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第5話

 事務でずっと腰を下ろしているのもそれなりに辛かったが、車の振動もじわじわと堪えるものなんだなと、実は実感した。  運転席では哲朗がこれから行く先の公園の話をしてくれている。  それに微笑みながら相槌を打ちつつも、一週間経っても未だに痛む傷と腰に意識が割かれてしまい、それを気取られないようにするのに懸命だった。  何か薬を付けられるものなのかも判らないから、取り敢えずと清潔にして、脱肛すればこっそり中に押し込めて誤魔化しながら過ごしてきた。  母親の気遣いのお陰か休息の成果か、貧血は改善されたものの、外傷はすぐには治らない。しかも排便すれば治りかけの部分がまた裂けては出血しての繰り返しで、少しはマシになったと感じても、完治の日は遠そうだった。  比較的振動の少ないセダンでこれなのだから、もうどうしようもない。他の乗り物ならばもっと響くのだろうなと恐ろしくなった。 「みのっち、もしかして気分悪い?」  あまり喋らない実に何か感じるところがあったのか、哲朗が心配そうに問うた。 「えっ、あ、ごめん。そんなんじゃないんだけど」  ずっと忙しかったから疲れてるのかも。そう続けると、日延べした方が良かったかなと眉を下げている。 「山道に入るから、辛くなったら言ってな。なるべく丁寧に運転してるつもりだけど」  乱暴な運転手に当たると、同じ山道でもカーブいくつかくらいで普段車酔いしない体質の人でも気分が悪くなるものだ。その点哲朗は流石にプロのドライバーだけあって、積載物に負荷が掛からないようにハンドリングもブレーキやアクセルワークも丁寧だった。 「こっちこそごめんな、折角の休日なのに気を遣わせて。ずっと楽しみにしてたんだ。わったんと一緒に居られて凄く嬉しい」  黙って耐えるより少し話しながら気を紛れさせようと気分を切り替え、入試関連のあれこれなどで笑い話にする。  一生のうちでもかなり重要な書類である筈の願書ですら書き間違いが多く、御中すら知らないやら部活動の部の字も書けないやらと生徒たちの悪戦苦闘振りを話題にすれば、哲朗は遠慮なく笑い転げてくれた。  春はこの道は桜並木なんだと言われながら最後のカーブを抜け、ただっ広い駐車場に車を停める。  残念ながら、三月末くらいにならないとどの花も見頃ではないらしく、入園料も安かった。  ただ、何処か外国のような広々とした農園の中で、放牧されている羊や馬を眺めているだけで何だか癒される気がして、歩きながらはさして会話もなかったが、実も哲朗もそれに違和感もなかった。  柵の傍にある自販機には餌が入っていて、子供向けの玩具が出てくる街中のそれのように、食べられるカップに入った牧草の圧縮したものが売られている。  近寄って来たアルパカは、くれくれ攻撃に遠慮のない羊たちに押し退けられ、平等に与えようと四苦八苦する実を後ろで眺めている哲朗の笑顔は優しかった。 「もうないって」  執拗に手の平を嘗め回され、お返しに触らせてと言いながら、そのふかふかの手触りを楽しんでいる。自然と溢れる心からの笑顔を、眩しそうにいとおしそうに目を細めて見詰めていた。 「わったん、凄いよ、全然感触が違う!」  右手と左手を肩まで柵の中まで差し込み、黒毛のアルパカと元は真っ白な筈なのに茶色く汚れた羊の背に手を載せた実は、目を見開いて振り返った。  ふわりと風をはらんだ細い髪がなびいて、瞳がきらきらと輝いて見えるのはコンタクトレンズのせいだけではないだろう。 「おう。そうらしいな」  ジーンズのポケットに指を引っ掛けて笑っている哲朗が眩しそうに自分を見ているのと視線がかち合い、流石に子供っぽかったかと実は照れ笑いで誤魔化した。  唾液まみれの両手を自販機の傍に設置された水道で洗い、消毒液をプッシュして手を揉んでから、ふうと実は息をついた。  先導することもしないで、哲朗はただ実の興味がある方へと着いてきてくれているようだ。