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第九話 菫の巻(前編)
「さあさあ、そこのお兄さんも旦那様も見ていきな。上級花魁が代替わりしたんだ。ほらほら、見るだけでも良いさ、足を止めて見ていきな」
客引きの陽気な声に、道行く男らが足を止めて見世を覗く。襖で分けた二つの部屋。その片方――正面玄関に近い方の部屋では色とりどりの着物を着た若い男達が座っている。ある者は見物人に愛想を振り撒き、ある者は隣人と談笑している。格子戸で区切られた内側にいる男らは皆花魁である。最も見物人の注目を集めているのはその隣、つまり俺と向日葵が並んで座っている部屋だ。この部屋は隣とは違う、この華乱でただ二人しか入れない上級花魁の見物部屋。
上級花魁、それはこの男遊郭華乱(からん)で唯一の高級品であり、「華乱の顔」とも評される。最近代替わりしたばかりで、今のネコ側の上級花魁は向日葵、そしてタチ側は――俺が選ばれた。
「何故俺なのですか? 他にもっと適任が居るのではないでしょうか?」
もうすぐ上級花魁の紫陽花さんが年季明けで引退するとなった時、俺が次期上級花魁にと推薦された。紫陽花さんと楼主である柊さんに呼び出され、話を聞かされて思わずそう訊いてしまった。俺のその反応を見て柊さんは意外そうな顔をする。
「あれ、嫌だったかい?」
「いえ! 嫌というわけでは……寧ろ光栄な事です。ですが何故俺を選んだのですか? 俺よりも相応しい人が居るのでは?」
「例えば?」
「えっと、椿さんとか」
柊さんはちらりと紫陽花さんを見る。紫陽花さんはゆっくりと首を横に振った。
「椿は残念ながら合わない。華乱を背負い、他の者の上に立てる器じゃないでしょう。胡蝶蘭や昼顔には任せられない。菫、お前しかなれないよ」
静かに言う紫陽花さんはいつも以上に真剣な表情だった。じっと見つめられ、思わず顔を背けたくなる。
「紫陽花がどうしても君を後任に、と強く推していてね。嫌なら僕の方から紫陽花を説得するよ。だけど君は集客数も多いし人気も高い。その点は僕も認めている。適任だと思うよ。それでも君が嫌ならばまた考え直す。どうする? 辞退するかい?」
「いえ……謹んでお受け致します」
俺は左手で右手の袖口を抑えながら右手を胸に添え、深く礼をした。
そして今日、俺が上級花魁として初めて向日葵と並んで見世に出ている。昨日迄と部屋の密度も静けさも違う。気のせいか、格子の向こうの見物人の視線も変わったような気がする。
「あれ、あの青い着物の髪の長え兄ちゃんじゃねえのか」
「誰だこれは」
「何だ、知らんのか? 紫陽花は年季が明けて引退したよ」
「そいつは残念だ。あれは一日の疲れも吹き飛ぶ程の美人だったのになあ」
見物人達はこちらを見て口々に話している。一応数日前からその知らせは出していたが、やはり実感は無かったようだ。
「どうしたのさ? 背筋が丸まっているぞ。しゃんとしないと客の目に止まらないだろう」
一つ年下の向日葵が客ににこやかな笑みを浮かべながら聞いてきた。こちらを見ていないのに真横に居る俺が見えたのか。返事をしないで黙って向日葵を見ていると漸く目が合う。
「向日葵さん」
「だーかーらー、"さん"付けは要らないってば。俺の方が年下だし」
「ですが、向日葵さんの方が立場は上でしょう」
「それもこの間までだろ? 今は菫も一緒じゃん」
向日葵さんは膝立ちでこちらに寄り、軽く俺の肩を叩いた。
「ほら緊張し過ぎ。そんな固くなってたら閉店まで持たないだろ? ちょっと深呼吸でもして落ち着けよ」
そのまま背中を擦られる。その手がじんわり暖かくて、少しだけ肩の力が緩んだ。すぐ隣を見るといつもの、自由時間とかに見るのと同じ向日葵さんが居た。
「失礼致します。向日葵さま、ご指名です」
「はーい」
安心したのも束の間、向日葵さんは指名が入って部屋の奥へと消えてしまった。その途端、外からの数人分の視線が消える。
いつもはさして気にしないのに、今日はやけに時間が長く感じる。おかしい。もう客がついても良い頃合いの筈なのに。向日葵さんが居なくなって、独り残された部屋は更に広い。
「菫さま、お客様が登楼されました」
「は、はい」
「お部屋にご案内致します」
通されたのは勿論、以前紫陽花さんが使っていた上級花魁専用の部屋だ。作法通りの挨拶を済ませて部屋に入ると、その中心に見覚えのない客が座っていた。
「初めまして野上様。ご指名ありがとうございます」
「菫、だってな。よろしく」
「宜しくお願い致します」
野上様は見目麗しい若い男だった。華乱で最も美しいと言われていた紫陽花さんを見慣れていても綺麗な青年だと思った程だ。
「貴方は美しい方ですね。女性からも引く手数多なのではありませんか?」
「良く言われるよ。今は養父に引き取られて裕福に暮らしているが、元々陰間茶屋で色を売っていてね。今でもたまに欲しくなるんだ」
野上様は俺の首に腕を回した。口吸いをしながら押し倒し、服を剥ぎ取った。
野上様から揚代を頂き、玄関まで見送ってまた格子戸の部屋に戻る。もうかなり夜が更けて見物人は減っていた。最初の指名が遅かったからあと一人、入るかどうかだろう。そう思っていたが、再び呼ばれたのは部屋に戻ってすぐだった。
「お前が新しい上級花魁か。先代に比べて華が無いね」
俺が部屋に入るなり客はそう言った。確かに褒められるばかりではないが開口一番にそれはないだろう。
