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第4話

 朝も食べろ食べろと煩かった母親は、具合が悪くなったと吐露すると、それみたことかと晩御飯のメニューに鶏レバーや小松菜、しじみに牡蠣と、栄養があるようで偏った献立にして食べさせられる羽目になった。  元々大食漢ではないから、量を減らしてもらってどうにか完食し、急き立てられるように入浴を済ませて布団に入る。  こういうときだけは、宿題のない身は良いものだと思う。  眠いというより体が重だるい方が大きくて、指先がかじかんで上手く動かない。それでも布団の中に携帯電話を持ち込み、ぽつぽつと哲朗へのメールを打った。 『昨日はゴメン。酔っ払いに絡まれて身動きが取れませんでした。よかったら話の続きをしたいです』  送信ボタンを押して、枕の下に入れてから目を閉じた。  まだ宵の口だ。今頃は何処を走っているのかなと昨夜の話に聞いた辺りを思い浮かべているうちに、眠りの海へと引きこまれていった。  振動で目が覚める。きっと眠りが浅くなっていたタイミングだったのだろう、思ったよりすっきりした意識に驚きながら携帯電話を掴むと、まだ日付は変わっていなかった。  短時間だが夢も見ないでぐっすり眠っていたらしい。  予感したとおり哲朗からのメールで、連日にこんなにすぐに反応があるのは初めてじゃないかと苦笑しながら開いた。 『後ろで声がしてたから、そんなことじゃないかと思ったよ。まあ、心配ではあったけどな。今、休憩中』  実の部屋は二階だが、両親は一階で寝ている。それもあって新汰を連れて来たことはないのだが、電話の声が聞こえるほどではないから、躊躇わずに通話ボタンを押した。 『お疲れっ』  少し弾んだ声が耳に届き、同じ言葉を返しながら実の口元は綻んだ。 「昨日はごめんな。勝手に切られるし、その後は介抱するのに忙しくて、帰るのも遅くなっちゃってさ」 『そんなのいいって。上機嫌になるタイプの人なんだなあ、あの声が相方さんなんだろ? 新さんって聞こえたけど。俺も家では飲み会とかするから解る。まあ、家飲みだと布団だけ掛けて放っときゃいいんだけどな。外で飲んでたら大変だろ』  そうそう、あれが相方、と頷いて、あれから大変だったんだよと笑い話にしてしまった。  やんわりと包み込むような声と話し方が心地良くて、布団に包まったままうっとりと目を閉じた。  哲朗は、今日走っている辺りのことをまた教えてくれる。昔も、そうやって聞いてから後で地図を見たりしているうちに、いつの間にか実も一緒に旅をしている気分になっていた。  勿論、哲朗にとっては仕事で、観光などする時間はないらしい。目的地に着いても今度は別の荷物を積んで帰路に着くか、また別の場所へと向かったりするから、サービスエリアで特産品や流行のB級グルメを食べるくらいしか楽しみはないと言う。  そういう日常が実にとっては非日常だから、いつも楽しみだった。  それでも、昨夜言い掛けたことも気になっていたから、どうやって水を向けようかと意識の片隅で考えていると、ふと空白の瞬間が生まれた。 「わったん」 『ん?』 「昨日、何か言い掛けただろ」 『ああ……うん』  その後も何故か言い澱み、そんなに言い辛い内容なのかと徐々に不安になってくる。  けれど、あの時もそうやって想定していた中で最悪のパターンに近いことを言われた。  今、最悪なのは、哲朗に嫌われることだろうと実は思っている。それ以外はどうということはない。長い間会わなくても、こうして再会してからも会話が普通に出来ている。  あの時のキスの意味が解らなくても、その後の失われた記憶もどうでも良くなるくらいに、実にとって掛け替えのない時間が戻ってきたのだから。 『やっぱ、会ってから話すな。今度の週末、大丈夫か? 久し振りに連休だから』 「ああ、そうなんだ。ええと……うん、イベントはないかな。しいて言うなら、日曜に朝市に買い出しに行くくらい」  脳内でスケジュールのチェックをする。  学校のイベントの時も借り出されるし、ガラスもある。そういう時は前日から準備で忙しいから、結構休日が潰れることが多いのだ。  月に一度の商店街の朝市は、母親から荷物持ちを厳命されている。他の商店街で開催される小規模のものにも出向くのだが、これが一番種類が多いから張り切っているのだった。 『ん。じゃあ待ち合わせしようや』  そう言われて、返事の声が弾んだ。  午前中に約束を入れるなんて初めてだった。夜だとどうしてもドライヴ自体がメインになるけれど、あちこちに立ち寄って観光めいたことをしてみようと誘われたのだ。  なんだかんだと言っているうちに、結局家の前まで哲朗が迎えに来てくれることになり、胸の奥がほっこり温かい気分で通話を終えたのだった。  