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2話

 それから数日後。会社帰りに、マッサージを行うために、寒川家に来た。 「アニキの部屋には寄らないほうがいいぜ。今、高原を連れ込んでいるみたいだから」  リビングから聞こえる忠告に耳を傾け、玄関を見ると見慣れたスニーカーの横に拓海のと思しきスニーカーが置いてある。意外に律義な性格らしく、クツをそろえておいてある。 「へえ」  結果オーライじゃないか、と思いながら、慶の忠告を無視し、そっと階段を上がっていった。  扉の向こうから、叫び声というか鼻にかかった甘い声が聞こえてくる。 「郁磨、マッサージは後日でいい。……っ、こらっ、拓海っ」  かすれた声が焦っている。 「そう言うことだから。……ごめん。すねるな、拓海」  甘く官能的な響きと淫らな水音がする。 「ああああっ、んっ……たかっ、すずさん」 「緩めろ……ッ、あっ……拓海」  孝涼が突き上げたのか、シーツが擦れる音と濡れた肌と肌がぶつかる音が聞こえた。  鈍器をフルスイングし、頭部を打撃された時のような衝撃に眩暈がする。階段を降り、リビングに入る瞬間、感情が全くこもっていない作りものの笑みを作る。 「いつからそこにいるんだ」 「アニキが帰ってきてからかな。部屋にいるとお互い気を遣うだろ」 「まあな。母さんは?」 「着替えに行った。まあ、空気読んで退散したんだろうな」 「ふうん。そう言うことね」  だったら、なんで帰ってこないのだろうか。まさか、郁磨が帰ってきて、慶と鉢合わせし、何かしらアクションを起こすことまで想定内だったのだろうか。  くそっ、はめられた。 「じゃあ、母さんを呼んで帰ろう」  あからさまに落胆した声で言った。帰るな、とでも言うように、身をひるがえした郁磨の腕をつかみ、髪を撫でられた。振り返り、慶を上目遣いで見ると、目尻を吊り上げる。 「郁磨は、俺の忠告を無視したんだろ」  小さな耳朶を触りながら、吹き込まれた声はいら立ちがにじんでいた。 「はあ?」  何言ってんだこいつ。  じりじりとにじり寄ってくる慶をかわすために、後ろ歩きで逃げる。アパートと比べ物にならないくらい広くても、逃げるスペースには限界がある。つややかな黒髪がワンテンポ遅れて揺れる。 「アニキより、俺にしろよ」  傲岸不遜にそうつぶやいた彼を上目遣いでにらみつけた瞬間、唇に温かく柔らかいものが触れた。慶の端正で粗野な顔がドアップで視界に映っていた。閉じたまぶたをじっと見つめる。意外にも長いまつげに縁どられた切れ長の二重は、刃物の切っ先のようだ。日に焼けた肌は、昼夜問わず峠を走っていることもあるからか。  胸に両手をつき、渾身の力で押すがびくともしない。それどころか、両手首をつかまれ、背中から壁の無機質で冷たい感覚が伝わってくる。それと同時に、息を吸おうと薄く開いた口に舌をねじ込まれ、口内をかき回され、舌を擦りつけられる。ざらりとした感覚に、背筋が震える。  口の中がタバコの味と苦みがするが、嫌悪感はみじんもなく、もっとしていたいと思う。 「んっ……」  どんどんと力が抜けていく膝に力を入れても、膝が笑う。ああもう落ちると思った瞬間、手首を捕まえていた手が、腰に回り、難なく支えられる。  くそっ……。2歳下の慶に振り回されてたまるか。カツアゲにあった時、一対複数の不良を相手にすんなりと片付けてしまった彼を見て、そう思ったじゃないか。  悔しいやら失恋の痛みで胸がしくしく痛むし、訳のわからない痛みで心臓が痛いわ。ああ、もう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。 「なんだよ、てめえは」  手の甲で唇をぬぐう。恨み言の一つくらい言わないと気が済まない。人が失恋しているときに、唇を強引に奪いやがって。舌突っ込まれるキスが嫌いだって知ってるくせに。女みたいな見た目が嫌いなことも知っているくせに。  怒ると口が悪くなるのは、荒れていた頃の名残だ。父譲りのチワワみたいなくりくりの二重のまぶたに、母譲りのベビーフェイス。舐められる要素しかない自分の精いっぱいの攻撃というか口撃手段だ。 