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第七話 紫陽花の巻(前編)
光城家と言えば遥か昔から都に広大な屋敷を構え、都が他の地に移ればそれに合わせて屋敷をまた建て直していた。それに費やせるだけの財力と人を動かす権力があったという事だ。だかしかしそれに胡座をかき、遊び呆けて金をばら撒き、勉学にも仕事にも励むことなく怠惰な生活を送り挙句の果てに詐欺師の女に現を抜かし金も信用も権力も失った先先々代の当主のお陰で光城家は困窮し、最早地に落ちたと言っても過言ではないだろう。現に次期当主の予定であった者は男遊郭で身売りをしている。
「紫陽花様、ご指名です」
「はい、すぐ行きます」
格子の向こうの見物人に笑みを浮かべて一礼し、呼びに来た奏の後を追う。と言っても上級である私と向日葵には部屋が決まっているので部屋の案内は形式だけだ。奏は部屋の前で私に会釈をして静かに立ち去った。
「お待たせ致しました。ご指名ありがとう御座います」
「紫陽花、今日もまた美しいな」
「お褒め頂き恐縮至極で御座います」
本日一人目のお客様、樋笠様の向かいに正座する。珍しく樋笠様はまだ二十代半ばの青年だ。若干童顔でまだ十代と聞いても可怪しくない外見だが交易の手腕は確かだと聞いている。聞いているだけであって実際の真偽は定かではないし興味も無い。ただその若さで随分羽振りが良い所が気に入っている。
「紫陽花、触れてもいい?」
「さあ? どうでしょうか?」
この仕事において大切なのは主導権を握る事。何があっても私が優勢でなくてはならない。相手に流されてしまっては私の価値が半減する。相手が幾ら持っているのかを計り、どれだけ私に貢ぐ気があるのかを見定める。それによってどれだけ奉仕するのかを決める。但し決して卑しく見えないように……
樋笠様は約二寸の厚さの封筒を取り出し、私に差し出した。
「これで今日は何処までしてくれる?」
封筒を開け、偽物ではない事だけを確認して畳にそれを置いた。そしてゆっくりと口角を上げて樋笠様に微笑む。
「本日はどの様に致しましょうか?」
そう問えば樋笠様は頬を赤らめた。
「恋人みたいに抱かれたい」
「畏まりました」
布団の上に移動して樋笠様を引き寄せる。口付けは短いものから長いものへ、優しいものから激しいものへ……
耳元でその名を囁きながら愛撫に時間をかけてじっくりと蕩けさせていく。繋がれば樋笠様の声は一層大きくなり、それまで以上に私を求める。
「は、ッん、あ……あじさ、い」
「樋笠様、樋笠様……」
「あ……や、あ……んあ、は、あッ、あ」
部屋に樋笠様の声と肌がぶつかる音、潤滑剤と体液が入り混ざった水音が響いている。私達は“まるで恋人同士のように”互いを呼び合いながら、果てるまで身体を絡ませた。
「如何でしたか? ご満足頂けましたら良いのですが」
「はっ、はあ、気持ち、良かった。最後、口、で、しても良いか?」
「どうぞ」
避妊具を外して許可を与えれば、まだ肩で息をしていた樋笠様がまるで餌を前にお預けをくらっていた犬のように食いついてくる。
「んッ、む……ジュ、んん」
「ッあ……」
「んむ……んんんッ」
敏感なところに舌が触れ、思わず樋笠様の頭を押さえつける手に力が入ってしまった。
「申し訳ありません。苦しかったでしょう?」
手を話して詫びるが、樋笠様はふるふると首を横に振り、私の手を掴んで再び頭を押さえさせた。そしてまた美味しそうに奥まで咥えしゃぶり続ける。指と唇で扱かれ舌はいやらしく這い回り、水音を立てて吸われ、予想よりも早く気をやってしまいそうだ。
「樋笠様、出しますよ、っ」
そう言って手を離したが樋笠様は離れなかったので、樋笠様の口の中に全て射精する。樋笠様は私のを咥えたままそれを飲み込み最後にジュルッと音を立たて吸ってから、漸く離れた。
「っは……美味かった」
「それは良う御座いました」
濡れタオルを樋笠様に手渡し、着物を着直す。樋笠様の方を見ると、樋笠様は真剣に私を見て聞いてきた。
「なあ紫陽花、俺のものにならないか?」
またか……私は樋笠様に気づかれないように溜息をつく。指名を受ける花魁なら誰でも言われるような事だ。私にも前々から声が掛かるが最近は本当に増えた。
「もうすぐ年季明けるんだろ? そしたら俺のところに来てくれよ」
「申し訳ありませんが、もう身を置く先は決まっているのです」
「チッ……何処のどいつだよ」