推薦入試とほぼ同時期に二年生はスキー研修がある。同伴したこともあるが、別に参加する義務もないので、学校に残って通常業務をすることのほうが多い。翌月に控えている卒業式と一般入試の準備も忙しく、その後の新年度に向けての準備ときたら、本当に目が回るくらいの慌しさになる。  だからこの時期にはガラスのイベント参加は控えるようにしているので、工房に行かなくとも差し障りはない。そう実は勝手に解釈している。  それでも今までは、新汰の顔が見たいからと、ちょっと顔を出すだけでもと覗いたりしていた。控えている電話も、変ではない程度に用事を作って掛けて、声を聞いては安心したものだった。  雑務の合い間に、ふと思い出されるのは、毎日不安で堪らなくて、それでも会いたくて、声を聞きたくて、でも自分から電話するのは気が引けて、泣きたくなるくらいに胸がきゅうっと縮む感覚がするのに、前にも後ろにも進めなかった日々のこと。  乾燥する事務室で、休憩時間に職員に焙じ茶を配りながら、ふと机の上の家族写真に目が留まった。 「ああこれ、写真変えたんですよ。この間発表会があって」  実と同じ年頃の教員が、写真立てに視線を遣り、照れ笑いをしながら湯飲みを受け取った。  そこには、スーツ姿の教員夫妻と、ピンクのドレスを着た小学生らしき女の子が写っている。  三人とも、何処か誇らしげに微笑んでいて、少しぎこちないポーズが記念写真なんだなと、懐かしいような空気を漂わせていた。  初めて新汰の妻子に会ったのは、娘がまだ小学生の頃だった。  実は二十代で若く、まだ技術も拙くて、本当に新汰には手取り足取り教えを請う立場だった。 「ノルマがあって大変なんだ。協力してよ」  そう新汰に拝み倒されて、バレエの発表会のチケットを購入したのだ。  友人を誘って最初から最後まで観たが、ストーリー自体は有名なものだから判ったものの、誰が娘なのかは見分けがつかなかった。  最後にホールで花束を渡しながらようやく顔を合わせたときには妻も当然同席していて、ああ娘さんは母親似なのかなと漠然と思ったのを憶えている。  キャリアウーマンという感じの、ややきつそうなイメージの、ハキハキとした女性だった。娘の方は、もう少し柔らかかったが、それもその頃だけの話で、成長するにつれ母親と性格も似ていくような気がしたものだ。  可愛い盛りだったのに、どうしてその当時から新汰が自分を求めたのか解らなかった。  妻とはぎくしゃくしていたようだった。  しょっちゅう変わる仕事に、趣味や習い事に費やされる時間の多さ。そういったものが我慢できない性格だったのだろうと思う。  実にも解るくらいに、二人の仲は会う度に冷え込んでいくようだった。  ただ、二人ともそういった面を出来るだけ隠したかったのか、色々なメンバーでバーベキューをしたり花見に出掛けたりと、家族を交えた行事をして、どうにかして取り繕ってきたのだ。  だから、とっくの昔に夫婦の夜の営みがなくなっているのも知っていた。それだから、最低でも月に二回はホテルに誘われたし、実も誘われるままに体を開き、受け入れてきた。  二人共に同性は初めてだったけれど、色々と手探りながらも、快感を得られるように新汰も気を付けてくれたし、労わってもくれた。  だからこそ続いて来たのだ。  新汰の口にする愛の言葉が、真実なのかそうでないのか、判断がつかなくとも。  あちらの家族にすんなり受け入れられたときには、生きてきた中で一番驚いたのではないかと思う。  深くも浅くも追求は出来なかったけれど、余程妻である女性の行状が悪いのだろう。  今となれば、それを取り持とうという努力を怠った新汰にも非があるのではと考えるが、もう修復不可能なほどに亀裂が入り、たとえ同性同士でも心を許せる相手が居るのは良いとすんなり歓迎出来る位に、新汰の実家方は荒んだ感情を抱いていたのだ。  自分の席で、温くなったお茶に口を付け、失笑した。  そう、幸せだったのは、最初の数ヶ月だけ。片思いで、ただ一緒に居られる時間が大切で、傍に居ることそのものに幸福を感じていた頃。  親しくなってすぐに妻子が居るのも知ったし、だから受け入れられる筈のない感情だと信じていた。  今でも、ずっと。何度でも心の中で問い続けている。  どうして、おれを抱くの。  その好きは、どう解釈すればいいの。新さんの中で、おれは何番目に「好き」な存在なの。  一番の座が欲しかったわけじゃない。きっと日常の中で、幸せを感じられる居場所が欲しかったのだと思う。  両親や弟ではない誰かに、好きになって欲しかった。一生共に歩んでいける人に隣に居て欲しいと思った。  それは、誰かの夫である人には抱いてはいけない、期待してはいけないことなのに。  だから哲朗が結婚すると告げたとき、ああもうお終いだと思った。  これでもっと家が近かったり、何か他に接点でもあれば違っていただろう。  