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第七話 紫陽花の巻(後編)
とうとう私が花魁を辞める日が来た。
この十年を一言で言えば「長かった」だろう。長かった。だけど予想していた程苦ではなかった。中には僻みや妬みもあったが、楼主にも仲間にも恵まれていたと思う。
辞めた後の事も決めた。散々悩んだし、柊さんにも向後様にも何度も相談に乗って頂いた。けれどきっと、どうにか理想の道になった。
「紫陽花、本当にこれで良かったのかい?」
何度目かも分からない柊さんの問いに私は心からの笑顔で返す。
「ええ。勿論です」
「それなら良かった」
私の顔にも柊さんの顔にも不安や陰りは無い。本来ならば年季明けの祝いは盛大に開かれるが、私は髪をばっさりと切り落として書類に判を押すだけの簡略なものを願った。此処に残ってこれからも毎日皆と顔を合わせるのだから派手にやっても後で恥ずかしいだけだ。
「それじゃあ、先に髪を切っていらっしゃい。手続きはその後だ」
「はい」
私の部屋ではもう床屋が準備を済ませていた。
「おういらっしゃい! ばっさり切っちまっていいのか?」
「はい。項が見えるくらいまでお願いします」
「任せとけ」
私は用意された椅子に座り、目を閉じる。髪を軽く濡らされ櫛で丁寧に梳かれた後、鋏で髪を切る心地良い音が聞こえた。
「これでどうだ? 随分さっぱりしたろ? 何処か気になるところはあるか?」
「いえ……大丈夫です。ありがとう御座います」
鏡に映った自分を見て花菜みたいだと思って、それが何だか可笑しくて笑ってしまった。
「あん? どうしたんだ?」
「髪を切ったからこの間久し振りに会った妹にそっくりになったんですよ」
「ああそうかい」
まるで女性のように長くて艷やかな美しい髪を持っていた私と、男性に見えるほど短く整えられた凛々しい妹。まるで正反対になっていたとは思ってもいなかった。けれども、妹はこれから好きなだけ髪を伸ばすだろう。あの子は昔、長い髪を結うのが好きだった。私はこれから華を捨て去ってこれからの光城家を背負う唯の男に戻る。
「お帰り紫陽花。良く似合ってるね。此処に来たばかりの頃を思い出すよ」
「只今戻りました。ありがとう御座います」
柊さんの部屋に戻って直ぐにそう言われた。確かに花魁になってからはずっと肩下から腰までの長さだった。
「早々に始めようか。こっちに座りなさい」
私は促されるまま、柊さんの向かいに座った。机には既に幾つかの紙が置かれている。
「これは、見世に出る前に書いて貰った契約書、それとこれは君と交した特別な契約書、それからこっちは__」
柊さんは一枚一枚、書類の説明をしていく。説明を受けながら私はそれぞれ必要な箇所に署名をしていった。
「最後にこれね。雇用契約書とその他の手続き。これは一度持ち帰って後日出してくれれば良いから」
「分かりました」
柊さんは書類を紙袋に入れて片付けていく。全て片付けて机が綺麗になってから、もう一度私に向き直った。
「こんなものかな。十年間お疲れ様でした。どうもありがとう」
「いえ、此方こそ、ありがとう御座いました。それと……家族の事も」
「君との約束だったからね。それに、僕が支払った分はもう全部君から返して貰っている」
「当然です。私は……私達は貴方に救われました。本当に感謝しています」
私は柊さんに向かって深く深く頭を下げた。この人にはどんなに感謝しても足りない。廓での生活が苦にならなかったのも全て柊さんのお陰だ。
「僕は僕のやりたい事をやっているだけだよ」
「ええ、存じ上げております」
「じゃあ食堂に行こうか。きっと皆待っているから」
柊さんは優しく微笑んで障子戸を開ける。
「君は要らないと言ったけど、やっぱり年季明けのお祝いはちゃんとやらなくちゃね」
「ありがとう御座います……」
食堂に入ると、色とりどりの料理が並んでいて、華乱の皆が食堂に揃っていた。この光景を見たのは三年振り__桔梗さんの年季明け以来だろう。
「紫陽花さん、おめでとうございます」
真っ先に声を掛けてくれたのは向日葵だった。
「ありがとう。短い間でしたが、同じ上級花魁として肩を並べる事ができて良かった」
「俺も……です」
向日葵は頬を赤らめてそう返してくれた。
「紫陽花さんおめでとう」
「おめでとうございます」
皆が私を見て口々に言う。
「皆さんありがとう御座います。あの……少々恥ずかしいのですが。明日からどうやって顔を合わせれば良いんですか……?」
思わず手で口元を覆った。先程から顔が熱い。着物ではないためあの長い袖で顔を隠す事はできないのが恨めしい。
「どう、って、普通に来れば良いんだよ。十年分の誕生日祝いだとでも思って存分に楽しみなさい」
