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第十話 撫子の巻
酒は呑むが程々に
語りはするが素性は見せず
相手を悦ばせ夢を見せよ
――それが俺のやり方である。
妓楼。それは嘘と欲望の渦巻く場所。一見、誰もが憧れる程華やかに見える地獄。それが俺の生まれ育った環境である。母はそこそこ売れる遊女だった。父親は顔も名前も知らない。俺は母の働く遊郭で幼少期を過ごし、その後世にも珍しい男を売る遊郭、華乱に売られて今に至る。つまり俺は生まれてから今日まで廓の世界しか知らない花魁だ。
「撫子、おめえは名前といい、見た目といい、仕草といい……まるで女みてえだな」
「おなごのなりをした男が嫌なら他所にお行きなさいな。これがあちきの信念でありんす」
俺は煙管を客に向けた。花街では当たり前のこの姿も、此処では逆に浮いている。着物を着込んでも白粉を塗って紅を引いても隠しきれない男の骨格は、遊女と呼ぶには滑稽に見えるだろう。それも陰間のような少年ではなく、成人した男を堂々と売る見世でだ。俺を選ぶのはモノ好きの中のモノ好きだと思っている。だがたとえ売れ残る日が在ろうとも、俺はこの姿を辞めようとは思わない。
「いいや、行かねえよ。俺はおめえが良い。ただ寝るだけの他の奴らじゃあつまらんからな」
「あら、じゃああちきでなくても良いんじゃないかい? ぬしが強請れば誰だって琴くらい弾いてくれるでしょ?」
「相変わらずつれないな。俺は撫子に一途だというのに」
一瞬言葉を崩して素を見せるふりをしたら、客の藤田という男は緩みきった顔で俺の腰に手を回す。ほうら、何だかんだ言っても結局まぐわいが目的じゃねえか。
「ふふ、それであちきを口説いているつもりでありんすか?」
「そうだが」
「ならばその手をどかしなんし。それとも、あちきは金でぬしを好きになる安い遊女でありんすか?」
「そんな女は好みじゃねえ。俺は冷たい男ほど振り向かせたくなる」
「じゃあ今日のところは帰りなんし」
俺は藤田に背を向ける。そのまま帰るならば帰れば良い。意地悪を言ったと引き止めるのもお手の物。だがこいつは__
「そう言うな。中々抱かれないから拗ねているんだろ?」
後ろから抱きしめられる。藤田は俺の返事を待たずに着物の中に手を入れて弄り、帯を解き、俺を布団へと押し倒した。
「ああやっぱり、おめえのここはずっと疼いていたのか。そりゃあ悪い事をしたなあ」
俺の足を開かせ、尻を撫でながら藤田はいやらしく笑う。ずっと疼いているのはお前の方だろう。足で藤田の膨らんだ下腹部を突いてやれば更に興奮した顔を見せた。
「あちきを早く求めてくんなまし」
見世を閉めた翌朝、というか、時間的には昼。楼主である柊さんに叩き起こされ、世話をしろと命じられた。今日新しく入った禿だと言う。
「何で俺なんですか」
俺は欠伸混じりに問うた。まだ十にも満たない黒髪でおかっぱの子は、確かに将来有望そうな見た目をしている。だが此処の見世で売るなら世話役は俺じゃない方が良いだろう。それこそ、面倒見の良い向日葵や真面目な菫、華乱の花魁らしい椿の方が適任だ。第一、今は教育係に久弥さんがいるんだ。不似合いな俺に任せる必要は無い。その旨を柊さんに伝えたが、無駄だった。
