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第十二話 葵の巻(前編)

日が沈む頃この見世は賑わう 幸せを求めて花を買う 人々は言う。「醒めない夢、ここは楽園(じごく)」と―― ____________ 「やだ、助けて、慶太っ、誰か!」 「姉ちゃん、姉ちゃん行かないで。連れてかないで」  まだ俺が五つの頃、三つ上の姉が見知らぬ人達に連れていかれた。攫われたんじゃなくて売られたんだ。奴らが父さんと母さんに金を渡しているのを見た。 「姉ちゃん、待って」  姉ちゃんが行ってしまうのが嫌で必死に後を追った。 「姉ちゃんを返せ」 「あのなあ、坊主。お前の姉ちゃんは売られたんだ。分かるか? もうお前のものじゃないんだよ。姉ちゃんはこれから廓に行くんだ。廓は悪いとこじゃねえ。飯も食えるし綺麗な着物も着られる。もっと大きくなれば金をたんまり稼げるんだ。だから放してやりな」 「嘘だ、いいとこなわけあるか! 俺知ってんだぞ、女の人はそこで酷い目に合うって。だから連れて行くな! いてっ」  小さな俺は簡単に吹き飛ばされた。そして姉ちゃんは抱え上げられて遠くに連れていかれた。 「うぅ……姉ちゃん、姉ちゃん……ちくしょう」 「どうしたんだい? お姉さんが迷子になってしまったのかな?」  上から声がして見上げると、優しそうな人が立っていた。大人の男の人に見えるけど髭は無くて、身体も細くて小さい。それでも当時の俺から見れば充分大きかった。その後ろに一人、怖そうな男の人がいる。 「姉、ちゃんが……おっとうとおっかあが知らない人にお金貰って、姉ちゃんが連れていかれた。姉ちゃん、廓に行くって……」 「そうか。寂しいんだね」 「姉ちゃんを助けなきゃ、返してもらわないと」 「無理だよそれは」  この人から優しそうな笑顔が消えた。一瞬怒っているのかと思ったが、悲しそうな顔だった。 「なんで? そうだお金は? お金があれば姉ちゃんをもう一回買って帰ってこれるんじゃない?」 「君は随分と賢いね」 「じゃあそれで姉ちゃん取り返せる?」 「君には難しいんじゃないかな。買い戻すほどのお金は無いだろう? 誰か仲介役がいたなら君のご両親が受け取った分だけでは到底足りないし、もし戻ってきたとしても、その後どうやってご飯を食べるつもりだい?」 「それは……お金、俺に貸してくれませんか? 働いて絶対返すから。今だけ、お願いします」  俺はこの人に頭を下げた。 「できないよ。君のお姉さんを買い戻せるだけのお金は今持ち合わせていないし、見ず知らずの君のご家族を支援するだけの余裕もない」  この人は酷い人だと思った。これから俺の姉ちゃんが酷い目に合うかもしれないのに、この人は助けてくれないのか。この人だけじゃない。周りの大人も誰も助けてくれない。そう思った時、この人はふいにしゃがみ込み、俺と目を合わせた。じっと俺の顔を見ている。つられて俺もこの人を見つめ返した。まるで女の人のように綺麗だ。 「どうしても助けたいなら一つだけ、方法はあるかな」 「ほんと?」 「但し条件はある。君がお姉さんの代わりに廓に行く事」 「でも女の人だけじゃないの? 俺、男だけど」 「男の人が同じ男の人を買う遊郭もある。僕はその遊郭の楼主だ。もし君が僕の廓で働くのなら、僕は君に投資という形でお金を貸せるし、その後のお姉さんやご家族の支援もできる。もしお姉さんのところの楼主が遊女になるまでは売ってくれないなら、何年か経ってから身請けすればいい」  辛いところに姉ちゃんが行くか俺が行くか選べ、そう言われた気がした。 「ほんとに姉ちゃんを助けてくれる? 嘘つかない?」 「すぐ買い戻せるとは言い切れない。でも嘘は吐かないよ」 「お願いします。