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第35話
キッチンカウンターの上に置かれた二台のスマートフォンを見て、湊は密やかに笑みをこぼした。
一つは手になじんだ店からの支給品。
もう一つは別れ際竜次郎に渡された真新しいものだ。
「湊」
湊の住居兼勤務先であるビルの地下駐車場で、車を降りる前に竜次郎は懐から出したものを差し出した。
「スマホ…?」
「肌身離さず持っとけ」
そういえば連絡手段のことを失念していた。学生時代は学校に行けば会えたので、知っていてもほとんど電話やその他の通信手段を使ったことはなかったから、なんとなくその時の感覚でここまで来てしまったようだ。ちゃんと考えていてくれたことがありがたい。…が。
「…でも、俺お金払うよ?」
昔ならいざ知らず今はもう自分の稼ぎがある。ただでさえいろいろとお世話になっているのに申し訳ないと遠慮しようとすると、竜次郎は眉を寄せた。
「神導からはあんなウサギもらっといて、俺からは受け取れないとか言わないだろうな」
贈った方にも受け取った方にも何も特別な気持ちはなかったのだが、どうにも気になるらしい。
不機嫌というよりはちょっと拗ねたような物言いが少し可愛い……などと口にしたらますます臍を曲げそうなので黙っておくことにする。
「…うん、じゃあ竜次郎専用にするね」
「別に私用に使っていいぞ」
「他のことにはお店から支給されたのがあるから」
「………前聞いたときに仕事用だからって拒否っといてお前………」
そうだった。
「ご、ごめん。あの時はまだ竜次郎と会ったら駄目だったし……」
「まあ、いいけどな…。親父の所業に気付いてなかった俺が間抜けだったわけで…」
「ち、違うよ、竜次郎は悪くなくて…ちゃんと話ができなかった俺が悪いんだからそんな突然卑屈モードにならないで…!」
なんとなく元気がなさそうだったのが気になりつつも、竜次郎と繋がる大事なアイテムを貰えて嬉しかった。一人の部屋に戻ったら案の定寂しかったが、それでもいつでも連絡できると思えば元気が出る。
とにかく休んでろと言われて横になっていた二日間だった。
竜次郎はやはり忙しく、電話に出たり事務所の方へ移動したりしていたが、それでも随分と一緒にいてくれたと思う。
一緒に食事をして、他愛ない話で笑い合って、竜次郎の傍らで眠る。
なんて夢のような時間だったんだろうなどと浸りながら、次はいつだろうと期待してしまう。
ぼんやり回想していると出勤時間が近づいてきて、シャワーを浴びて身支度を整える。
傷の方は北条が往診に来てテープを貼り替えながら経過良好という診断をもらった。抜糸の必要ない糸らしく、一週間後にまた経過を見せるまでは、特にトラブルがなければ剥がれてきたタイミングでテープを貼り替えるだけでいいらしい。化膿止めはまだ飲んでいるが、痛み止めが必要なほど痛むことはない。
制服はスタンドカラーなのでまだ消えていないキスマークが隠れることにほっとしつつ、鏡の前で出勤前の笑顔の練習をした。
いらっしゃいませ、と鏡の中の自分はきちんと微笑んだ。
『SILENT BLUE』でスタッフとして働くことになって、知識や立ち居振る舞いはすぐに身についたが、笑顔だけがどうしても合格点をもらえなかった。
その時は本当に寂しくて悲しくて、暗い顔にならないように気を付けるだけで精一杯だったのだ。
それで美味しい賄いですら箸が進まないほどに落ち込んでいると、斜め向かいに座った店長の桃悟がこんなアドバイスをくれた。
「頬の筋肉だけでいいからとにかく笑え。脳は作り笑いと本当の笑顔の区別がつかないそうだ。みっともなくてもそのうち本当に楽しくなってちゃんとした笑顔になる」
桃悟は普段はそう笑わないが、接客業は経験があるらしく女性があてられて倒れてしまいそうな極上の「いらっしゃいませ」ができる。
やってみます、とその知識の深さに感銘を受けていると、あれの受け売りだが、と桃悟が示した先には、賄いの親子丼を口いっぱいに詰め込んでいる望月の姿があった。
「はんらほうろはにはようは」
「お前の食べ方が下品だと陰口を叩いていただけだ気にするな」
「はんらほ!」
望月もバックヤードではこんな調子だが、副店長の座に相応しい接客スキルを持つ。
そんなことを桃悟に教えたということは、いつも明るくて太陽のような望月にも何かとても悲しい過去があるのだろうか。
二人のやり取りに湊は控えめに苦笑しながら、その日から鏡の前で頬の筋肉を鍛え始めた。
今はもう、悲しくても仕事中はきちんと笑える。
……逆に幸せなので、浮ついた笑顔になってないといいけれど。
相棒に「行ってきます」と挨拶をしてスマホ二台を鞄に入れると、湊は今日もお客様を癒すべく部屋を出た。
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