けれど、独身時代から滅多に会えない人だったのに、誰か一人のものになるなら、永遠に会えないと割り切るしかなかった。  その価値観が、新汰によって根底から覆されてしまったのだ。 「あんなの、書類一枚の契約でしかないよ。俺が愛しているのはみのちゃんだけ」  何度耳元で囁かれただろう。  嘘吐き。  種類が違っても、娘も妻もちゃんと愛している。  そうでなければ、食事すら用意されていない家に毎日帰ったりしない。  朝まで一緒に居たいというなけなしの我侭をさらりと躱して帰路に着いたりしない。  ヒモでしかないミュージシャン志望の男を居候させている娘の為に、禁煙までして仕送りの額を増やしたりしない。  もういい加減にしろと実に愚痴を零しながらも、ブランドものを買ってはすぐに飽きて質に流す妻を容認したりしない。  用事がなければこちらからはコールしたり出来ない実とは逆に、酔った勢いで新汰は何時でも気に掛ける様子もなく電話してきた。  深夜にうとうとしながら愚痴と文句を聞かされ、気付いたら意識を失っていて、ハッと目が覚めても新汰はそのまま喋り続けていたこともあったし、通話が切れていたこともあった。  記憶があればごめんねと後から謝られることもあったが、今回の工房での行為のように、根本的に悪いとは感じていないのだろう、何も言われないことの方が多かった。  それでも、そういったこと以上に、作品に対する褒め言葉や、軽くとはいえ口にされる睦言に励まされてきた。その後にはすぐに落ち込んでも、一時でも自分に気持ちが向くその瞬間が欲しくて、言われるまま褒められるままに共に作品を作り続けてきた。  飲み終えた湯飲みを回収し、まとめて流しで洗いながら思う。  自分は本当にガラス工芸が好きなのだろうか、と。  興味があったのは確かだった。そんな機会があるなら、是非自分の手でも作ってみたいと、その手を取った。  だが、それは新汰が居たからではなかったか。彼が好きなことだから、一緒に楽しめるから続けてきたのではないか。  はたして、一人になってでも、続けたいものなのだろうかと。  新汰からは、毎日のようにメールが入った。  大抵は工房に行くかどうかの問いだけだったが、今忙しいとの返答が続けば、家でも手付かずなのかと問われ、それにも時間が取れないとしか返さなかった。  実にとっては、自分に対する確認の期間でもあった。  確かに、全く会いたくないのかと言えば、そうではないと応じるだろう。  ただ、それは惰性ではないかと、執着や未練ではないように感じるのだ。  長年ずっと共に過ごしてきた。家族や職場の人たち以外では、ただ一人の人だった。  もしも同じ年数を哲朗と過ごしたとしても、時間数は全く異なるだろうと断言できる。  新汰が話す他愛ないことを聞きながら、二人で飲んだ日もあった。何処の誰ともよく知らないような人たちと、どんちゃん騒ぎで過ごす日も多かった。そして、回数を重ねるごとに自分の専門知識が増え、技が洗練され、それとともに集う仲間たちとも気心が知れるようになり、作家同士の横の繋がりも出来ていき、そこが実の居場所になっていった。  今、ただの高校の事務員としての吉岡実とは、一体なんだろうと思う。  自宅の作業場と決めた三畳間。帰宅してそこに佇む。腰高の小さな窓からは強い西日が差し込み、作業台の上を橙色に塗り潰している。  あっという間に黒く染まって行く部屋の中でゆっくりと首を巡らせ、何かに憑かれたように没頭して制作していた日々を思った。  近い筈なのに、遠い。  軋む椅子に腰掛けて前屈みになっている自分の幻影に目を細め、この一週間、一瞬たりともそこに座りたいと感じなかった自分の体を抱き締めた。  職場と自宅の往復の日々。一人でも楽しめるような、誰でもするようなことを少しずつ齧るだけの趣味ともいえない時間潰し。  ふわふわと、淡々と。殆どの人がそうであるように、起伏があるようでないような、そんな人生を一気に染め替えたのは新汰だった。  没頭し、生業ではないものの、それなりに名の知れるようになった専門的な世界で、気忙しくても充実した日々だった。  だったと、過去形にしても良いのだろうか。  以前のような、これといって張りのない、けれども平穏な日々に戻りたいのだろうか。  ──あの時、最初に抱き合うことを拒んでいれば。  後悔ならば数え切れないほどにした。  もう戻れない。  ただ、同じ趣味を持つ者同士として、師弟でコンビで相方で。誰にも後ろめたいところのない関係のままだったならば、或いは。  その手を取ったのは、自分。  ならばその手を離すのも、自分で決めなくてはならないだろうと、そう思いながらそっと目を閉じた。

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