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第6話
大量のパンを後部座席に置いて、哲朗はまだ北部を目指しているようだった。
流れの強い川を左手にずっと山間を進み、ダムが近くなってくる。
ここまでくれば実でも判った。砂湯で有名な温泉場だった。
「うっわ、昼間に来たの初めて」
川沿いの駐車場から、哲朗の持参したタオルを手に持ち歩く。
随分長いこと来ていないが、以前は深夜に別の友人たちとわいわいと浸かったし、夏場だったので雰囲気が全く異なっていた。
屋根とロッカーだけの簡素な脱衣所で腰にタオル一枚になると、哲朗との体格差に実は居た堪れない思いがした。
粉雪がちらつき人気は少ないが、無人ではない。美人の湯には女性客も居て、自分が哲朗のようにがっしりと男らしい容姿だったらなと羨ましく思いながら、足元に気を付けて長寿の湯に向かった。
他の湯は、冬場には少し温く感じるからと、哲朗の勧めだった。
半分くらいは屋根が掛かっているが、そちらにはご近所さんらしき年配の方々が集っていたので、遠慮して屋根のない部分に浸かる。
「柚子湯の日なら良かったのになあ」
灰色の空を見上げて、石の上に頭と肘を預けた哲朗が言った。
「ああ、そういうイベントもあるね」
真似をして実も空を見る。歩きながらつい目にしてしまった。引き締まった筋肉の付いた背中に疼きそうになった体の奥を鎮めようとした。
農業公園に居た時は青空が広がっていたのに、あれはたまたまだったのかと思うくらいに、今は冬枯れの木立に囲まれた空はどんよりと薄暗い。
日の入りまではまだ随分あるはずだけれど、まあ冬だからこんなものかと思いながら、弛緩していく体を心地良く岩に預けて目を閉じた。
ひんやりと冷たい物が額と瞼に掛かり、なんだかゆらゆらふわふわするなと思いながら、そうっと目を開けた。
自宅と良く似た木目の天井が視界いっぱいに映り、それに目を瞠って横を見ると、浴衣姿で畳の上に胡坐をかいた哲朗が、障子を開けて窓の外を眺めている背中があった。
実自身も明らかに旅館のものと判る浴衣を着て、布団に寝かされていた。
全く記憶にないが、大方湯あたりして意識を失ったのだろう。恥ずかしくてもぞもぞと掛け布団を引き上げようとすると、額に載せられていた手拭いが滑り落ちてしまった。
その気配に、ハッと哲朗が振り向いた。
「具合はどうだ?」
足を解いてにじり寄って来る。肌蹴た合わせから厚い胸板が垣間見えて、途端に実は真っ赤になって掛け布団で顔を隠した。
「みのっち」
不思議そうに、けれど心配そうに布団の上から腕を撫でられて、「ごめん」と取り敢えず謝った。
「温泉が体にいいかと思ったんだけど、逆になっちまって悪かった。水分摂った方がいいから顔出して」
上を向いたまま意識飛ばしたなんて、きっと口も開けっ放しで無様な様子だったろう。そう想像しただけでもう雪のように解けて消えられたらいいのにと全身が火照るのだが、哲朗の言うことも尤もだから、実はそろりと布団を下ろした。
意外に間近にあった哲朗の顔に驚いていると、顎を掴まれて少し斜めに向かされ、更に顔が近付いてくる。
あっと思ったときには、僅かに開いた唇を覆うように口を塞がれ、そこから生温いものが注ぎ込まれた。
「んぅ……っ」
離れた隙に嚥下すると、再び捕まり繰り返される。三度目には手も唇も離れていかず、そのまま柔らかいものが口内へと差し込まれた。
順に歯列を確かめ、歯茎も頬肉も全て辿られ、上顎を特に入念に探られて身悶えした。
次第に距離を詰めていた体が斜めから押さえ込むように実の上にあり、布団を剥いで合わせから手の平が侵入する。
これは一体どういうことかと、錯乱する頭とは裏腹に体は熱を帯びていく。
実は、まだ一度も自分の気持ちを口にしていない。まして、哲朗の心中など知る由もない。
ただ、十年前に別れを告げたあの日に、触れ合わせるだけの口付けをした。その意味すら問わず、知らされないままに今日まで来てしまった。
きつく舌を絡めて吸われ、期待に体の奥は疼き、蠢き始めている。そして思い出す。今自分は、到底受け入れられるような状態ではないことを。