だが、問い掛けの口調にすればすぐに返事をしてくれて、その迷いのなさから、少なくとも一度はここを訪れているのだと感じる。  年にもよるが、四月の二週目くらいが園内の桜も見頃な事など、実の住んでいる南部からは思いも付かないことだった。  誰かと来ている。それは、もしかして元の奥さんと……?  ふと、ちくりと痛んだ胸に戸惑う。  たまに会って、でもそれは夜限定の、場所にすれば殆ど車の中だけと言って過言ではない付き合いだった。  それ以前の哲朗も、それ以降の哲朗も知らない。  仕事のことならばあれこれと話してくれる哲朗も、自分のプライベートの事は口に上らせることは少なかった。  ただ、それは実もそうだった。家族構成すら言っていないかもしれない。遊び仲間なんて、その場のノリさえ合えばそれで良い。ましてや一番気力体力充実していた二十代の頃の夜の遊び仲間の内の一人。  結局、年を重ねた今も、その延長でしかないのかもしれない。  ふと寂寥感に包まれて動きを止めた実を、身を屈めて哲朗が覗き込んだ。 「疲れたか?」 「あ、えーと、お腹空いたかも」  咄嗟に誤魔化して腕時計を見ると、正午をとっくに回っていた。  まだ全体を歩いたわけでもないのにやたらと時間が過ぎていて、自分が動物と戯れているのを眺めているだけの哲朗はつまらなくなかったろうかと、申し訳なく見上げる。 「じゃあピザ食べに行こう。また登ることになるけど、石焼の食べられるんだ」  柵沿いにぐるりと回って、また別の坂道を登るのだと説明されて、少しだけ弱気になりそうになる。  暫くはずっと上り坂で、げんなりした表情が出てしまったのか、すっと哲朗が手を伸ばした。 「引っ張ってってやろうか」  え、と固まっていると、そのまま左手を引いてゆっくりと歩き始め、釣られて足を踏み出す実の歩調を確認するように振り返りながら、哲朗は穏やかな笑顔のまま歩いている。 「わったん、ええと、子供じゃないんだから恥ずかしいよ」 「動物しか見てねえよ」  ぐるりと見渡す限りの牧場で、動いているのは確かに草食動物ばかり。  学校が休みの日なら親子連れで賑わうここも、冬場には閑散としているというのが身に沁みて感じられた。  改善されているとはいえ実の手は哲朗より体温が低く、すっぽりとその中に包み込むように握り締めて少し前を歩く背中は広い。  そこに抱きついて頬を寄せたいという衝動に、自分でも驚いた。  弱っているのだと、自分に言い聞かせる。  十年前、哲朗ともう会えないと確信した時、入れ替わるようにすんなり入り込んできたのは新汰だった。  まめにメールや電話をくれる。一週間と空けず、顔を合わせる機会を作ってくれる。  そして何より、志を同じくしてからの親密度は、一般的な社会人カップルより高かったのだと思う。  そんなにぴったりと寄り添い合っていた人が居ないのだ。少し寂しかったり物足りなかったりするのは当然だろう。  温もりが欲しくて、もう長いこと異性ではなくその相手を同性に求めてきた実にとって、哲朗はとても魅力的な対象であるとも自覚していた。  大学生の時に付き合っていた女性と、漠然とでも結婚を考えていなかったわけじゃない。けれど、実が家庭の事情を話したとき、あっさりと彼女は離れて行った。  それに対して落ち込むこともなく、ただ、そんなものかと納得した自分も、本当の意味で恋愛をしていたわけではなかったのだと思う。  ましてや、見合いから結婚寸前まで行き破談になった相手ならば尚更だった。悔しかったというだけで、殊更ショックを受けたわけでもない。  あっという間に日常が戻ってきたのだった。 「もうちょっと頑張って」  手を引かれているうちに、動物の居るエリアを抜けて、レンガ造りの町並みに入り、開けた場所にある丸太作りのテーブルセットに誘われた。  座って待っててと言われて素直に腰を下ろす。哲朗はそのままその中の一軒の大きな竈がある建物に行き、何やら注文をして支払ってから戻って来た。  半分出すからと慌てて財布に手を伸ばすのを、笑って退けられる。  