姉ちゃんを返して」  ――それが柊さんとの出逢いだった。姉ちゃんをすぐには買い戻す事はできなかったが、三年前に遊女となったばかりの姉ちゃんは、客を取る前に柊さんに身請けされた。姉ちゃんは振袖新造と呼ばれる、花魁候補の遊女だったらしい。その姉ちゃんを身請けするならそれなりの金が必要だった。柊さんはあちらの楼主の望んだ額で身請けし、それが丸々俺の借金となった。 「年齢的にはかなりぎりぎりだけど、上級花魁にならないと返済は厳しいかもね」  帳簿を見ながら柊さんは言った。返済額は姉ちゃんの身請け金に加えて俺の今までの生活費と利子も含まれている。「上級花魁」の言葉に俺の心臓がドクンと鳴った。 「俺、上級になれますか?」 「それは君の努力次第だよ。僕は借金の額で上級花魁を選ぶ気はないんだ。君が向日葵の年季が明けるまでに相応の成績を出せないなら選ぶ事はできない。勿論他の子も同じだ」  柊さんの返答には「はい」と返すしかなかった。この人は誰の事も贔屓せず、どんな事情があっても特別扱いはしない。それは柊さんの美点であり、最も信頼できる点だ。 「上級花魁になるための手解きは受けられませんか?」 「それは自分で頼みに行きなさい。私から頼むのは不公平だろう? 君が最も教えを請いたい者に自ら申し出なさい」  柊さんに言われ、俺は元華乱の上級花魁の元を訪れた。 「上級花魁になる方法?」  久弥さんはこの華乱で最も客を魅了し、華乱一の稼ぎ頭だった。源氏名は紫陽花。かつてはきらびやかな青い着物と腰まで伸びた艶のある長い黒髪、切れ長の強気な瞳を持ち、道行く者の視線を奪った。馴染みの客が少なかったのは、そこらの小金持ち程度には高価過ぎて滅多に手を出せなかったからだ。  俺の申し出に久弥さんは快く承諾してくれた。 「では私をお前の客だと思ってもてなしてみなさい。水揚げはまだだからまぐわいは無し。それを除いて、部屋に入るところから見送るまで、やってみなさい」 「はいっ!」  久弥さんに個室は無いから実際に接客する部屋に移動した。久弥さんが先に部屋に入り、障子戸を閉めてから俺はその前に正座する。 「し、失礼致します。慶太と申します……」  そこまで言うと障子戸がすっと開いた。 「声が小さい。背中が丸い。何処を見ている?」 「すみません……」  いきなり駄目出しを連発された。ぐっと顎を掴まれ、上に引っ張られる。 「せめて背筋を伸ばして正面を見なさい」 「はい」 「誰かの部屋に入る時に練習しなさい。二回手本を見せるから一回目は隣で良く見るように。二回目はお前が客として部屋に入っていなさい」 「はい!」  久弥さんは立ち上がってから数歩下がり、一拍置いてからまた元の位置に戻って跪坐した。 「失礼致します。紫陽花、参りました。入っても宜しいでしょうか?」  当然空の部屋から返事は無いから、少し間を置いてから障子戸を開けて部屋に入る。 「ご指名ありがとう御座います。紫陽花と申します」  名乗ってから三つ指をついて一礼する。優雅な仕草だった。もう髪は短く切っていて、纏っているのは下働きの者の地味な小袖だというのに、高貴な雰囲気がある。そこに居たのは教育係兼雑用担当の久弥さんではなく、気品と自信に満ち溢れた花魁、紫陽花様だった。 「次。お前は中に入りなさい。……ああこら、客の役なんだから上座に座っていなさい」  ついうっかりいつもの癖で下座に座ろうとすると、久弥さんが手で部屋の奥を指し示した。俺は久弥さんが指定した位置に正座したのを確認して障子戸を閉める。  少し間が空いて、同じように声が聞こえた。凛とした声がよく聞こえる。ただの大声じゃないから煩くもない。「お入りください」と言えば、部屋に入って正座をした紫陽花様と目が合った。 「ご指名、ありがとう御座います」  一礼して顔を上げた紫陽花様が微笑む。