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第7話
「友達とお出掛けだったの」
哲朗の車が去って行くのを見送った実が、きっちり閉まったままの木の門を開けようと道路に背を向けたとき、聞き慣れた声がした。
まさかと愕然とする。
建て付けが悪くなっていて体重を掛けねばなかなか横に滑らない扉はそのままに、振り向いて横断歩道の向こうの新汰を見た。
車一台がようやく通れるだけの道幅だから、通学路でなければそんなラインはないだろうというくらいに幅がない。
契約駐車場として貸し出している吉岡家の敷地には実と父親の駐車スペースもあり、そこから姿を現したのだった。
手が震えて、実は胸に抱えた紙袋の底をしっかりと支え直した。新汰は、常に湛えている人好きのする笑顔のまま、ジャケットの下のウールのパンツのポケットに手を入れて、そのまま近寄っては来ない。
「新さん、何か用なの」
おずおずと話し掛けると、おやおやと大仰に肩を竦められた。
「忙しい忙しいって言うから試しに出向いてみれば、友達と出掛ける時間は取れてるんじゃないか。だったら今からでも工房に行けるでしょ。新しいの作ったから、確認して欲しいんだよねえ」
どう、とまっすぐに見つめられ、実は戸惑った。
趣味の延長なのだから、いつ行こうと制作を休もうと文句を言われる筋合いのものではない。けれど、仮にもコンビを組んで何年もやってきたのだ。出来について意見を述べるくらいは、すべきではないのかと。
「作る時間なくても、見るだけならいいだろ。それに、もしかしてこのまま辞めたりするつもりならさ……俺以外にも筋通さなきゃいけないんじゃないの」
半分笑みを浮かべたまま、新汰はやや怒りを込めた眼差しで実を射抜いた。
そう言われてしまうと、実は何も反論できない。工房と炉を開放してくれているオーナーには不義理をしてはならない。
気持ちがはっきりすれば、いずれは話しに行くつもりではあった。
だが、実自身は未だガラスに対する自分の気持ちがはっきりせず、もう少し考える時間が欲しいというのも本音だったのだ。
その隙を衝いて正論で誘われると、さして時間の掛かることでもないだけに断りにくい。
ここから工房へは徒歩でも行けるが、新汰は車で一時間近く掛かる自宅から出向いているのだ。
「分かった。見るだけでいいなら。先に行ってて」
荷物を置いてくると言うと、「待ってる」と言われ、諦めにも似た吐息と共に、実はがたがたと門扉を開けたのだった。
歩きながらの会話は、以前にも増して一方的だった。今日は何をしていたのかとも訊かれたが、実が場所だけ告げると、あああそこいいよねと、勝手に自分の体験談を話し始める。
いつも通りと言ってしまえばそれまでだが、以前より苦痛に感じるのは、実が新汰に抱いている感情が変わってしまったからなのだろうか。
新汰のことなら何でも知りたかった。狭い世界から連れ出し、これからも前へ前へと進もうとする姿勢が、志が誇らしくて、そんな人の隣を歩める幸福に浸っていられた。
それが、今となっては、耳障りなだけの雑音にしかならない。
道幅が二メートルもないような路地を進みながら、ただ実は相槌だけを打ち、いつも通り裏の勝手口から工房に付いて入った。
日曜だから誰かいるかと思っていたら、併設している店舗で体験教室があり、弟子も手伝いで出払っているらしい。以前はそんな時には呼ばれていたものだが、二人での活動が認められるに従い、独立したように扱われていったのだ。
工房の壁にある簡素な棚には、数点作品が増えているようだった。それを手に取り眺めていると、引き出しから取り出したものを手に新汰が寄ってくる。
小物を作るなんて珍しいなと、酒器を棚に戻して両手を差し出すと、そのまま手首を取られ、背中に捻り上げられ床に転ばされた。