うーと唸りながら仕方なく辺りを見回すと、飲み物を売っているらしき建物がすぐ近くにあり、じゃあ代わりに何か買わせてと言い置いて、返事も待たずに向かった。  旬に採れたての果物を凍らせていたものをジュースにしているらしく、少し寒いかもと思いながらも、メニューにある珈琲などは無視してそれらを頼んだ。  テーブルに戻ると、向かいだと少し遠いと言われて隣に腰掛ける。  なんだか落ち着かなくて、白桃と葡萄のミックスどっちがいいかと尋ねれば、じゃあ両方少しずつと言われて戸惑った。  透明なプラスチック容器に入ったジュースを握り締めていた手はまた冷たくなっていて、ごく自然な動作で哲朗がその手を取ってそれぞれに握り込むのを呆然と眺めていた。 「冷え冷え。凍っちまうよ。ホットにすればよかったのに」  振りほどく気にもなれないが、この動作の意味はなんなのだろうと戸惑う。 「あ……やっぱり特産品がいいかなって。あと、ピザが熱いだろうから、冷たくて丁度いいかな、とか」 「はは、確かに。そういう意見もあるか」  やんわりと包み込むように手の平同士を合わせ、指を絡められると、実の心臓は跳ねて飛び出しそうになった。 「焼くのはもうちょっと掛かるかな」  いつもと変わらないように喋っているのに、運転しながらでは有り得なかった行為をされている。  もしかして、友達なら誰でもこういうことをするものなのだろうか。  確かに、男同士なら、もっとべったりとひっつくこともある。だけど、手はどうだろう。  百歩譲って、先程のように繋いで歩くことはあっても、流石にこんな風に温めたりはしないんじゃないだろうかと、ぐるぐる考えながら、視線は哲朗の笑顔と両手を彷徨った。  背後で、ピッツァ二枚お待ちの方、と呼ばわれ、あっさりと哲朗の手は離れて行く。反射的に握って引き止めようとしてしまい、慌てて手を開いて、哲朗が腰を上げるのを見送った。  新鮮な野菜が山盛りになったクラフトタイプの石窯ピザを食べながら、時折交換してジュースを飲む。  焼きたてのピザは火傷しそうなほどに熱く、やはり冷たい飲み物で正解だったと胸を張れば、哲朗は「先見の明だな」と畏まって頷くから実の方が恐縮して冷や汗が出そうになった。それを見た哲朗と顔を見合わせて同時に噴き出し、最初から冗談のつもりだったのか判らないままに、それでも嫌な空気ではなかったのが不思議だった。  こういうとき新汰ならば、とことんまで追い詰めて本当に実が泣きかけるまで楽しんでから、ごめんねえと笑うのだ。  それで許してしまう実も大概なのだが、被虐趣味があるわけではないから、少しずつ心の奥底に澱のように不満が溜まって行った。  傍から見ると、哲朗と実はボケ同士で突っ込み不在というやつなのだろう。  にっこり笑ってぽわんと見詰め合っている姿は幸せそうで、それはこの農業公園には似つかわしい姿ではあった。  食べ終えてから、建物の途切れている煉瓦塀の向こう側にあるベンチに場所を移し、眼下の斜面にある葡萄園と更にその下にある芝生と花壇を俯瞰する。  今は枯れ木のようなあれはなんという種類で、と横からしてくれる説明を聞きながら、ここから飛べたら気持ちいいだろうなと考えていた。  登山をした時にも一度ならず考えることだった。 「高いところって気分いいな」  うっとりと目を細めている実を見て、哲朗はその腰に腕を回した。 「わったん?」  これは友人同士がこのシチューエーションでする行為ではないと、流石に実にも判った。  強くはないが、それでも巻き付けられた腕の長さに逃げ場はない。  戸惑いながら視線を移すと、同じように目を細めていた哲朗も顔を向けた。 「農業体験ってあるだろ」  しかつめらしく切り出されて、予想していたどの言葉とも異なっていたのに目を見開き、黙って実は頷いた。  普段そういったことに縁のない街中の人に、田畑や山などを開放して一日だけ楽しめるツアーがあるのは知っている。そういった類いのものかと脳裏を過ぎったのだが。 「もう数年前から、俺らの周りもそういう方向に進んでるんだ。