「初めまして。先代紫陽花に代わり本日から上級花魁を務めさせていただいております。菫と申します」
引き攣った笑顔を隠すように、座ったまま床に手をついて頭を下げ名乗った。
「フン、まあ良い。しようか」
「……畏まりました」
情事の最中も見送りの時も、挙句の果てに別れの瞬間までこの客――樋笠様は何かと紫陽花さんの話をしていた。第一印象は悪いものの、この人はただ本当に紫陽花さんが好きなだけだったのだと感じた。
それから数日経った。指名は以前より減ってはいるものの、桜さんから向日葵さんに代わった時程の変化は無かった。理由は簡単。「あの紫陽花さんの後任」だからだ。「あんな美しく気高いタチ花魁の後釜なんだ。むしろ上級花魁とはああいう存在だ」との期待から俺を指名する者が最近の客の大半を占めていた。何かと言えば皆口を揃えて紫陽花さん、紫陽花さんと褒めちぎっていく。その度に俺は比べられた気分になった。
「紫陽花さんに比べてお前は……」
何かとそう言われているようで気が滅入る。あの人が凄い人だった事は認めている。分かってるし、俺だって尊敬している。ずっとあの人を見ていて背中を追っていた。仕事や客に向き合う姿勢も相談に乗ってくれる優しさも、歯に衣着せぬ物言いも好きだった。なのにいつの間にか、誰よりも憎い存在になってしまった。
「痛い、っ、菫、止めろ、痛いから」
「五月蝿い、黙れ」
上級花魁として二週間程経ち、野上様から何度目かの指名を受け、相手をしている時だった。高級な和服を身に纏い、優雅にお茶を飲みながら話す野上様に紫陽花さんの影が重なった。それが無性に苛立って野上様を押し倒し、憎しみを全部ぶつける勢いで犯そうと思った。
「菫! 何をしている?」
はっと我に返った瞬間、体は野上様から引き剥がされる。怒声と共に部屋に入ってきた相手を確認する間も無く「バシッ」と音がして上半身がぐらつき、左頬が熱くなった。少し間を置いて殴られたのだと気付く。誰に? 目の間で自分を見下している紫陽花さんにだ。否、花魁を辞めたから今は久弥さんと呼んでいる人にである。
「あじさ……いえ、久弥……さん」
「もう一度訊く。お前は今何をしていた?」
久弥さんの冷たい声に背筋が冷え、一気に冷静になった。そっと野上様を見ると、怯えて青ざめているように見える。
「申し訳ありませんでした」
俺は野上様に向かって正座のまま畳に額が付くくらい深く頭を下げた。最悪な事をしてしまった。額に冷や汗が流れる。
「野上様、この度はご不快な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません。私(わたくし)の教育不足で御座います」
頭を下げたまま横目で隣を見ると、久弥さんも同じように頭を下げていた。
「あの、頭を上げてください」
野上様の声でゆっくりと頭を上げる。青ざめた顔は幾分か血の気を取り戻し、怯えた表情も少しだけ和らいでいた。
「吃驚(びっくり)しました、けど大丈夫なので。こちらこそ騒いですみません」
「野上様、本日のお代は結構です。どうぞ気の済むままにお申し付けくださいませ。必要とあらば仕切り直しに他の者をお呼び致します」
久弥さんはそう言ってもう一度頭を下げたが、野上様は首を横に振ってそのままお帰りになった。
野上様を二人で見送った後、久弥さんに強く腕を捕まれ、引き摺られながら歩く。辿り着いたのは建物の隅の窓の無い部屋だった。禿時代も何度か悪さをして閉じ込められた事のある、所謂「仕置き部屋」だ。
「柊さんにお許しをいただくまで此処にいなさい」
そう言われて扉が閉まり、鍵を掛ける音がした。真夜中で、しかも明かりの無い真っ暗闇だ。声が枯れるまで泣き叫んだ幼少期が懐かしい。初めてではないにしろ、この暗さには慣れない。
「っ……なんで、俺が……」
上級花魁という肩書きはやはり俺には重すぎた。引き受けるんじゃなかった。そしたらこんな思いはしなかったのに。遠くから楽しそうな声が聞こえる。聞きたくなくて耳を塞げば自分への失望の言葉が頭を支配する。こんな気持ちなど誰も分かってくれないだろう。
ならなきゃ良かったという後悔、大好きだった筈の人への憎悪、そんな感情を知ってしまった恐怖、そして最初から感じていた肩書きそのものへの重圧。真っ暗闇の中、俺は独り膝を抱えた。
「俺如きがあの人に、紫陽花さんみたいになれるわけが無い」
小さな声で呟いた。どうせ誰も聞いてなどいない。全部吐き出してしまいたい。
「どうして俺なんかを選んだんだ。俺よりも椿の方がしっかり者だろ? なんで俺にしたんだ。本当は自分の栄華を残したかったんじゃないのか? 俺なら、あの人以上にはなれないって分かっているから、だから俺を推薦したんだ」
きっとそうなのだと思った。俺なら、紫陽花さんみたいにはなれないから、皆が俺と比べて自分を褒めてくれる。「貴方が最高だった」と言ってくれる。自分より劣る者を後釜にすれば最高の栄誉が自分に残ったままだから。だからあの人は俺を推薦したんだ。悔しいとすら思わなかった。自分と紫陽花さんとはあまりにも差があるから。"光城久弥"として裏方で働き始めてもまだ"紫陽花さん"と呼ばれる事があるのも、そもそも年季が明けたのにまだこの廓に残っているのも、全部この為なんじゃないか。俺は完全にあの人の踏み台なんだ。
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