はい、と酒が入った盃を私に手渡して柊さんは笑った。
「皆ははしゃいでも良いけど呑み過ぎないでね。今日も見世は開けるよ」
「はあい」
良く揃った不満気な返事が聞こえた。柊さんは気を悪くした様子も無く、空いている席に座って盃に酒を注いだ。
「紫陽花さまは此方です。向日葵さまと菫(すみれ)さまの隣ですよ」
「ありがとう」
私は京介に呼ばれて正面の席に着いた。菫が軽く私に一礼する。
「誠におめでとう御座います、紫陽花さん」
「ありがとう菫。これから私に代わってお前がこの華乱の顔になるんだよ」
「……正直、実感がありません。俺に務まりますか?」
「それはこれからのお前の頑張り次第だ。できるできないは他人の私が決める事ではない」
菫は暫く考えてから小さく「はい」と言った。菫は謙虚で慎重で良く考えて行動する。じっと考え過ぎて動けなくなる事もあるが、人一倍行動力のある向日葵と一緒なら大丈夫だろう。
ささやかだが賑やかな宴は日が沈みきる直前まで続いた。柊さんのお開きにするとの言葉で解散し、今は忙しなく見世を開く準備をしている。もう直食堂も綺麗さっぱり片付けられるだろう。
「紫陽花、客間に行きなさい。客人だよ」
「花菜……いえ、光城さんですか?」
「光城様じゃないよ。これ、残りの酒と肴。持って行きなさい」
「……ありがとう御座います」
誰が客人か分からないままお盆を受け取って客間へと向かう。
「失礼致します。お待たせして申し訳ありません」
「おっす、食虫花久し振り」
部屋に入れば良く見知った人が一人、水を飲んで寛いでいた。
「久し振り、って言ったけどそこまででもねえか。ってか、髪切ったのか? あんなに長かったのに」
「桜……何をしている?」
客人は華乱の向日葵の前の元上級花魁、桜だった。
「酷えな、折角親友の年季明けを祝いに来たってのによ。任期満了おめでとう」
「それはどうも。そっちは桔梗さんとは上手くやっているのかい?」
座って柊さんに頂いた酒を2つの盃に注ぎ、一つを桜に渡す。
「そりゃあ勿論。あと桜ってもう止めろ。桔梗とも呼ぶな」
春樹は私から盃を受け取り、盆に乗っていた枝豆を一つ摘んだ。
「分かりましたよ春樹。だが私は桔梗さんの本名は知らない」
「覚えてねーの?」
「いえ、私が此処に来た時は桔梗さんはもう既に花魁だった」
私は此処に来たのは十五の時、もう直ぐ十三年が経つ。桔梗さんとは三歳違いだから私が入った時にはもう新人花魁だった。春樹はきょとんとした顔を見せる。
「……そうだっけ?」
「そうだった。桔梗さんの名前を知っているのはお前と向日葵くらいじゃないか?」
「向日葵なー。あいつ元気か?」
春樹は盃に酒を注ごうとする手を止めた。会話に夢中で気付かなかったが、もう既に空になっているらしい。仕方無く水が入った湯呑みを差し出す。春樹はそれを受け取って言葉を続けた。
「向日葵が昇格したのは知ってる。お前と並んでいたからな」
「相変わらず元気だよ。ただ、一気に指名率が下がって少々落ち込んでるが」
「そりゃあそうだ。上級花魁なんて買えんのは相当な金持ちだもんな」
華乱に来るお客様の殆どは私達に渇望の眼差しを向けるだけで指名はしてこない。普通の花魁が羽振りの良いお客様を二人相手にしても私達の最低額にも届かないくらいの差があるからだ。だったら当然、安い方へと流れていく。集客数を誇っていた向日葵にとってはかなり堪えただろう。
「それでも言い訳はしないし弱音も吐かない。私に何度も助言を求めては言われた通りに実行しようとする。素直で元々の人気もあるからきっと二、三年したら桜を超える筈だ」
「……そうかい」
春樹は面白くなさそうに枝豆を齧った。てっきりもう少し良い反応をするかと思っていたから拍子抜けだ。
「応援していたのではないのか?」
「応援はしてるけどよ。でも何か悔しい」
その言って握り拳を震わせる姿はまるで子供のようで笑ってしまった。笑った私を見て春樹は眉間に皺を寄せる。だが直ぐにまた元の顔に戻った。
「ところで紫陽花って……あ、もう久弥か。この先どうすんの? もう家とか決めてんのか?」
「この名前を捨てるつもりなどないから紫陽花でも良い。明日実家に帰る予定だよ」
「そうか。実家帰れるのか?」
「ええ。私は家族と縁を切っていないので。寧ろ廓に行くことは両親に泣きながら反対されていた」
我ながら親不孝だと思っている。だが、こうするしか生活に困らないだけの金を手に入れる方法は思いつかなかった。だから詫びる気持ちはあっても後悔は無い。
「んじゃあこの先の生活は安心だな。住む家と金がありゃあなんとでもなる。お前は人一倍図太いし」
「心配してくれたのか?」
「そりゃあ、まあ……」
「お気遣いありがとう」
その後二回酒を追加で持ってきてもらい、夜が明けて見世が閉まるまで酌み交わし続けた。