ちょっと前なら定年後にのんびりした田舎暮らしを希望する夫婦くらいしか新しい居住者は見込めなかったけど、不況で会社勤めより自分で物作りをする若い連中が増えてきてる。そういう人たちに格安で家を提供して、町や県も支援して居ついてもらう方向へと変わってきてるんだ。  もう、昔みたいに血縁者が跡を継いで農地を守っていくご時世じゃない」 「それは、新聞やテレビでもたまにやってるね」  そっと頷き、跡継ぎがなくてどんどん過疎化している北部の集落を想像した。  ただ、やはり想像よりきつい日常にあっさりと音を上げて戻って行く人も多いようで、最初の一年が越せるか、この辺りのサポートをする為に地元も役所も知恵を絞って、その地方により色々と策を弄しているらしい。 「みのっちは興味ないか? 街生まれだから、たまに来て息抜きするくらいの方がいい?」  真摯に見詰められたまま、ほて、と実は首を傾けた。 「自然は好きだよ。なんか落ち着くし……」 「俺んち、ヤギと合鴨もいるよ」 「えっ、ほんとに」 「ヤギは雑草食べてくれるし、合鴨も田んぼに放すんだけどな。まあ、ペットじゃないわな。可愛いのは可愛いけど」  苦笑する哲朗を見上げたまま、その真意を探ろうとした。  これはもしかして実のことも転職を促しているのだろうかと。  そういえば、哲朗には自分の家のことは話していないのだったと思い出す。 「興味なら、あるよ。田植えや稲刈りも一通り手作業でやったことあるし、小さいけど庭に菜園もあるし」  慎重に言葉を選ぶ。 「だけど、定住となれば、両親と離れることになるから」  今の住まいを維持して欲しいと頼まれていること、そして自分に必要な以外の給与は家に入れてもいることを淡々と説明した。  年金だけでも二人は生活できるだろうが、実の手取りでは自分一人で生活する方が苦しい。  今まで存分に趣味に費やすことが出来たのは、実家暮らしだからというのもある。  それを今更、二人を置いて遠方で職種変更など出来る筈もなかった。  そうか、と哲朗は僅かに目を伏せて、それからもう一度遠くへと視線を飛ばせた。 「そうだよな。自分一人のことじゃないもんな」  小さく呟いた声が風に散らされて、岩が点在する斜面に落ちて行った。 「わったんは、ずっと長距離でやっていくの」  のんびりと、タイルで舗装された広い歩道を下りながら、何気なく実は問い掛けた。両手には土産と自分用に購入した大小さまざまな石窯パンの入った紙袋を抱えている。焼き立てでほかほかと熱いくらいだった。  そうだなあ、と哲朗も同じくらい買い込んだ袋を持って首を傾げた。 「出来るだけ続けたいよ。俺も殆どは家に入れてるし。まあ貯金もしておかないと、一次産業はいつ何が起こるか判らないからなあ」  仕事は減ることはあれど、真っ当な会社ならば急に解雇されたりはしない。それに比べて、天候や自然災害に左右される産業は、年によって収入にバラつきがある。それを支えるために、長男なのにずっと会社員でやっているのだった。  あとは、両親が働けなくなった時が転機だろう。とっくに定年退職している実の父親とは全く家庭環境が異なるのだった。 「俺の家も」  と、哲朗が切り出した。 「少しずつ農地を開放してて、というか、貸し出しになるのかな。税金分にちょっと上乗せするくらいで人に貸しててさ。共同農園みたいになってるから、まあ、気が向いたらいつでも参加してみてよ。俺も手伝うし、ずっとじゃなくて、期間限定でもいいし」  哲朗の家には、実はまだ行ったことがない。  農園にも興味が湧いたが、哲朗が育った集落も見てみたいと思った。 「うん。出来るといいな」  前を向いたまま声に出してみると、本当にやりたくなって来るから面白いものだ。  これも言霊だろうか。 「やってみたいかも」  その前に、クリアせねばならないハードルは高い。だから現実的ではないとしても、胸の中で思いを馳せるくらいならば許してもらえないかと、心の中で両親に謝った。

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