俺はの目は紫陽花様の顔に釘付けになった。だが、その口から出た言葉は冷たい。 「ぼけっと見惚れていないで何か言うなり聞くなり自分の振る舞い方を反省するなりしなさい」 「すみません……あの、美しかったです。紫陽花様という感じでした」 「当たり前でしょう。私への賛辞ではなく何か気付いた事でも分からなかった事でも、何でも良いから言いなさい」 「声が部屋の奥でもはっきり聞こえました。あと目が合ってから釘付けになって、ずっと目が離せなくて、礼も綺麗でしたし、その……動きが滑らかで優雅でした」 「宜しい」  また半分以上紫陽花様への褒め言葉になってしまった。だが、それ以上の追求は無い。 「私の真似をしろとは言わない。大事なのは姿勢良くする事、お客様に良く聞こえる声を出す事、良い第一印象を与える事、お客様によそ見をさせない事、自信を持つ事、そして礼儀を尽くす事。これらの条件が揃えばあとは自己流で良い。但し立ったまま声を掛けて良いのは上級の者だけ。分かりましたか?」 「何故真似をしなくていいんですか?」  てっきり紫陽花様のようにできるまで練習すると言われると思った俺は拍子抜けした。だったら何の為の手本だったのか。 「私以外の花魁を知らないとでも言うのか? 私と同じ間合い、雰囲気、台詞の者は居ないでしょう? 皆自分らしく、自分なりの印象を与えている筈だ」 「確かに……」 「私は誰よりも気高く美しい高級品でありたかった。だから何よりも所作の美しさを追求した。現上級花魁の菫は客に誠実であろうとし、向日葵は客に癒しを与えようとする。その為の言動も意識している。お前はどうなりたい?」  俺は答えられなかった。まだぼんやりとしか自分の未来の姿が見えないのだ。 「菖蒲のように花魁になってから周囲から引き出された者もいれば何も考えず、目の前の客に懸命に尽くす者もいる。だがそれだけでは上級には物足りない。だからといって簡単に答えが出るものではないでしょう」 「はい。まだ自分がどうしたいのか全然分からないです。ただ上級花魁にならないと柊さんに借金を返せなさそうなので」 「そういう事なら先ず全て身につけなさい。知識も芸も話術も長けていればいるほどに価値がある。基本的な所作と勉学は私が教えるから、芸事は撫子に、お客様との対話に関しては向日葵に教わりなさい」 「はい。ありがとうございます」  俺は久弥さんに頭を下げた。頭の上から「厳しくやるので覚悟するように」との声が降ってくる。背中に冷や汗が流れた。  久弥さんに泣きたくなるほどの特訓を受け、撫子様には夢に見るほど繰り返し琴、笛、舞、歌留多などをさせられ、へとへとになった頃に向日葵様には嫌というほどどうでも良い話を聞かされた。駄目だ、どうでも良いと言うと怒られる。でも俺にとってはどうでも良かった。客に寄り添うというのは大変だ。  そして今日、とうとう十八になる丁度ひと月前、水揚げの日だ。緊張で口から飛び出しそうな心臓をどうにか喉の奥に押し込み、上級花魁専用の接客部屋に向かう。後ろから向日葵様がついてきている。 「そんなに怖がらなくていい。相手は菫だからな。ちゃんと優しくしてくれる」 「ひぇっ、ででででもあの、前菖蒲の悲鳴が聞こえましたし……」 「あー……あいつは逃げようとして暴れて紫陽花様にぶち切れられたからなあ」  俺はさっと血の気が引いた。あの人ちょっと怒るだけでも怖いのにぶち切れさせたらどうなるのか。考えたくはなかった。 「ま、でも俺は気持ち良くしてくれたし、お前を抱くのは菫だから。な、そんなに怯えなくていい。受け入れるなら優しいくしてくれる筈だ」 「そ……そうでしょうか?」 「おい、通り過ぎてる」  ぐい、と手を引かれ、俺は菫様の部屋の前に立った。