それには作った笑みで返す。樋笠様は不満そうだ。私は先に受け取った揚代を袂に入れて立ち上がった。
「出口までお見送り致します」
「分かった分かった」
樋笠様は一切此方を向かず、足早に立ち去った。出口までお見送ってからまた部屋へと戻る。その後は小金持ちの只の雌犬に堕ちた、以前柊さんと椿を襲った不届き者と、最低額程度しか支払わない老人の相手をして終わってしまった。
翌日、昼食を済ませたところで通りすがりの従事の者が私を呼ぶ声が聞こえた。
「ああ、紫陽花さん! もしかしたら紫陽花さんの事かもしれないです。少々お時間頂けませんか?」
「はあ……?」
「すいません。今客人が来て、自分に良く似た花魁がいるから呼んでくれって言われたんです」
客人は恐らく花魁の親族だろう。基本的に女人と華乱の関係者の親族は出入り禁止の筈だ。目の前の男は続けて話す。
「若くて女みたいな顔した男なんですよ。短いけど艶のある綺麗な黒髪で顔も整ってます。どっちかっつうと紫陽花さんみたいな美人で……よく見ると紫陽花さんと似ている気がするんですよ」
「男兄弟に心当たりはありませんが。名前は聞いていないのですか?」
「名前ですか? 彼は____。あ、ちょっと、紫陽花さん?」
その口から出た名を聞いて私は客間へと走り出した。
「光城久弥……」
こうじょう、ゆきや。客間の前で私はもう一度繰り返す。聞き間違いか、或いは同性同名でなければ対面する筈の無い名前だ。何故か? 私の本当の名前だからだ。礼儀も冷静さも失ったまま断りも無しに勢い良く障子戸を開けた。
「紫陽花、君が人前でそんな粗相をするのは初めて見たよ」
戸を開ければ柊さんが居た。口調は優しいが眉を顰めている。柊さんは普段穏やかな人だが、こうした礼儀には厳しい。私は柊さんに向かって頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「以後気を付けるように。君にお客さんだよ」
柊さんに促されて部屋に入り、客人の方を見ると確かにその人は毎日鏡で見る自分に良く似ていた。自分よりも女性寄りの顔立ちではあるが。
「こんにちは」
自分に似た客人から零れたその声は男にしては少し高いものだった。
「紫陽花、彼は光城家次期当主だ。否、次期当主代理と言うべきだね」
「光城家の……?」
軽い驚きはあったものの、そこまでのショックは感じなかった。幾ら私が現当主の長男とはいえ、廓に売られた瞬間にその権利は無くなることくらい予想できていたからだろう。
「とりあえず座りなさい。立ちっぱなしでは話がしづらい」
柊さんに言われ、私は柊さんの隣に座った。丁度客人の目の前になる。
「ご挨拶が遅れてすみません。私は紫陽花と申します」
座ったまま客人に一礼する。客人は無言でじっと此方を見つめていたが、意を決したように口を開いた。
「ご丁寧にありがとう御座います。俺は光城久弥と言います」
「私……の聞き間違いでは無かったんですね」
「はい。俺が久弥です」
“俺が”と、目の前の久弥さんは背筋を伸ばしてはっきりとそう言った。その言葉で、この人は花魁となった私に成り代わったのだと確信した。久弥さんは迷いの無い目で私を見据えている。何も返さなかった私の横で柊さんは立ち上がった。
「僕が居たら話しづらいだろう? 外で人払いをしておくよ。君達二人の会話を聞く者は居ないから、見世が開く時間まで好きに話をすると良い」
そつ言って柊さんは私と久弥さんを残してさっさと部屋を出て行ってしまった。
「……十三年前、充分な食事もできない程に困窮していた光城家は人売りの者達に目を付けられました」
柊さんが去ってから久弥さんは徐に話し始めた。
「人売りの者達は『光城家の長女を売れば金が入る』としきりに当主に話をしました。これでも光城は元良家です。娘を廓に売れば家を立て直せるくらいの金を得られると、人売りは何度も何度も言いました。実際、そうでもしなければ一家全員が餓死するかもしれない状況でしたから」
久弥さんは悲しそうに目を伏せる。そしてまたゆっくりと話を続けた。
「それでも、当主は……両親は人売りの者達に娘を売るのを躊躇いました。娘が見知らぬ人らに身体を売るなどきっと耐えられなかったのだと思います。だけど、人売りはしつこく何度も当主に言い聞かせ続けました。当主が娘を預ければ、自分達が儲かるから……」
両手を握りしめて唇を噛む久弥さんに代わって私は続ける。