「この子は君に見てもらいたい」
「どうしても、ですか? 何故?」
「君と同じ遊郭育ちだからね。ほら、撫子に挨拶をしなさい」
子供は一歩前に出て、女のようにしなやかに、優雅に一礼した。その姿は既に様になっている。なるほど、俺と同様に幸運にも扱いは良かったらしい。
「朔月(さつき)と申しんす。よろしくお願いしんす」
「ああ、宜しく。俺は撫子だ。ネコ側、つまり抱かれる側の花魁をやっている」
「それでは撫子、案内をしてあげなさい」
柊さんは早々に俺の部屋を出ていく。朔月は柊さんに緊張していたのか、二人きりになってから「ふう」と息をついて少し姿勢を崩した。
「ところで、あなたの母はどの階級の花魁でありんすか?」
「俺の母は花魁じゃねえ。只の遊女だ。今は知らんがな」
「あれま、ならばわちきよりも格下でありんしょう? わちきの母上は昼三の花魁でありんす。此処では階級は上級花魁と普通の花魁と呼ぶんでしょう?」
朔月は先程とは一転、「敬え」と言うように得意げな顔で俺を見上げる。その頭を思わず叩いた。力は入れていないからそんなに痛くない筈だ。心底驚いたかのように目を見開く朔月を見下ろし、静かに言った。
「お前の母が花魁だから何だ? お前は只の禿、俺は花魁。此処ではお前に何の地位も無い」
「安物如きがよう喋る」
「何だと?」
カッとなって引っ叩こうと振り上げた手をどうにかその場に留めた。勢い良く殴って傷が残ったらこちらが悪くなる。柊さんに世話役の辞退を申し出るべく、俺は部屋を出た。
「ああ、案内をしてくれるんでありんすね。早う連れていってくんなましな」
俺の苛立ちを知っていないのか態となのか、朔月はけらけらと笑って俺の後を着いてきた。柊さんに言われたから仕方無くだと割り切って手短に済ませるべく、早足で各部屋の説明をしながら歩いた。
「おーい、禿置いてかれてるぞ。少しくらい後ろ見たらどうだ?」
すれ違った向日葵の声で足を止めて後ろを振り返ると、朔月は障子戸三つ分程後ろにいた。短い足で優雅さの欠片もなく、しかし走らず必死に歩いている。これでは説明も聞いていないだろう。
「あれ新しい禿だろ? 今日入ったってさっき柊に聞いた。あいつお前に何言ったんだ?」
「自分の母親は花魁だから俺の方が格下だとよ」
「大人気ない事してんなー」と、叱るというより揶揄う口調で向日葵は言った。話しているうちにやっと朔月が追いついたらしい。息を切らしながら向日葵に一礼した。
「で、名前何だっけ?」
「朔月でありんす」
「へえ、俺は向日葵。撫子と同じネコ側で上級花魁やってる。宜しくな!」
「よろしくお願いしんす」
「じゃあこのまま一緒に行くか!」
朔月は向日葵が伸ばした手を素直に握った。上も下も気にしない向日葵の方が世話役に向いているんだろうな。
「__で、ここが食堂。今は誰も居ないけど飯時は大抵誰かしら居るから。ここ出て向こうが……」
「食事は何時に来れば良いんですか?」
朔月は俺の説明を全く聞かず、向日葵の方ばかりを見ながら質問する。これ、案内役は俺じゃなくても良くねえか?
