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第九話 菫の巻(後編)
どれくらい時間が経ったかは分からない。けれど少しだけ部屋が明るくなってきた気がした。大分前から目が慣れていたからもしかしたら気のせいかもしれないが、声も聞こえなくなった事から夜明けが近付いているかもしれない。普段の習慣からか、眠気はまだ無い。何もする事は無く、ただぐるぐると良くない事を考え、モヤモヤとした気持ちを抱えていたら、がちゃりと鍵が外れる音が聞こえた。扉を開けたのは向日葵さんだ。
「おーい、起きてるか? 寝てた?」
「いえ、起きています」
「なら良かった。握り飯持って来たから食いなよ。腹減ったろ?」
向日葵さんは手拭(てぬぐい)に隠した小さくて不格好な握り飯を二つ見せた。
「こっそり持ってきた! ちゃんと厨の奴らには口止めしたから安心しろよ?」
「ありがとうございます」
ほらほら早く受け取れ、と言うように手拭ごと握り飯を俺に押し付けてくる。受け取ったそれはまだじんわり温かい。空腹は感じないけれどせっかく貰った物だから、と一口齧る。
「美味いだろう? 何せこの俺が握ったんだからな。普段の飯も勿論美味いが俺という美青年が握った飯は格別だろう?」
向日葵さんは何故か得意げで、米を口に含んだままつい笑ってしまった。
「ふ、ふふっ、あははははは」
「ヘコんでいるかと心配していたが、元気そうで何より」
笑い過ぎて目の前の景色が滲んだ。口にも手にも上手く力が入らない。手の甲や着物に水滴が幾つも落ちる。それでもお腹が空いてきて握り飯を夢中で食べた。
「相談ならいつでも乗ってやる。俺は上級花魁だからな」
「ひま、わり……さ」
グイと肩を引き寄せられ、俺は必然的に向日葵さんにもたれ掛かった。上級花魁なんかじゃなくても、この人は人を良く見ていて相談にも愚痴にも付き合ってくれる人だって知っている。それでも態とその単語を使ったのは俺への優しさだろう。自分の中にあったドス黒い感情が浄化され、色んなものが胸の内から溢れて、それが嗚咽とともに流れてくる。
「よしよし」
向日葵さんは何も聞かず、俺が泣き止むまで抱き締めていてくれた。
「ゴメンな、本当は朝まで居てやりてえけど柊とか久弥さんにバレたら多分もっと怒られるだろうから。でも早目に出してもらえるように交渉してくるから」
「いえ、大丈夫です。お休みなさい」
「おう、おやすみ」
ガタ、と音を立てて扉は閉まり、また鍵が掛けられる。けれどももう日が昇り始めたのか、真っ暗闇ではなくなった。恐らくもう見世はとっくに閉まっていて皆眠る頃だろう。だとしたら昼頃までは開かない筈だ。俺は着物の帯を解き、横になってそのまま眠った。
目を覚したのは鍵を開ける音がしたからだ。扉が開く前に慌てて起き上がる。
「お早う菫。少しは落ち着いたかい?」
「お早うございます」
入ってきたのは柊さんだ。服はきっちり着ているものの、気怠けで目の下には薄く隈ができていた。
「少し話をしようか。来なさい」
「はい」
柊さんに笑顔はないものの、怒っている様子も見えない。昔もそうだった。どんなに怒らせて此処に放り込まれても、出してくれる時はもういつもの柊さんに戻っている。ただ今回は事が事だからこれで済むとは思っていない。柊さんの部屋に通され、言われるままに座った。
「いくつか言いたい事も聞きたい事もあるけど、先に何か言い分があるなら聞こうか」
「いいえ、ありません。俺が悪かったです」
「そう」
柊さんにじっと見られ、良くないとは分かっていても気まずくなって目を逸した。
「……そう。じゃあ僕の方から話をするよ」
「はい」
「まず、あの後僕は野上様に直接謝罪をした。結論から言っておくと彼はお怒りではなかったよ。あっさりと許しを得られた。それどころかあまり君を怒るなと釘を刺されてしまったよ」
「すみません……」
俺は座ったまま柊さんに頭を下げる。今回で俺は多くの人に謝罪させ、迷惑を掛けてしまった事を痛感した。
「頭を上げなさい。本題に入るよ。君はこのまま上級花魁を続けてくれるかい?」
「それ、は……どういう意味ですか?」
「もしも上級花魁としての肩書きに重圧を感じて息苦しいのなら、他の子に代わってもらう事も考えているよ。今回の件で罷免にするわけじゃない。できればこのまま年季明けまで続けてほしい」
いっそ「お前には任せられない」と言われた方が楽だった。顔を上げられなくて項垂れたまま柊さんの声を聞いている。柊さんは続けて何か言っているようだけど何も耳に入らなかった。
「すぐに決めなくても良い。暫くじっくり考えなさい」
「…………」
「お腹空いただろう? 朝ご飯食べに行こうか」
おいで、と促されてそのまま食堂へと向かう。もう殆どの人は食べ終わって部屋に戻ったようだ。下働きの奉公人が俺達分の朝食を食卓に運んでくるのをぼうっと眺めた。
「お早う御座います。柊さん、菫」
「お早う」
「お早うございます、久弥さん」
「やっぱり頬が腫れているね。ほら、これで冷やしておきなさい」
久弥さんから濡らした手拭を渡された。いつもよりほんの少し分厚い頬がひんやりと冷えて気持ち良い。
食べ終わってから昨晩のお礼と相談の為に向日葵さんの部屋を訪ねた。
「はいよー、いらっしゃい」
「すみません、お休みのところをお邪魔して。昨晩はありがとうございました」
「どういたしまして。んで? 何かあった?」
