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第16話

 『SILENT BLUE』のバックヤードに戻ってくると、望月はスタッフの休憩用にも使われている応接ソファに湊を座らせ、自らもその向かいに腰掛けた。  もう開店している時刻だ。店内は営業中も静かだが、人が入っているとフロアから伝わってくる活気が違う。  二人も不在でいいのだろうか。少し気になるが、副店長はスタッフの心のケアを優先させたようだ。   「とりあえず落ち着いて、どうして精神修養の旅になったのか話してみようか」  カッ、とスマホのライトを当てながら「カツ丼食うか?」と刑事ドラマ風に聞かれて苦笑する。 「…ええと、自分の未熟さや徳の低さが辛くなったので、人間性を少し見直したいというか、何なら出家して読経三昧な日々をおくれば俗世のことを忘れられるかもしれないとか…」  しどろもどろで自分で何を言っているのかよくわからなくなってきた。  竜次郎に言われた通り、湊がきちんと演技できれていればこんなことにはならなかったのだ。  彼を見ただけで泣きそうになっている今の自分には、迷惑そうになど、振りでもできそうにない。  「……うーん……自己啓発とか…向上心があることは俺もいいことだとは思うけど……」  唸る望月の言葉の途中でノックの音がして、「入るよ」という声と共に、いつものように片腕である土岐川を伴ったオーナーが入ってきた。 「お疲れ様。なんか松平竜次郎来てたんだって?」 「…月華。土岐川さんも、お疲れ様です。誰かが通報したのか?」  望月はさりげなく立ち上がり、上座の方のソファを譲って湊の隣に座る。オーナーはありがとう、と綺麗に笑うと優雅な動作で腰掛け、土岐川はいつもと同じ、ソファの傍らに立ったままだ。 「ここに寄ったのはいつもの視察。…湊のことも気になってたしね」  オーナーは、視察と称してよく店に寄ってくれる。  多忙だろうに、訪れてはスタッフに声をかけて体調や仕事のことなどを気遣ってくれて、気にかけてもらえているということがいつも有難いと思う。 「で、来たら桃悟からかちこまれたって聞いて。それで?なんか事件が起こったの?」 「事件というか、あのヤクザはそのうちスープレックスかますとして、湊が……」  かくかくしかじか。  事の次第を望月が説明すると、オーナーは「精神修養?」と嫌そうな顔をしてから、すぐにああ、と手を打った。 「…もっとハードなプレイをするクラブに勤めたいってこと?」 「「…………………………」」  望月が「どうしてそうなった」とツッコミたげな遠い目になった。もしかしたら湊もそういう顔になってしまっていたかもしれない。 「…………月華、一つもどうしてそうなったのかが想像できない上に、それ本当に修養になるか……?」 「確実に精神的な何かは強くなると思う」 「『何か』ってファジィ過ぎるし!失うものがなくなるからってだけのような…いや、人の嗜好についてあれこれ言う気はないけど。とにかく全然違う」 「そう?」と気にした風でもなくツッコミを受け流したオーナーは、湊へと視線を向ける。 「まあ、湊は今まで当日欠勤とかなく真面目に勤めてくれてるから長めの有休を取ってもらってもいいとは思うけどね」 「いえ、そんな……。すみません、休みが欲しいとかではないんですけど……」 「なら、もしよければ『SHAKE THE FAKE』の方を手伝いに行ってもらえないかな。ここから通うんじゃなくて少しの間向こうに滞在して」  『SHAKE THE FAKE』というのは横浜元町にある『SILENT BLUE』の姉妹店で、オーナーの許可がなければ入れないというところは変わらないが、ここよりももう少しラフな雰囲気のクラブだ。  オープニング直後に人手がなくて少しだけ手伝いに行ったこともあるし、元『SILENT BLUE』のスタッフもいるので親しみはある。 「松平竜次郎にとっての神導月華は、友人でもないしビジネスパートナーというのともちょっと違う。僕の立ち位置は仲介人だから、彼に対して強制力というのはあまり持ってない。もちろん、湊の友人として、近寄るなということはできるけどね。仲介という立場から正直に言えば、彼とはあまりこじれたくないんだ。湊が真実ここにいなければ、いないと言ってお引き取り願うのは嘘にはならないからね。湊も少し違う場所で気分を変えると何か新たな境地が見えてくるかもしれないし」  家を出てからずっと住んでいたこの場所を離れるのは少し不安だが、オーナーの言っていることは正しいように思えた。  『SILENT BLUE』の癒し力が落ちる、と望月は不満そうだったが、湊は好意に甘えて月華の提案を受け入れることにした。  過去のこととして、ただの友人を装うことも迷惑そうに拒絶することもできなかった自分を、少しでも変えられたらと。  …それが竜次郎と関わりを断つことの逆を行く選択肢だったと、この時はまだ知る由もなかった。

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