ。僕もかつては花魁だった。否……確かに廓でこの身を売れど、花魁のような美しさは無かったから只の奴隷だった、と言ったほうが正しいね。 「……さん? ……らぎさん、柊さん」 誰かに呼ばれて漸く意識が覚醒してくる。開いた目に真っ先に映ったのは机に多く散乱した書類、その次に僕を起こした声の主である僕とさして変わらない年齢の下働きの男、北野だった。 「あれ……僕、居眠りしてた?」 「ええ。本来ならそのまま仮眠を取って頂きたいのですが、先程向後(むこうご)様がお見えになりまして……」 「和希さんが? 分かった、行ってくるよ。起こしてくれてありがとう」 今いらっしゃったらしい客人、向後和希さんは楼主に捨てられて行き倒れていた僕を拾ってくれた恩人でありこの華乱の財経を支えている人で、この建物を建てたのも華乱に十分な利益が出るまで金銭的支援をしてくれたのも和希さんだ。申し訳なさそうに頭を下げる北野に礼を言って自室を出る。多分あの人は勝手に客間で茶葉の棚を漁って寛いでいるだろう。 「和希さん、お待たせしました。今日はどうしたんですか?」 客間の障子戸を開ければ予想通りいつもと同じ場所に座ってお茶を飲んでいた。使用人が僕を見て一礼する。 「どうした、って……お前の顔がどうした? 酷い隈だぞ」 「申し訳ありません。お見苦しい姿で……」 慌てて着物の袖で顔を隠した。鏡を見なかったから分からないけれど、そんなに酷い顔をしているだろうか? 「いやいや、それは良いがお前ちゃんと寝てないのかよ?」 和希さんの問いに素直に頷く。どうせ昔から僕をよく知るこの人に嘘は通じない。 「最近眠れないもので」 「忙しいのか?」 「いえ、それはもう大丈夫なのですが、どうも寝付けなくて」 「どうせ寝ても悪い夢でも見るんだろ。昔の事か? それともこの間の彼岸花の件か?」 そう言われて鮮やかな赤色の着物を着た虚ろな瞳の少年が脳裏に浮かぶ。年齢で言えばもう充分青年と言っても良い年頃だけれども雰囲気はまだ幼かった子だ。 「あの子は……僕が死なせてしまいました」 「お前のせいじゃないだろうよ」 「あの日彼が廓を出ていくのを咎めれば、引き止めればそんな事にはならなかった……僕の責任です」 和希さんは無言で僕の頭に手を置いた。僕より大きな手が優しく僕の頭を撫でる。 「確かに廓で花魁が死んだらどんな理由があろうと楼主に責任が問われる。お前の仕事は花魁を客に売る事だ。商品が良い状態じゃなけりゃまともな客は来ない」 手が僕の頭を撫でたまま、先程まで優しかった声は急に厳かになった。 「お前の間違いは彼岸花が廓を出ていくのを黙認した事じゃない。彼岸花をあの状態のまま見世に出して客を取った事だ。自分探しの為に廓に来た人間をそのままにするな。花魁の心身の健康を守るのもお前の仕事だろう」 「すみませんでした……」 僕は和希さんに深く頭を下げる。和希さんが言った事は正論だ。僕は彼岸花の願いを鵜呑みにして必要最低限の事だけを教えて見世に出した。そもそもが間違っていたんだ。 「柊、お俺が何故お前の為に華乱を創ったか覚えてるか? お前は何がしたいんだ?」 ふと、僕が和希さんに拾われたときの事を思い出す。和希さんのお陰で生き延びた僕は廓など失くなってしまえば良いと言った。でもそれは難しい。遊郭は金持ちの娯楽として浸透しているし、遊郭に我が子を売らなければ生きていけない人間もいる。いくら和希さんでも全ての家を支援することはできないし売られる子供を一人残らず買い取る事もできない。政治的権力も金も無い僕は何もできないし、もうこの身体の価値すら酷く安い。現実を諭され無力を痛感したのは今でも鮮明に憶えている。 「……だから、僕は……せめてまだマシな場所であろうと……何処か救いのある地獄であればと……」 金を儲ける事しか考えていない楼主もいる。自分が愉しむ為に花魁を飼う楼主もいる。そんな輩の元で働く花魁を一人でも減らしたい。それが綺麗事だという事も、妓楼に繋がれた花魁にとって僕も他と同じ存在だという事も分かっている。他人の体を売買しておいて言える事じゃない。