「ごめんな。でも、そんな顔でにらんでも大して効果はないぜ」  にらんでも可愛いと言わんばかりに、目を細め、髪の毛をくしゃくしゃと撫でる彼を見て、手をはねのけたい衝動にかられた。確かに、視界が涙でぼやけていて見にくいったらありゃしない。  慶が不意にかがみこんで「そんな顔で外に出ると、犯されるぞ」と言われ、 「おかげさまでな。ふざけんな! 人をからかいやがって。僕がフレンチキス以上のキスが嫌いなこと知ってるくせにしやがって。マジでぶっ殺す」  何を言われてもさしてダメージを食らってない様子に、なんとか保っていた機嫌が急降下し、暴言を吐いてしまった。 「からかってない。ごめんごめん。これからはしない」  大きなため息をつき、脱衣所に行った。うがい薬で入念にうがいしてから、帰り支度をし終わって、暇を持て余していただろう母親を呼んだ。 「なあに、郁磨」 「帰る」すこぶる不機嫌な声で言ったと思う。 「慶ちゃんとお話は済んだの?」 「済んだ」 「じゃあ、明日ね。慶ちゃん」  バイバイと慶に手を振る母親を尻目に見ながら、スニーカーのひもを結んだ。頭の中は、孝涼と拓海の情事と啓介のキスシーンがグルグルと回っていた。 「郁磨、気分悪い? ちょっと休んでから、運転しよう」  クツを履こうとした母親は、郁磨の顔を見て、事故でも起こすのではと危惧したような顔をした。 「車の中でいい?」 「いいよ。郁磨が落ち着けるところで」  肩をポンポンと叩かれ、いつも通り太陽が射している眩しい笑顔を見せた。 「ありがとね、乗せてくれて」  寒川家の車庫に停めてある愛車の白いスポーツカーの中で、どう切り出していいのかわからず、ただただ黙り込んだ。 「夜遅くに歩いてるほうが危ないだろ?」 「心配してくれてありがとう」  母は目尻に細かなしわとえくぼを見せた。毛布のように柔らかい言い方が、かさぶたを無理やりはがした時の痛みを覚えている胸に、絆創膏を貼ってもらった安心感を覚えた。 「失恋したんだ。告白する気もないのに、相手にいい人ができればと思っていたけど、嫉妬しちゃって、自己嫌悪している。仲直りしているところも一部見て、衝撃が半端ない」 「すごく頑張って耐えていたのね、郁磨。つらかったでしょう」  強引に頭を撫でながら、引っ張られ胸に埋められた。母の服からはお菓子の甘いいい匂いと母の匂いがした。 「つらかった。ずっと。意気地なしの自分が嫌いだ。こんな自分大嫌いだ」  胸の奥から突き上げてくる想いに身を震わせて慟哭する。声を出しながら泣くなんて、何年ぶりだろうか。母親はずっと頷きながら、髪を撫でたり、背中をさすったりしてくれた。 「もしかして、孝涼くん?」  渇いた笑みを浮かべた。 「郁磨が孝涼くんを見る目が他の人と違ってて、柔らかくて甘酸っぱいって言うのかな。母親の勘だよ」 「そうだったんだ。気持ち悪いだろ? 息子がホモなんて」 「なんで? 人を好きになる気持ちは、異性愛でも同性愛でも変わらないでしょ。それを気持ち悪いなんて思うわけないじゃない」  泣きながら笑うしかなかった。狭い考えでがんじがらめをしている自分とは対照的に、その事実がわかった時点で覚悟をしていた母親。 「その上、」 「慶くんに告白された? あはははは、また当たっちゃったかな」  嫌味のないさらりとした笑い方だ。 「半分正解」  ここまで来ると勘というより、その場を覗き見られる能力が母親には備わっているのではと考えてしまう。 「あの子もわかりやすいからね。あんたのことをじっと陰から見守っていたからね」 「……」  怖い、恐ろしい。 「いいじゃないの。郁磨の傷が時間薬で少しずつ癒えて、また恋愛したいなと思ったら、思うまま行動すればいいじゃないの。ただ、慶くんがそれを許してくれるかは、別問題としてね」 「うん。帰ろうか」  動揺しまくったら、落ち着いてしまった。 「帰ろっか」  迷子になった郁磨を見つけて、冒険の一部始終を聞いた後、手を差し出して帰ろうと言われたあの頃のような言い方だった。

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