そして、もしも今のその場所の状態を知った時、哲朗がどんな反応をするのかと、それも気掛かりで、そうして嫌われて哲朗を失うかもしれない可能性に気付いた時、瞬間に体は強張り、熱が冷めて行った。
「わったん、ごめん、許して……」
全力で胸を押し退けようとする実に、哲朗は狼狽しながらも従った。
「ごめん、ありがとう。でも、無理なんだ……」
涙を滲ませ、腕で顔を覆う。キスには応えたのに何故と視線で問いながら、言葉と手に拒絶されて、それでも哲朗はぎこちなく微笑んだ。
「俺の方こそ、ごめん。ちょっと頭冷やしてくる。ここ、たまたま空いてて一泊取れたから、家に連絡しとけばいいよ」
浴衣を直して丹前を羽織ると、そのまま哲朗は部屋の外へと出て行ってしまった。
一人になると、途端にごうごうという大きな音が気になり、布団から出ると、実は哲朗がしていたように窓の外を見た。
宙に張り出したような物見台めいた木枠の向こうに、白くしぶきを上げて唸りながら落ちていく滝が目に入って来た。川沿いの崖にある旅館なのかと合点が行き、暫く見惚れてから、言われたとおりに家に電話をした。
何処へ行ったのか、哲朗はまだ帰って来ない。
先刻の手の平の感触が残る胸元を直し、火照りが去って冷えてきた肩を震わせて、実も丹前を羽織った。
ああ、哲朗はどんな風に受け取ったろうかと、それだけが気掛かりだった。
長テーブルの上に置いて行ってくれたペットボトルの水を飲み、項垂れて頭を掻き毟った。
こんな体でさえなければ、そのまま流されていた。自分から欲しいと思うほどに、どんな意味であれ、今でも実は哲朗のことが好きなのだ。
けれども、哲朗の気持ちは解らない。
ただ水を飲ませようとして、ちょっとふざけ半分で深いキスをして、そのまま体に触れてきただけなのではないか。
拒まなくても、あのままでもそういえばこれは男の体だったと思い出して、さっさと行為を止めていたのではないか。
大袈裟に拒んだ実に引いて、つまらないやつだとがっかりしているのではないか。
益体もなくぐるぐると案じ続け、答えの出ない問答に疲れてテーブルに突っ伏したのだった。
優しく肩を揺すられて、意識が浮上する。どうやらまた眠ってしまっていたようで、心配そうな顔の仲居が実の隣に膝を突いていた。
「大丈夫ですか? 何度か入り口からお呼びしたんですが」
見ると、すっかり日が落ちて薄暗い室内には仲居が点けたらしい上がり框の橙色の灯りが差し込んでいた。
すみませんと謝ると、電気を点けてもよろしいですかと問われ、頷いた。
途端に乳白色に染まる室内には、変わらず哲朗の姿はない。
「そろそろお食事の時間なんですが」
不安そうに、運んでもよろしいかと顔を見詰められ、お願いしますと頷いた。
一旦下がって行くのを見守りながら、携帯電話を手に取りコールする。
『はい』
「わったん、食事が来るみたいなんだけど……今どこ?」
ちゃんと応えがあり、ひとまず安堵する。
すぐ帰ると、ぷつんと切れてしまった電話機を手の中で暫く弄んでから、のろのろと畳んだコートの上に置いた。
何かが判断できるほどの会話ではなかったけれど、声が硬かったように思う。
どういう風に思われているか俄かに不安が押し寄せ、実は居ても立っても居られなくて、館内用のスリッパを引っ掛けて通路に飛び出した。
長細い通路を見回すと、丁度階段らしき場所から現れた哲朗と視線がぶつかった。
一瞬足を止めかけ、それからまた近付いてくる顔には強張った笑みがあり、部屋の前まで来た時に思わず実が掴んでしまった腕は、冷え切っていた。
この格好のまま、本当に屋外に出ていたのかもしれない。
「わったん、風邪ひいちゃうよ。なんてことするのさ」
「だーい丈夫。俺、頑丈だから」
はは、と笑いながら、くしゃりと実の髪をかき混ぜて部屋へと入って行く。
その後を追うように仲居が二人分の膳を積み上げてやって来て、そのまま会話もなくテーブルに着くことになった。
全部いっぺんでいいと断っていたらしく、次々と料理を並べて、それぞれの鍋に火を点けてから、仲居は下がって行った。