それでも花魁にとって何処かにほんの少しでも光がある場所にしたい。心休まる何かを与えられる楼主でありたい。これが僕の願いだ。 「分かっているならちゃんと実行しろ。お前の大事な子らを一人一人ちゃんと見てやれ。良いな?」 「はい……」 僕が返事をすれば和希さんはニッと白い歯を見せて笑った。そして僕は和希さんに強い力で引き寄せられ、その腕の中へと収まる。そして10秒程、赤子をあやすように背中をさすられてから漸く離れた。 「よし! 一先ずお前は寝ろ」 「ですが、もうすぐ見世が……」 「充分に睡眠を取っていない寝不足の奴に、何かあったときの対処を任せられると思うか? 大丈夫だ、俺が見ているからちょっと休め」 「いえ、皆が働いているんです。僕だけ休むわけには……えっ、ちょっと離して、降ろしてください!」 和希さんは軽々と僕を持ち上げ、客間を出ていく。向かった方向は僕の自室がある方だ。 「寝ろ。お前が寝るまで見世は開けない」 「え……」 「東、布団を出せ」 「畏まりました」 和希さんの使用人は勝手に部屋の襖を開け、布団を敷く。僕はその上に優しく降ろされた。 「寝れないんなら手え握っててやろうか?」 「僕が一人じゃないと眠れないのは知っているでしょう?」 仕方無く掛け布団を被る。寝たフリでもしなければ和希さんは絶対に帰らない。僕が目を閉じれば、和希さんは僕の右手を軽く握り、優しく囁くように言った。 「良い子だ。そのまま休め」 その言葉通り僕の意識は、和希さんが部屋を出てすぐに遠のいていった。  目を覚したとき、外は随分と明るかった。 「今何時だ……」 「おはようございます、柊さん。よく眠れましたか?」 「もう起きるのか? 因みに今は午前10時だ」 僕の部屋にいたのは椿と向日葵だった。和希さんは見当たらない。 「お早う。和希さんは何処に?」 「向後様なら見世が閉まってからすぐ帰った」 「そうか、ありがとう」 充分眠ったお陰で久しぶりに頭がスッキリしている。 「良かった、隈も随分薄くなっていますね。あ、そうだ、朝ご飯どうしますか? 食べられますか?」 「うん、食べたいな。お腹空いたよ」 「じゃあ食堂行くか! 俺も腹減った」 真っ先に向日葵が部屋を出ていく。僕は椿と並んでゆっくり歩いて食堂へと向かった。 「おはよう御座います。お加減は如何ですか?」 「柊おはよー。今日は鮭だって」 「柊さんもう大丈夫ですか?」 「ねー柊、今日この後昼顔と町で買い物してもいーい?」 僕が食堂に入れば皆が口々に話し掛けてくれる。随分と心配を掛けてしまっていたみたいだ。食堂には殆どの花魁の子達や数人の禿の子が集まって朝食を食べたり談笑したりしていた。今見えない子はきっとまだ眠っているのだろう。京介と昼顔はまだ眠そうだ。 「ありがとう。心配させてすみません。もう大丈夫です」 数人のホッとした顔が見えた。興味なさげに朝食に視線を落とす子達もいる。そしてまたそれぞれ食事や会話を再開させた。    食事を済ませて食堂を出て自室に戻ってから僕は花魁との契約書を眺めた。彼らは此処をどう思っているのだろうか? 僕は彼らに少しでも安らぎを与えられているだろうか? 「彼岸花……僕は君を無下にしたわけじゃない。だけど君の気持ちに寄り添おうともしなかった。もう二度と同じ過ちを繰り返さないよ。君の事も忘れない」 僕は契約書の束から彼岸花のものを取り出し、『任期満了』の印を押す。どれだけ考えても彼岸花が出ていった理由も最期に何を思ったのかも僕には分からない。けれど此処にいる間、幸せではなかった事だけは確かだ。だからもっと大事にしよう。今此処に居る子達に、これから此処で働く事になる子達に、少しでも笑顔が見えるように……  そして、僕がこの世を去っていつか逢えたら、そのときはどうか、真っ直ぐに君と向き合って謝りたい。それまでは、僕は僕が創った地獄で皆を愛し続けるよ。口先だけの理想じゃなくて、ちゃんと一人一人を大切にすると誓うよ。 __それが、無力な僕の我儘

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