49 / 112

第49話

 送迎してもらうだけでも申し訳ないと思うのに、竜次郎は一緒に車に乗って来てくれた。  地下駐車場で後部座席から降りて、スモークガラスに手を振ろうとすると窓が開いたので、どうかしたのと顔を寄せる。 「竜次郎?」 「忘れもんだぞ」 「え?わっ…………」  伸びてきた指先に襟元を引っ張られて、バランスを崩して窓枠に手をつく。  何、と思う間もなく、唇が重なった。  軽く、だが離す直前にちろりと唇を舐められて、背筋が慄いた。 「っ……竜次郎、」 「仕事終わったら何時でもいいから連絡しろ」  こんなところで、とか言わなくてはいけなかったかもしれないが、湊が遠慮することを見越して「連絡しろ」と言ってくれた優しさが嬉しくて笑みがこぼれてしまう。 「……うん。ありがとう、竜次郎」  部屋に戻って、まずはシャワーを浴びる。  今日は竜次郎の世界を垣間見た。  見せることで湊が恐がることを心配していたようだが、今日だけのことでいうなら嫌悪感はない。  自分でも不思議だと思う。  無論、自分に向けられた暴力は一つもなかったから恐くなかったのは当然だ。  欲望を向けられることは今でも恐い。車での送迎を申し訳なく思う反面、例えばラッシュの時間帯だったとしたら電車に乗って行き来をするのは少々躊躇うだろう。  これから先、彼らの暴力が自分に向けられた時、もしくは目の当たりにした時、恐いと思うのだろうか。  学生時代、生徒たちが竜次郎に向けていたような視線を、湊も向けてしまうようになったりするのだろうか。  それだけは自分でもその時になってみないとわからなくて、人の心には絶対ということはないから少しだけ恐い。 「(でも……竜次郎と一緒にいたい……)」  違和感はあるが痛みはほとんど感じなくなった脇腹の傷をそっと撫でる。  蛮勇と言われてしまったが、あの時反射的に動けた自分を信じたいと思った。  出勤してバックヤードに顔を出すと、三浦と望月が応接ソファでテーブルを挟んで睨み合っているところだった。  テーブルにはノートPCと数字のプリントアウトされた紙が散らばり、三浦の眉間の皺はかなり深い。  ゴゴゴ……という擬音の聞こえてきそうな低い声が空気を震わせる。 「そこでモンゴリアンチョップを繰り出す必要性があったのかというところをお聞きしたいんですが…」  並の人間なら小さくなるだろうが、対峙する望月は歯をむき出して言い返した。 「その時はどうしても必要だったんだよ。コブラツイストでも一本背負いでもなくモンゴリアンチョップが……!」  深刻な仕事の話かと思ったがプロレスの話なのだろうか? 「そういうことではなく……」  挨拶をするべきかどうかで逡巡していると、三浦が言葉の途中で所在なさげに佇む湊の方を見た。 「お、おはようございます…」  控えめに挨拶をすると望月も笑顔で振り返る。 「湊、おはよう」 「桜峰、お疲れ様。その節はうちのアレが迷惑をかけたな。傷の具合はどうだ?」  三浦も暗黒を引っ込めて気遣う言葉をくれたので、空気が緩んだことにほっとした。 「あ、もう随分いいです。むしろ俺こそ、八重崎さんにご心配をおかけしたみたいですみません」 「経過が良好ならばよかった。木凪は桜峰のことを気に入っているようだ。面倒でなければ適当に相手をしてやってくれ」  湊も八重崎のことは好きなので、そんな風に言ってもらえるのは嬉しかった。  こちらこそよろしくお願いします、と笑うと、三浦も表情を和らげる。  実際にはそれほど大きな変化ではなかったのかもしれないが、鋭さを消した穏やかな目元はギャップと言っていいほど優しく見えて、本当は穏やかで気遣いのできる人なのだと感じた。  二人のやりとりを見ていた望月が半眼になる。 「なあ、なんか急に随分親しいというか、湊には随分お優しいんだな?」 「特に厳しくする必要性を感じませんので。桜峰は食器棚の近くでスタッフに後ろからプロレス技を仕掛けたりしませんし」 「だから!絶対にしないといけない間合いだったんだって言ってるだろ!」  望月が吼えると再び三浦の背後に暗黒が広がる。 「…………………破損した備品の補填分は全て望月さんの給料から天引きしておきます」 「待って!月華が揃えた食器棚とあのティーセット全部はやばいだろゼロになる!」 「普段の一月分だとマイナスなので今月は精々お客様におねだりしてください」 「鬼ー!」  なんとなく息の合った掛け合いに、意外に仲がいいのかな?と思いながら開店準備のためにバックヤードを後にした。

ともだちにシェアしよう!