「だけど、両親は娘を引き渡す事はしなかった。何故ならその必要は無くなったから」
「……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」
下を向いて何度も謝罪の言葉を口にした“久弥さん”の声は紛れもなく女性のものだった。先程の態度とは一転、背中を丸めて両手で顔を覆っている。
「花菜……やはり貴女は花菜なのでしょう?」
“久弥さん”は顔を覆う手を退ける。私は再び自分に良く似て可愛らしかった、記憶ではまだ幼いままの妹の名前を呼んだ。
「お……にい、ちゃん」
“久弥さん”……いえ、花菜の目から涙が零れ落ちる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……本当なら、私が……」
花菜はまた顔を隠しながら泣き続ける。
「何を謝る? 私は私の意志で華乱に連れて来て貰った。花菜が謝る必要は無いでしょう?」
十三年前、私は母に手を引かれて華乱を訪れた。大事な妹を酷い目に合わせたくなかったし人売りの狙い通りになりたくなかった。けれども自分達だけで暮らしていける余裕は無かった。だから妹の代わりに私を売ってほしいと両親に頼み込んだ。人売りの仲介を経ずに、直接廓に売りに来たのだ。
「あたし、はっ、せめてお兄ちゃんの代わりに……家を、お父さんとお母さんを守ろうと、思ったの、私が……跡を継ぐのも、仕事も、男の人にしかできないから、ずっとお兄ちゃんのフリをして、お兄ちゃんの名前使って……髪も短くして、男の人の格好して、男の人に見えるように、って……ごめんなさい……」
私は泣きじゃくる花菜の頭を撫でた。
「それは辛かったでしょう。一人で頑張るのも、自分を偽るのも……良く頑張ったね」
私は花菜の隣に座り、そっと抱き締める。見ただけでは分からなかったが、その体はしっかりと筋肉が付いていて、それでいてちゃんと大人の女性のものだった。
暫く背中をさすっていると少しずつ花菜は落ち着きを取り戻してきて、私が居なくなった後の話をしてくれた。
「お兄ちゃんを買った後も、さっきの楼主さんがお金を持ってきてくれて、それでもうずっと普通に生活出来ていたの。それで四年目くらいでかな? 一気にその金額が増えて、聞いてみたら今年からはお兄ちゃんが働いて稼いだ分だって。凄いね、七年目でもっと多くなってた。お陰であたしは普通に働きに出られたし、もう全然人売りも来なくなった。お兄ちゃん、ありがとう」
「柊さんが? 本当に助けてくださったの?」
「うん。お兄ちゃんが此処で一番凄い人になったって事も、一週間後に年季が明けるのも教えてくれたよ」
良かった……本当に良かった。私はやっと安堵の息を付いた。華乱に来たとき、必ず働いて返すから、家族の為に金銭的援助をしてほしいと頼み込んだ。柊さんを信じてはいたが、規則で家族との連絡は取れなかったから本当に約束してくれかを知る術は無かった。
「年季が明けたら、帰って来るよね?」
「それ、は……」
花菜にそう聞かれ、私は返事をできなかった。正しくはその問いに花菜が望んだ返事をできない、だ。
「私は、此処で柊さんの手助けをしたいと考えている」
「なんで? せっかく出られるのに……」
「だけど花菜にこれ以上負担は掛けられない」
本当はずっと前から迷っていた。できる事なら華乱の運営を手伝いたい。私は此処が好きだ。だけど私は光城家を継ぐかもしれない。いえ、私が継がなければならないだろう。花菜を早く女性に戻してやりたい。私はどうするべきか__
「そろそろ見世が開く時間だ。紫陽花どうする? 今日は休むかい?」
部屋の外から柊さんの声が聞こえた。もうそんな時間か。この時期は日の入りが遅いから気付かなかった。
「お邪魔してごめんなさい、今日は帰るよ。でもあたし、またお兄ちゃんと一緒に暮らしたい」
「ええ、いつか……」
そうとしか言えなかった。花菜は立ち上がって障子戸を開ける。
「それでは紫陽花さん、また後日お話ししましょう。楼主さん、ありがとう御座いました」
花菜は最初に見た"久弥さん“に戻って、帰っていった。後ろ姿はとても逞しくて大きくて、その背中は私の代わりに全てを背負っている事を物語っている。それを見て、私は昔から今迄ずっと家族の為と言いながら自分の事しか考えていなかった事を思い知った。
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