向日葵さんは畳んでいた浴衣を部屋の隅に置いて俺に向き合った。
「あの、向日葵さんに聞きたい事があって」
「うん?」
「どうして椿さんじゃなくて俺が上級花魁に選ばれたと思いますか?」
「なんで、って柊が菫の方が良いと思ったからじゃないの? 一番集客率が高いとか、人気があるとかで決まるんだろ?」
何の不思議も無いと言うように返された。確かにそれは柊さんからも聞いた。けれど俺はまだ納得がいかない。
「俺、久弥さんが嫌いになりそうです。と言うよりもう紫陽花さんが嫌いです」
「そんなに怒られたのか? もしかしてその頬も久弥さんにやられた?」
向日葵さんに心配そうに顔をのぞき込まれた。久弥さんとは違う、人懐っこそうな中性的な顔が視界いっぱいに広がって思わず少し後退った。
「あ、悪い悪い。でも菫がそんな事を言うなんて珍しいな。しかも久弥さんに。じゃなくて紫陽花さんだっけ? 同じだけど違うのか?」
「昨晩向日葵さんが来るまであの人がなんで俺を推薦したのかってずっと考えていました。それで、もしかしたら紫陽花さんの凄さというか、成績を超えられないからだろうって思ってしまって……もしかしたら椿さんなら紫陽花さん以上の上級花魁になれるかもしれないから、だから俺の方が都合が良かったんじゃないかって」
向日葵さんは途中で口を出す事もなく、黙って俺の話を聞いてくれている。俺はそれに向日葵さんの方を向けないまま俯いてただひたすら今までの胸の内を吐き出した。吐ききって黙ってから漸く向日葵さんが口を開く。
「確かに紫陽花さんは凄いもんな。外見だって俺と見物人の視線を取り合うくらいだし、客から金を巻き上げるのも客の興味を引くのも上手い。しかも教養も身長も髪の長さも華乱一だった。俺の魅力が劣るわけでもないけど、俺でさえ隣に並んで圧倒された。人気じゃあ負けてないけど」
向日葵さんは度々自分を持ち上げながら紫陽花さんを褒め称えた。真剣に相談に乗ってくれている向日葵さんに悪いと思いつつも笑いが堪えきれない。
「名前を他の奴に譲るつもりは無いらしいし、多分自分が一番だったって記録を残しておきたいのかも知れないけどさ、でもだからってそんな事する様な人じゃねえと思うよ」
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「だって、あの人目的の為に手段選ばないじゃん? もし"花魁紫陽花"が一番って思わせたいなら年季が明けても引退なんかしないだろうし、お前が不利になるような事を教えてくると思うよ」
「そう、でしょうか?」
少し考えてから確かにそうかも知れない、と思った。俺を上級花魁にとの話が出てから、今まで幾つかの助言を貰っていた。
『これからはお前の評判が華乱の評判と言っても過言ではない。今まで以上に言動に気を使いなさい』
『お前の良いところは素直で生真面目なところ、そしてお客様と真っ直ぐに向き合えるところ、お客様の癒やしである事だ。例え今までの馴染みの客が離れて新しい客ばかりになってもお前のやるべき事は変わらないよ』
『菫と私は花魁として働く目的もやり方も違う。だから私と比べて大きな違いがあるのは当然の事。お前はお前らしく、やりたいようにやりなさい』
その他、床での技術や囁きの言葉も教わった。それらの何処にも毒は無く、本気で俺を思ってのものだっただろう。
「やっぱり……俺が間違っていました。紫陽花さんはちゃんと俺の事を考えてくださっていたと思います」
「菫は一人で抱え込んで疲れてたんだろ。だからどんどん悪いもんばっか溜まってったんだ。だからちゃんと話してくれよ。俺でも良いし、柊さんだって久弥さんだって他の奴らだって皆聞いてくれっから。な?」
「はい。ありがとう御座います。すっきりしました」
「ん」
向日葵さんはニッと笑う。話を聞いて貰えて良かった。お陰で随分頭がすっきりしたし気分も前向きになってきた。
夕方。緊張感はまだ拭えないけれど着物を着て見世に出る準備をする。
「よお菫、上級花魁辞めるって聞いたぞ。何なら俺様が代わってやろうか?」
断りも無くがらりと障子戸を開けて胡蝶さんが入ってきた。いつも通り肩と脚を出して大胆に着物を着崩し、手には扇子を持って準備万端のようだ。
「歳はあれだがお前より上手くやってやるよ。だから俺様に任せろよ。どうだ?」
胡蝶さんは俺を見下ろす。つい数時間前の俺ならきっと縋ってしまっただろう。だけど向日葵さんと話したあの後、久弥さんとも柊さんにも相談して腹を括った。
「大丈夫です。俺がやります。俺がタチの上級花魁です」
「そうかい、ま、せいぜい頑張れよ」
「はい!」
日が沈む頃、華乱は見世を開ける。一面が格子戸に覆われた部屋が二つ。玄関側に近い方の部屋では色とりどりの着物を着た花魁達がそれぞれ指名を受けるまで談笑したり、見物人に愛想を振り撒いたりしている。もう片方の部屋では黄色い着物を着た花魁が見物人の方を見て座っていた。その隣に空席が一つ。俺は迷い無くその席に座った。
「此処に座るって事はもう決めたって事だよな?」
黄色い着物の、向日葵さんが俺を見てそう訊いてきた。俺は力強く頷いて返す。
「はい」
「よっしゃ! これからよろしくな、相棒」
向日葵さんはぐっと右手を握り込んでその拳を俺の方に突き出す。俺も同じように左手で拳を作り、ごつ、と向日葵さんの拳にぶつけた。
「宜しくお願いします、向日葵」
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