熱燗とビール瓶が置いてあり、手酌しようとする哲朗を押し留めて、実が麦酒を注いだ。
お返し、と注ぎ返してくれる俯いた横顔を見ながら、「わったん」と声を掛ける。
もう、この際哲朗にどう思われてもいいと思った。
帰ってきた哲朗がいつも通りだったなら、或いは。今までのように、友人として続けていけばと思っていた。
けれど、哲朗は明らかに落ち込んでいるというか、寂しそうに見える。もしかしたら、明日が最後になるかもしれない。今度こそ本当の別れが来るのかもしれない。
そう考え、それならばせめて、自分の気持ちだけでも伝えた方が、悔いはないのではないかと思ったのだ。
勇気、出さなくちゃ。
ごくりと唾を飲み、不安を湛えて揺れる瞳で自分を待っている哲朗を見たまま、テーブルにグラスを戻した。
「さっきのキスとか、嬉しかった。本当なら、あのままわったんの腕の中にいたかったよ。でも、もうちょっと待ってくれないかな。今、はまだちょっと、具合悪くて……」
余程予想外だったのか、哲朗は目を瞠って震える指先でグラスを置いた。
「みのる……?」
「ひかれるかもしれないけど、それが当然だと思うけど、俺、昔も今も、わったんが好きなんだ」
「みの……」
「好き、なんだよ」
言った、と思った。最後にキュッと唇を引き絞り、逸らさずにずっと合わせていた哲朗の目が、ゆっくりと、嬉しそうに細まっていくのを見詰めていた。
「──れも」
掠れた声が漏れ、それからもう一度、哲朗は言い直した。
「俺も、好きだ」
まっすぐに実を見詰めたままふわりと笑う。
それでも、実は念を押した。
「わったん、解ってる? 友達の好きじゃなくて、おれは」
「ああ、解ってるさ。ああいう風なことをしたいって意味で、好きなんだから」
ああ、なんて嬉しそうに、幸せそうに微笑むんだろう。角ばった顎が緩み、大きな口を広げすぎないようにと、哲朗は苦心しているようだった。
「良かった……訊けなかったから。今、好きなやついるのとか、恋人いるのかとか。ここまで運ぶ時には、それより緊張とか焦りの方が大きかったから我慢できたけど、意識戻ったらもう駄目で。
いきなり何も言わずに手ぇ出したのマズかったなって。庭歩きながらずっと後悔してたんだ」
自分を担ぐか抱くかしてここまで連れて来てくれた哲朗の姿を想像し、実はくすりと笑み零した。
「おれもぐるぐる考えてた。わったんは何かの勢いとか、冗談でちょっとうっかりしちゃっただけで、あんなに真剣に拒んで引かれちゃったんじゃないかとか」
え、と不思議そうにされて、口を開きかけるのを手で制する。
「うん、落ち着いて考えたらさ、わったんがそんなことふざけてする筈ないんだもんな。今ならそう思うよ。
だけど、このまま嫌われて、面倒なヤツって、もう友達ですらなくなったらどうしようって……。
そうしたら、それならもう、ちゃんと正直に言おうと思ったんだ。それで駄目ならしょうがない。だけど言わずにこの先一生引き摺り続けるのは嫌だって」
そっか、と呟く哲朗の口元は、やはり緩みっぱなしだった。
「やべ、ホント泣きそう。まさか実にそんな言葉もらえるなんて思ってなくて」
日焼けのとれない男らしい顔付きを歪ませて声を詰まらせ、哲朗はもう一度グラスを持ち直した。
「乾杯、しよう。両想い記念日な」
「するっ」
急いで実もグラスを持ち、すっかり水滴も落ちて温くなった麦酒をカチンと合わせて飲み干した。
喉越しも味わいも何もあったものではない。
けれど、二人にとって、人生で一番思い出に残る一杯になる筈だった。
その後はどちらからともなく膳に向き直り、酒を注ぎあいながらの歓談と食事を楽しんだ。
実が意識を失った時、近くに居た年配の人たちがこの宿を確保してくれたこと。ざっと水気だけ取り、そのままコートでくるんで荷物と一緒に宿場を駆け抜けて注目の的だったことなど、哲朗は笑いながら話した。
今更ながらに恥ずかしくて、その人たちにも明日礼を言った方がと思案していると、いいって、と止められる。
世話を焼きたいもんなんだよ、と。もしも偶々道で会うことがあれば教えるけど、わざわざ探し出すほどのことではないと。