「次は花魁達の部屋行くぞ」
「あ、じゃあ先に菫んとこ行った方が良いんじゃね? もう会ったか?」
「いや、まだだが? ここから遠いだろ。順番に案内するつもりだけど何でだ?」
「序列を気にすんなら先に上級に挨拶しといた方が落ち着くんじゃねえかと思って」
な! と向日葵は朔月に笑いかけた。朔月は「はい!」と元気良く頷く。遠回りになるが仕方無く菫の部屋を目指した。
「失礼します。菫、居るか?」
「撫子さんと向日葵、どうしました? その子は?」
障子戸越しに声を掛ければ、数秒後に音もなく戸が開いた。出迎えたのは同い年であり上級花魁である菫で、他に新人花魁の菖蒲と、菖蒲と同い年だがまだ誕生日を迎えていない、最年長の禿である慶太も居る。
「今日新しく入りんした。朔月と申しんす」
「そうですか。僕は菫です。タチ側の上級花魁を勤めさせて頂いております。よろしくお願いします」
菫は丁寧に三つ指を付いて礼をした。朔月は怪訝な顔で菫を見下ろす。菫の後ろから菖蒲、慶太が順に同じような自己紹介をした。
「仕事中の撫子さんと同じ喋り方ですね」
「遊郭育ちで花魁の子だと」
「ふうん……花魁の子、ねえ」
菖蒲は眉を顰める。なんせこいつは華乱一の遊郭嫌いだ。入ったばかりの頃はそんな事なくて、もう少し可愛げのある奴だった気がするが。
「つかぬ事をお聞きしんすが、皆様の出生は?」
「ん? 俺は農村で生まれたけど」
朔月の質問に真っ先に答えたのは向日葵だ。他の三人は首を傾げる。俺は余計な事を言わせないよう、慌てて朔月の口を手で塞いだ。
「僕は一応武家の生まれです」
「俺は覚えてない」
「俺も親は農民ですが」
菫、菖蒲、慶太の順に答えた。
「あ、ありがとう。時間無いから次行くな! お邪魔しました」
朔月を無理矢理引き摺るようにして菫の部屋を出る。多分後は向日葵が何かしら説明してくれるだろう。俺の様子を不思議そうに見ながら見送る三人に背を向けて朔月を自室に連れて帰った。
「無礼者!」
「五月蝿え、無礼はどっちだ! 俺はお前の世話役だぞ?」
「わっちは花魁の子でありんす! いずれ此処で上級花魁になる者でありんすよ」
「なれるかどうかは決まってないしお前は多分なれねえよ」
「僻みとは醜い」
「はああ? いっぺん表出ろよ」
「撫子さん、どうしたんですか先程から」
朔月と言い合っていたら障子戸越しに菫の声が聞こえた。声が響いたのかもしれない、と冷静になって反省する。障子戸を開けて菫を招き入れる。途端に朔月は姿勢を正した。
「何があったんですか?」
「菫さま、この無礼者に身分を弁えさせておくんなんし」
「……そのお話、詳しく教えていただけませんか?」
「かしこまりんした」
無礼者はどっちだよと思いながら朔月の言葉に耳を傾けた。菫は時折相槌を打ったり質問したりしながら話を聞いている。最後まで聞いた菫は「ふうー」と長く息を吐いてから朔月と目を合わせて言った。
「無礼者は君だ」
「あの、菫さま……?」
「もう一度言いましょうか。君が無礼者です。確かに君の母上様は立派な花魁だったかも知れない。君がそう言うのならとても素敵な人でしょう。だけどそれは君の母上様であって君自身じゃない」
「それは……」
俯く朔月を許さず、菫は頬を掴んで強制的に自分の方を向かせた。
「郷に入っては郷に従え。此処は華乱だ。花街ではない江戸の端の男遊郭だ。そして君は新参の禿で、さっきまで君を叱っていたのは花魁だ。此処には此処の規則と序列がある。君の常識や我儘が通じると思うな。生まれた環境がどうあれ、君は此処で一番の下っ端だ」
朔月は叱られて涙目になりながら菫を見た。助ける気は無い。自業自得だ。
「撫子さん、朔月の世話役は僕がやりましょうか?」
「いや……多分もう大丈夫だろう」
「撫子さんは優しすぎるんですよ」
「優しい? 何でだ?」
優しくはないだろう。十以上歳下の子供と喧嘩する大人気なさはあるだろうが。