「げっ、もう朝かよ」
「長く話し過ぎたな。私はそろそろ帰る支度をしなくては」
「俺ももう帰るわ。柊さんに顔出せるかな?」
空の器と銚子が幾つも乗った盆を持って二人で客間を出る。途中で下働きの者に盆を預けて柊さんの部屋へと向かった。
「楽しんで来たかい?」
「はい。中に入れてくれてありがとうございます」
「何言っているんだ、此処は君達の第二の家だよ。遠慮しないでいつでも帰ってきなさい」
「……それは遠慮します」
春樹の返事に柊さんは手で口元を覆ってくすくすと笑う。
「遊びに来るのに働かせやしないよ。住み着くなら話は別だけど」
「あー……なら、まあ、年に一回くらいは」
「ありがとう。待っているよ」
そう言って柊さんは控えめに欠伸をした。きっともう疲れているのだろう。話もそこそこに私と春樹は部屋を出る。
「じゃあまたいつか」
「ええ、お元気で。と言っても貴方が華乱に来ればいつでも会えるが」
「そんなにしょっちゅう来る気はねえよ。お前も元気でな、相棒」
そう言って春樹は私に背を向けて歩き出し、また戻ってきた。
「どうした? 格好つけたのが台無しじゃないか」
「あのさ、一応俺お前の年季明け祝い買ってきたんだよ」
「それはどうもありがとう。何を買ってきた?」
この態度を見るにあまり良くない物だろう。随分と歯切れが悪い。
「……簪。お前が髪を切るとは思ってなかった」
なるほど、それは渡しづらいかもしれない。若干申し訳ないと思ったが髪を切るのは前々から決めていた事だ。仕方が無い。
「私の為に選んでくれたのでしょう? ありがたく受け取るよ」
「使わなきゃ妹とか彼女でもできたらあげても良いから」
「嫌だ。私が持っている」
「そりゃどーも」
春樹は私に掌くらいの大きさの木箱を手渡して今度こそ帰っていった。春樹の背中が見えなくなってから木箱を開けると、中には先端に蒼い石が付いた金色の簪が入っている。
「趣味は悪くないな」
今は短いままが良いが晩年にでもまた髪を伸ばそうか。そう思って木箱の蓋をそっと閉めて実家に向かった。
「久弥様、お茶をお持ち致しました」
「ありがとう」
実家に帰ってからもう二日経った。和訳された蘭語の書物を読んでいた私に女中の岩岡が良く冷えたお茶を机に置いた。私は一度目を岩岡に向けて礼を言う。十三年振りに帰った家は見間違える程広くなっていた上に、住み込みの使用人まで付いていた。父は幼少時代からの豊富な知識を活かし、外国からの書物を翻訳する他、商売や政の相談役も引き受けているそうだ。お陰で家にしばしば見知った顔が訪れている。いつの間に国政の一端を担う方々と知り合ったのだろうか?
「久弥様、本日からお勤めで間違いないでしょうか?」
「ええ。昼過ぎに家を出る」
「付き添いは必要ですか?」
「不要だ。それと帰りは朝になるから夕食も要らないよ」
「畏まりました。昼食のお時間になりましたらお呼び致します」
そう言って岩岡は恭しく頭を下げて部屋を出ていった。私は再び書物に視線を戻す。
昼食を済ませた後、家を出て華乱へ向かった。私は家で時期当主として勉強しながら華乱で禿や新人花魁の教育、見世が開いてからの部屋の見張り、柊さんの雑務の手伝いをする。やるべき事とやりたい事を両立するのは大変だろうが、それが私の選んだ道だ。
「あ……紫陽花!」
華乱の戸を開けようとしたところで声を掛けられた。振り返れば私の馴染みの客だった樋笠様が立っていた。
「何か御用ですか?」
「紫陽花、まだ華乱にいるのか?」
「ええ。もう花魁は辞めましたが裏方の仕事を頂きました」
「何で……もう年季明けて自由になったんじゃないのかよ?」
樋笠様は大声を上げた。それに驚いた通行人は私達を交互に見てからそそくさと立ち去っていく。
「何を仰りたいのです?」
「お前は美しいから! 表向きは年季明けだがまだ楼主に囚われているんだろ? そうだよな? 此処の楼主が自由にするフリをしてお前を……」
樋笠様の言葉の途中でパァン、と高くて良い音が響いた。私の右手が樋笠様の頬を打ったのだ。樋笠様は呆気に取られている。漸くその煩い口が閉じた。
「柊さんはそのような非道ではありません。これ以上悪く言うのは辞めなさい」
「じゃあ、何で……何でまた廓に戻って来たの?」
そう問われ、私はふっと笑った。
「単純な事ですよ。私がただ一人の男性に惚れただけ。我儘で滅茶苦茶で理想論を並べるような男性です。ですが誰よりも脆いが強くて優しい。私は彼の夢を叶える手伝いをしたいのです」
「…………」
樋笠様は完全に黙って俯く。私は樋笠様に背を向けて戸を開け、建物の中に入った。
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