年配者との付き合い方は哲朗の方が心得ているだろうから、そんなものかと頷く。
あまり仰々しくしないで、顔を合わせる機会があれば礼を言うくらいで丁度良いらしい。
「まあ、近所付き合いとはまた違う感じだな」
旅というのとはちょっと違うけれど、あちこち行っている哲朗は、そんな感じで一期一会を楽しんでいるようだ。
「いつも話を聞きながらさ、おれも一緒に色んなとこに行った気になって、地図見たりしてたんだ。邪魔じゃなければ、いつか隣に乗せてもらうことも出来るのかな」
ふと、そう漏らしたら、哲朗は一瞬ぽかんとしてから勢い良く頷いた。
「いいよ、行こう! わっ、やべえ……今からめっちゃ楽しみなんだけど。どっち方面がいいとかあるか」
耳だけ赤くしてあれこれと地名を挙げていく様子が微笑ましくて。まさか自分のほんの思いつきのような我侭でそんな風に言ってくれるとは思わなかったから、実は「いつかのことだから」と念を押すのに懸命になってしまった。
機会があるとすれば、夏。
部活動で華々しい活躍があれば応援の件でバスや宿の手配が忙しくなるが、進学校ではないので授業自体はない。その間になら休暇も取り易いから、実現するとしたらその頃だろう。
そう胸の内で算用しながらも、ぬか喜びになってはいけないからと、口には出さない。
それでも、いつ以来かというくらいに胸の中がほっこりと温もり、膳を下げてもらってからも、二人でぽつぽつと他愛ない会話を続け、いつの間にか寄り添うようにして寝入ってしまったのだった。
目覚めた時に、隣に誰かが寝ているというのも新鮮だった。
少し間が空いていた筈なのに、いつの間にか腰に腕を回されて、くっ付きそうなくらいの位置に顔がある。
裸眼の実だと、それくらい接近してようやくそれぞれのパーツがきちんと見えるのだが、それはそれで気恥ずかしい。
ぼんやりとした世界だから耐えたり受け流したり出来ていたことも、くっきりだと勝手が違う。
唇が、ちょっとかさついているな、とか。
髭が伸びかけていて、でも思っていたより濃くないな、とか。
変なところに目が行ってしまって、慌てて少し下げれば、太くてしっかりした喉仏から鎖骨やら、それから胸筋やらが目に付いて、かあっと顔が火照る。
それと、肝心な部分も、密着しているだけに隠しようがない。
ふうっと、哲朗が細く息を吐いて瞼が上がる。
「おはよ」
「おっ、おはよ」
至近距離の声が空気を震わせて、直接触れられているわけではない耳を愛撫されているかのように腰がむずむずする。
身じろぎする実を逃がさないように、哲朗は下半身を足で押さえた。
「わ、わったん、あの……っ」
「なに」
今度こそ本当に唇を寄せて耳の外郭を順に食まれ、実は甘い声を上げて体をくねらせた。
互いの中心がすっかり勃ち上がっているのが判る。更に腰を押し付けられて、切ない吐息が哲朗の首筋をくすぐった。
あー……と唸りぎゅうぎゅうと抱き締める哲朗に、実は酸素不足になりそうだった。
「くるし、よ」
「悪いっ……あー、駄目だ我慢の限界」
腕は緩めたものの、ぐりぐりと頭を押し付ける哲朗に、実の方こそごめんねと謝りたかった。
本当に、実だとて素直に体を任せたくて仕方ないのだから。
「あ、あのさ、良かったら、一緒に抜かない」
え、と哲朗の動きが止まり、恥ずかしくなってきたものの、別に挿入さえしなければ、他のことならなんだってしたかったから、そのままそっと浴衣を肌蹴させて下着の上から哲朗のものを擦った。
「一緒に、いこ」
ぽそりと追加で呟くと、恐る恐る哲朗の手が伸びて、実の前を完全に広げて下着をずらした。
直に触れる指先の温もりに、既に臨戦態勢だったものは雫を零した。
同じように実からも直接触れて、互いにゆるゆると手を動かし始めるともう駄目だった。
速くなる呼吸にどちらからともなく舌を伸ばし口から中を探り合い、あっという間に高まっていく。
──次に会う時、きっと。
声に出さないままに、同じ事を思いながら、気が遠くなるくらいに長く待ち続けていた欲望を吐き出したのだった。
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