「優しいですよ。僕も、きっと柊さんや久弥さんもそんな甘やかし方はしません。花魁や此処で働く他の大人を敬えない禿には隙を見せずに教育します」
菫は泣きじゃくる朔月から目を離さず、はっきりとそう言った。年功序列の拘りは菫が一番強い。久弥さんも厳しいがどちらかと言うと実力主義だからそれ以上だ。
「柊さんだって、自分への無礼は許しても他の人への無礼は許さないでしょう? あの菖蒲だって一応は改善していますし」
「あれは別だろ。俺達じゃなくて仕事が嫌いなんだから」
「……それはそうですね。さて、朔月。撫子さんに何か言う事は?」
朔月はビクッと震えてから、嗚咽混じりの声で「ごめ、っなさい」と言った。
「良し」
流石に可哀想になって朔月の頭を撫でる。朔月の涙に濡れた目は……俺を睨んでいた。反省してねえな。
それから一週間後。俺と朔月は朝食とも昼食とも言える食事を取るべく食堂に居た。
「撫子。水取っておくんなんし」
「自分で取れ」
「無礼者な上にけちでありんすなあ」
「誰が無礼者でけちなんですか?」
「ヒッ……何でも。い、今から水を取って来ようと思っていただけでありんす。そうでありんした。」
菫の声が聞こえると朔月はさっと立ち上がり、そそくさと湯呑みに水を注ぎにに行った。菫は呆れたため息を吐く。
「結局撫子さんが面倒を見ているんですか?」
「売られた喧嘩は買う質(たち)なんでね。それに今は俺以外には普通に接しているみたいだし良いかと思ってな」
「そういうところ、優しいですよね。僕はすっかり怯えられたようですが」
「良い薬になっただろうよ。くっくっく……」
三人分の湯呑みを持って戻ってきた。そして真っ先に菫の分を置く。菫はそれを俺の前に滑らせた。朔月は困惑した顔で菫を見上げる。
「世話役に一番に出しなさい」
「そこまで気にしなくても良いのに」
「まあこの位は許容範囲ではありますが。朔月さんありがとう御座います」
「いえ、どういたしまして」
菫が微笑むと朔月の強張っていた顔がやっと少し綻んだ。
同日夕刻__
「もうすぐ日が沈むよ」
「オレはもう準備出来てる」
「ちょっと待ってください、帯留めが……」
「やべえ腹減った」
各々好き勝手に話ながらばたばたと開店準備をしている。俺はとっくに着替えを済ませ、鏡の前で白粉をはたいていた。
「見た目といい仕草といい、まるで別人のようでありんすね」
「そりゃあそうだ。あちきは華乱唯一の花形でありんす」
口紅を引いて鏡に笑いかける。うん、今日も上出来だ。
「朔月」
「何さ」
「母のような花魁になりたければ、穴が開く程あちきを見ておくんなんし。あちきはこれでも華乱で最も芸術的な花魁でありんす」
「ふん……上級花魁部屋でわちきが指名されるのを隣の部屋で指を加えて見ていればいい」
「お前が客を取る頃俺はもう居ねえぞ?」
「何と? 逃げるつもりでありんすか?」
さてはわっちに恐れをなしたでありんすね、と一人上機嫌に俺を見上げているところを悪いが、朔月はまだ九つ、俺はもう二十三。朔月が花魁になる三年も前に、俺は年季が明ける。
「お前が花魁になったら俺の名前をくれてやるよ」
「誰がこんな奴の! わちきにはもっと似合うわちきだけの花があるはず」
「撫子さーん、まだですか?」
慶太が呼びに来た。もう俺以外は揃っているんだろう。化粧道具の片付けも程々に、俺は部屋を出る。
「あちきは華乱の花魁でありんす。他の遊女とも花魁とも違う。上級にもなれない。けれど誰よりも一時の安らぎを売る花魁でありんす。あと五年、しかと目に焼き付けなさいな」
他の花魁達と一緒に格子部屋に入ると一斉に見物人のざわめきが聞こえた。その殆どは上級花魁をはじめ、他の花魁を讃えるものだ。残念ながら此処で俺を見る者はごく少数だ。だが__
「撫子さん、ご指名です」
今日もまた、客は癒やしを求めて俺を買う。
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