向日葵様に笑いながら座るように促される。俺は障子戸の前で跪坐してから深呼吸した。そして真っ直ぐ正面を見据える。 「お待たせ致しました。慶太、参りました」 「お入りください」 「失礼致します」  なるべく静かに障子戸を開けると、濃紫色の着物を着た菫様と目が合う。 「ほ、本日はよろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしくお願いします」  菫様は俺よりも丁寧に礼をした。それを見て少しだけ気持ちが落ち着く。部屋の中央の布団まで呼ばれ、そこに腰を下ろす。菫様は俺の隣に座った。 「慶太は上級花魁になりたいそうですね」 「は、はい」 「久弥さんのご指導は厳しかったでしょう? 私も以前指南を受けましたが何度も心が折れそうになりました」 「菫様も教わったんですか?」 「ええ、引き継ぎも含め、上級花魁としての特別な所作や仕事、心構えなどを学びました」  ああ、それはそうか。菫様は紫陽花様の後を継いで上級花魁になった。だから俺とはまた違う事を習ったのだろう。芯が強いと思っていた菫様でも心が折れそうになる時があるのかと意外に思った。 「それはさておき、久弥さんと撫子さんと向日葵には学びに行ったのに、俺の元には一度も来ませんでしたね?」 「それは、その……えっと」  俺は咄嗟に目を泳がせた。菫様のところには行きたくなくて行かなかったのではなく、それだけの余裕が無かっただけだ。心の中で言い訳をするとクスクスと笑い声が聞こえた。 「そんなに申し訳無さそうにしないでください。別に怒っていませんよ。必死だったのは分かっていますから。役割も違いますしね」 「すみません。ずっといっぱいいっぱいで」 「ふふ、でも今日は俺の事見てくださいね?」  菫様に肩を引き寄せられ、どきりとした。見た目より力があるようだ。一度静まった心臓の音がまた煩くなる。 「緊張していますか?」 「はいっ」  肩を抱かれていた手が腰に回り、菫様のもう片方の手は指を絡められる。掌はあまり柔らかくなかった。 「俺も緊張しています」 「菫様がですか? どうして?」  俺は菫様の顔を見た。柔和な笑みを浮かべているだけで、あまり緊張しているようには見えない。話し方もいつも通りた。 「水揚げの相手をするのは初めてだからですよ。慶太が怖がらないように、この先ちゃんと花魁としての務めを果たせるようにしなくてはいけない。至らぬ事があってはいけない」  菫さんは俺の手を掴んで自分の胸に当てさせた。着物の上からトクントクントクンと速い鼓動が伝わってくる。菫様は恥ずかしそうに笑った。 「怖いときや痛いときは遠慮無く言ってください」  俺は身体の向きを変えられ、菫様と向かい合った。そして頬に手を添えられ、菫様の整った顔が近付いてくる。ぶつかりそうだと思わず目を瞑ると、暫くしてから唇に柔らかくて生暖かいものが当たっているのを感じた。更にぬるりとした何かが唇をこじ開けて口の中に入ってくる。そして俺の歯茎や上顎、舌をなぞるように動いた。 「これが口吸いです。分かりましたか?」  一度感触が無くなってからそう聞かれ、俺は頷く。そして再び唇を重ねられた。 「んっ……ふぅ、う」  息をしようとして声が漏れる。口の中を這うのが菫様の舌だと気付いたのは暫く経ってからだった。頬どころか顔全体が熱くなって何も考えられなくなってくる。  なんかひやっとすると思ったら、いつの間にか上半身を脱がされていた。着替えや湯浴みで見られた事はあるのに、今は恥ずかしい。  口付けられながら押し倒され、俺は布団の上に仰向けに転がる。俺の上に菫様が被さった瞬間、一気に恐怖を感じた。

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