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――あのメモに返信してみようか……。
それは、単なる思いつきだった。
本気で答えが返ってくるとは思っていなかった。日常の中にわずかに見え隠れする非日常。悪戯心のようなちょっとした遊び。薫は自分の気持ちに整理をつけるように、一言書いて本を図書館の書棚へ戻す事を決めた。
『僕は猫になりたい。動物の猫ではなく、人に愛される猫になりたい。本物の愛を知っている猫になりたい』
猫好きの三島由紀夫に掛けた言葉でもあった。
三島由紀夫は猫について「あの憂鬱な獣が好きでしゃうがないのです」と語っている。小賢しい拗ねた顔つきや綺麗な歯並び、冷たい媚びが好きだと、猫の可愛さをそんなふうに表現していた。
もし、あのメモを書いた相手がそういう意味で記したとするなら、このアナグラムが意味する所を理解してくれるだろう。微かな期待を込めてまだ新しい三島由紀夫全集の隣に古い本を並べた。
数日後、答えが出た。
夕方六時過ぎに図書委員の仕事を終え、部屋の電気を消そうとした時、例の古本が置いてある棚から一冊だけ背表紙が飛び出しているのが見えた。気になって開いてみると中にメモ用紙が挟まっていた。
「あっ……」
思わず声が出た。あのメッセージに返信が来たのだ。
震える手でメモを取ると丁寧な字でこう書かれていた。
『君はこの学校の生徒? だとしたら勇気があるな。あるいは馬鹿なのか。まあ、別に俺はそのどちらでも構わない。話す相手が見つかった事を嬉しく思う。俺は猫を愛したいと思う方の人間だ。君はどんな猫になりたいの?』
薫は慌てて返事を書いた。
『本当の事を言うと、まだ誰も愛した事がない。愛された事もない。愛を知らない寂しい猫なんだ。友達もいない』
すぐに返信が来た。
『愛を知らない猫か。なんか可愛いな。一匹狼ならぬ、一匹猫か。迷い猫、はぐれ猫……って、猫ってつけるとどんな言葉でも可愛くなるな。今、知ったよ。俺も友達はいないが、そんな事は気にしていない。一人も案外悪くないだろ? 人生で一番大切な事は人を傷つけないで生きる事だ。あ、今、カッコつけたと思ったな? 安心してくれ。今の所、俺の右手は疼いてない』
思わず口角が上がる。相手の声が聞こえてきそうな文面だった。すぐに返事した。
『君みたいに、一人も悪くないとは思えない。僕はいつもぼっちだけど……本当は寂しい。周囲からそう思われてるのも辛い。自意識過剰なのは分かってるけど、人と関わるのが怖い』
『こじらせ系にゃんこか。可愛いな』
『馬鹿にされた』
『人からどう思われようと自分は自分だろう。相手がどう思っているかは、自分の問題じゃない、相手の問題だ。他人の気持ちをコントロールする事は不可能なんだ。だから、他人の目にどう映るかなんて考えるだけ時間の無駄だ。おまえは、自分の人生を生きろ』
『こじらせても?』
『そうだ。人と関わるのが怖いなら、俺がおまえに関わってやる。なんなら俺がおまえを猫可愛がりしてやろうか?』
『やっぱり馬鹿にされてる』
その日の返信は馬と鹿がエプロンをして鍋を囲んでいる絵だった。ふざけている。けれど、絵は上手だった。
それから頻繁にやり取りをするようになった。内容は些細なもので、日々の出来事や悩み事、お互いが好きな本や音楽についても語り合った。男が優しく聡明で、ユーモアのセンスがある事はすぐに分かった。文面はぶっきらぼうで時々、毒を吐き、字は冷たい雰囲気のある角張ったものだったが、言葉の端々に薫を思いやるような温かさが滲んでいた。
『おまえの好きな食べ物は?』
『万能ねぎ。万能だから』
『もっと情緒のある答えはないのか?』
『じゃあ、君の好きな食べ物は?』
『イカゲソと豚足とちくわだな』
『貧乏なの? それともただの脚フェチ?』
『おまえ失礼だな。高級なタラバガニだって食うぞ』
『やっぱり脚フェチだ』
気がつくと薫の呼び名がおまえになっていた。
返事はまちまちだった。すぐに来る日もあれば、ニ、三日掛かる日もあった。
返信が待ち遠しく、ついつい本棚の前をウロウロしてしまう。そうする事で相手が返事できない状況にしているのだと気づき、ウロウロするのをやめた。
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