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『おまえの将来の夢はなんだ? 俺は教師になるのが夢だ』
『教師になるのが夢って事は、今はまだ教師じゃないんだ。やっぱりうちの学校の生徒なんだね』
『さあな。教師かもしれないし、生徒かもしれない。事務員か……幽霊かもしれないな。で、おまえの夢は?』
『僕はまだ詳しい事は決めていない。人の役に立つ仕事をしたいと思ってる』
『漠然としてるな』
『とりあえず勉強を頑張っていい大学に行きたい』
『なら俺も頑張るぞ。よし、東大で会おう!』
『無理』
古本に挟まれているメモ用紙は学校の購買部で売っているものだ。やり取りをしている相手はこの学校の生徒で間違いないだろう。
相手の事が分かってくると名前を訊いてみたくなった。男が誰なのか知りたくなった。けれど、薫は相手の名前や個人情報について尋ねる事はなかった。それをすれば、もう返事が来なくなるという事を心の底で理解していた。
目を閉じて想像した。
相手は何年生なんだろう。どんな髪型で、どんな顔で、身長は……。
想像の中の男はぼんやりとしていて、けれど、声や匂いや喋り方は容易に想像できた。想像してみると知っている生徒の誰にも似ていなかった。
しばらくするとお互いの呼称がごちゃごちゃするため、薫は自分の事をK、男は謎の生命体Xという事でXと名乗った。
Xとやり取りをするようになってから、学校へ行くのが楽しくなった。あいかわらず一人ぼっちだったが、そんな時でも寂しさを感じなかった。次はどんな話をしようか、何を訊こうか、考えているだけで幸せだった。
――心がふわふわする。
本音で話せる事が不思議だった。文字でのやり取りとはいえ、それまでの自分なら思っている事をそのまま誰かに伝えたりはしなかった。いつも心をガードしながら何かに擬態し、それさえも上手くできずに一人もがいていた。本当の自分はどこにもいなかった。Xの率直な言葉に触れて己の内面が変化した気がした。
変化とは違うのかもしれない。Xのおかげでありのままの自分を出せるようになったのだ。
初めて少しだけ自分を好きになれた気がした。
薫はずっと気になっていた事を訊いてみた。
『Xは人を本気で好きになった事がある? 僕はまだない。自分が猫なのはもう分かってる。けど、それを上手く受け入れられない。僕が人を好きになる事は、誰かを傷つける事とイコールなのかもしれない』
あの日、書庫室で見た言葉がずっと胸の中に残っていた。
――道ならぬ恋である以上、恋の自覚と喪失は同時に来るのが運命だ。
自分が好きになる相手はほぼ百パーセントの確率で女が好きな男だ。そんな相手を好きになっても恋は成就しない。成就どころか、何かを失う事になるかもしれない。
友情や信頼や、学校での立場、普通の人生を――。
最初から同じ趣向を持った相手を探すのは簡単な事だ。それが難しい時代でもない。けれど薫は普通の恋をしたかった。
『普通の景色の中で、普通に恋をして、その相手に自分の事を好きになってほしい。それって難しい事なのかな……。やっぱり、贅沢なのかな』
『待つ事も大切じゃないのか? 今はまだ無理に誰かを好きになる必要はないだろう。その時が来るまで待てばいい。俺はどうだろうな……。人を好きになる事が幸せに繋がらない徒労感は確かにある。始めない方が幸せなんじゃないかと思う事はあるよ。けど、どんな事があっても、俺は自分に素直でいたい。嘘はつきたくない』
薫も自分に素直でいたかった。それができればもっと楽に生きられる事も分かっていた。
真っすぐ生きる。
誰かを好きになる。
そして、その相手が自分を好きになる。
こんな簡単な事がどうしてできないんだろう……。
薫はわずかに希望の光を感じながら、知らないうちに背負わされた十字架の重さを改めて認識した。
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