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「スタート」 4

「お腹いっぱいになった?」 「はい。パンパンです」  腹を満たした満足感とアルコールのおかげで彼の表情は随分和らいだ。このまま別れてもいいが、後々気になって仕方なくなるだろう。初対面のようなものだし嫌われてもダメージはない。 「長谷部、ええと「bright」で一緒にいた男が言ってた。ろくに経験がないのになんであんな男について行った?それにさっきの男にも」 「……」 「言いたくないのはわかるけど、君に聞いてみたかったんだ。どうして自分を安売りするのか」  彼はノロノロと視線をあげる。戸惑いと怯え、それとは違う何かを表情に浮かべている―すがるような目 「……人と違う……から」 「ゲイだからってこと?」 「……はい」 「だからって自分から危ないことに飛び込む必要がある?ないよね」 「……やめられると思った。もう嫌だ、普通になろうって。変われるんじゃないかって」  マスターが言っていたのはこれだ。 「男にひどい目にあわされたらゲイであることをやめられる、そういうこと?」 「はい。男は怖いと思えるようになれば変われるかも……って」 「で?」  彼は首を数回横に振った。生まれた時に人間だった、これを途中でやめることはできない。男も女も生まれたときに備わったものは消えてくれない。 「ゲイであることを隠すことはできる。でもやめることはできないよ。だから君のやっていることに意味はない」  彼はテーブルの上でこぶしをギュっと握った。 「ずっと隠して生きていくなんて無理です。親に黙っているってことですよね。結婚しないのかと聞かれる度に誤魔化し続ける。そんなことできっこない」  彼はかつての自分だ。マスターは言った『皆が通る道じゃないかな。形や方法、程度の差はあるだろうけど』と。認めたくないが認めるしかない、そのことに絶望して自暴自棄になっている。  かつての俺は打開できると信じていた。心の内を叫べば届くと思い込んでいた――結果は悲惨。 「じゃあ、俺の話をしよう」 「あなたの?」 「高校生の時、親友に恋をした。よくある話だ。恋心が募って爆発しそうになった時、言われたんだ『俺を見るお前の目が気持ち悪い』って」  彼がはじかれたように頭をあげる。そうか、君も友達に恋をしたんだね。 「親友は距離をおくどころかクラスで俺のことをホモだと言った。同性に惚れられる嫌悪と恐怖だったと思いたいけど本当のところはわからない。孤立した俺に一人だけ変わらず接してくれるクラスメイトがいた。彼は「ゲイだか何だかしらんけど、お前はお前だろ」と言ってくれたから救われたよ。ホモだと蔑まれ続けたが彼のおかげで学校に行くことができた」 「え……まさか」 「ふっ、そのとおり……俺は彼に恋をした。言われたよ。『お前の視線が熱っぽくて困る。友達以上は無理だよ。俺は男だから』って」  彼の目に涙が溢れた。ノンケの友達に恋をして傷つく――思春期にゲイの大部分が経験すること。 「俺は思い知ったよ。彼は俺を受け入れてくれたわけではなかった。ゲイだという部分を除けば付き合えるけど、それ込みだと絶対無理ってことだ。でもゲイであることは俺の一部だから、結局否定されて生きていくことになる。傷つくことを積み重ねるしかない。それからは人とは距離を置くようになった」  彼は下を向き目元を手の甲で拭った。彼の身体の中で感情が渦巻いているだろう。 「俺は20歳になったタイミングで母に打ち明けた。父は堅物でオネエ芸能人がテレビに映ると「気持ち悪い」と吐き捨てる人だ。まずは母、その次に父と弟妹に言おうと決めた。結果は散々だったよ。『息子の形だけでいいのに、余計なことを私に言うなんて。それは治らないのか』と言われた」 「え……」 「母に、じゃあ女を治して男になれるか?と怒鳴ってやりたいのを必死に堪えた。『よりによって私の息子が!なんで私がこんな目に?』と大泣きされた。俺だって選んでゲイになったわけじゃない。ゲイだというだけで息子という俺の存在がまったくの別ものに変わってしまったよ。母は家族に打ち明けることを絶対に許さなかった。8年くらい経つけど家族には会っていない」  彼は言葉を忘れたのか、ただ俺の顔を見詰めている。 「幸いなことに理解してくれる叔母がいた。『嘉彦なりの幸せをみつけなさい。応援するわ』と言ってくれた。でもそれが原因で仲の良かった姉妹の関係が崩れ、叔母と母が仲たがいをした。LGBTが認知されつつあるなんて言うけど、家族の関係を崩してしまう。それが現実だ」  ぬるくなったビールを一口飲み下し、彼を見詰める。 「君のやっていることは意味がない。自分を飾らなくても自由でいられる場所か友人をみつけるんだ。いつか素敵な恋人ができるかもしれない」 「どうやって?」 「さあな。そうだな「bright」のマスターは優しいし色々教えてくれる。長谷部は常連だから顔を合わせることになるだろうけど、マスターが守ってくれるよ。俺がいるときは話し相手くらいにはなれるしね」 「恋なんて一生できないと諦めています」 「それはどうかな。一応彼氏がいたことはあるよ。でも俺の性格が災いしていつも振られる」 「え?そんな風に見えないです……助けてくれたし」 「だから、それだよ。口や手をだしちゃうんだよね。それがウザいみたい。弟や妹の世話を焼いてきたからだろうな」  彼は両膝に手を置き頭をゆっくり下げた。 「お願いします。僕のお兄さん……友達?になってくれませんか。あなたの話を色々聞きたい。自分には未来がないとしか思えないけれど、あなたと話をしたら僕は変われるかもしれない」 「どうかな、変えられるだけの力はないかもよ」 「いいえ。だって失恋や家族と離れてしまう経験をしているけど、あなたは未来に絶望していない。だからきっと僕も変われる……そんな気がするんです」  ボロ雑巾を洗いたてのタオルにしてやる程度なら、俺にもできるかな。そんなことを考えながら俺は頷き彼に笑顔を向けた。

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