体重を掛けて押さえ込まれ、打ちっ放しのコンクリに顔を押しつけられ呻いているうちに紐で括られる。
「し、んさ」
何故と、捻った首を持ち上げて目で問う。
先刻までのよそ行きの表情が消え、大きく開いた目に暗い炎を燃え盛らせた新汰と、視線が合った。くっ、と歪む口元は、愉悦を湛えている。
「言ったよね、新作。確かめてって」
「言った、けど。こんな」
乱暴に縛り上げられ、もう恐怖しか感じられない。つい一週間前の暴行が蘇り、体が震え始める。
体を返され、新汰がベルトを緩めて自分の着衣を解いて行くのを為すすべもなく見守った。かろうじて動いた足先をバタ付かせても、下着を取られた後で折り曲げられ、太股と足首を纏めるように捕縛され、信じられないと唇が戦慄いた。
縛る間傍の棚に置いてあった物を手に取り直し、実の目の前に持って来る。指三本で掲げられたそれは、落款のように見える。しかし……。
「石じゃ、ない」
訝しげに、実は注視した。
二人共用の名前をデザインしたそれは、通常彫刻に使われるどの石でもなく、鉄の固まりだった。無骨で、人目には晒せないような簡素なもの。
「そう、彫刻用の石は脆いからね。用途に適さない」
にやりと見せつけるように笑い、その固まりを火箸で掴み炉の中に差し込む新汰を見て、実の顔や腋から脂汗が出た。
「まさか……やめてよ、新さん」
体を捩ってどうにか紐を緩められないかともがいても時既に遅く、更に食い込み手首の皮は擦れて剥がれていく。
分厚い革とシリコンの手袋を重ねづけした新汰がそれを手に実の足を開く。
「流石にね、日常で目に付くところは困るでしょ。俺ってそういうとこちゃんと配慮してるからさ、俺以外には見えないところにしてあげるからさあ」
実は懸命に首を振り続けた。
「や、いやだ、新さんっ、やめてよ」
股間の物は恐怖に竦みあがり、最早首から上しか動かせる箇所がない。
「ふふふ、俺から離れられるはず、ないよなあ。何年掛けてここまで育てたと思ってんの。何処にも行かせないよ」
ゆるりと内股を撫でる手は優しく、「動かないで」と笑顔で念を押す。
ずれたら広がっちゃうかも。
その言葉の意味が脳に届くより早く、ジュッと肌から水分が逃げていった。
「っ」
悲鳴を上げようと開いた口にタオルを噛まされ、タンパク質の焦げる独特の臭いが充満するのを、必死に耐えた。
熱い、痛い、熱い。
袋の脇ぎりぎりの内股は、表皮の中ではもっとも柔く敏感な場所ではないだろうか。
今その部分に、くっきりと新汰の印が焼き付けられ、熱源が離れても、更にひきつるような痛みがそこから全身を苛む。
そのまま内股を眺める新汰の表情は恍惚としており、自分の作業に陶酔しているようだった。
実は瞼を閉じて、静かに涙を流した。
こんな新汰は、初めて見た。勿論、元からこのような倒錯的な性格ではなかったろうと思う。
きっかけはなんだ。自分なのかと。
気持ちがどんどん冷えて離れていった妻とは縁が切れないくせに、それでも実のことも離したくないのだ。
「あ、そうだった。記念写真撮っとかないと」
いそいそと手袋を外す新汰を、滲む世界で見守りながら次なる戦慄に襲われたとき、勝手口が開き、外気が進入してきた。
「おい、なんだこの臭いは」
オーナーの神楽の声に、出来るものなら何かで全身を覆いたくて、少しでも恥ずかしい箇所を隠そうと実は下半身を捩った。
新汰にも予想外の出来事だったのか、慌てた様子を見せているが、もう工房に足を踏み入れている神楽には何も隠せない。
驚愕に彩られていた神楽の顔が、縛られた実を見て複雑に歪み、それから新汰を憤怒の表情で睨みつけた。
「この、愚か者が」
デニム地の作務衣に手拭いを首に巻いた総髪の神楽は、ぐ、と唇を引き絞り 、すぐに解くようにと指示して、和室の脇にある冷蔵庫から氷を取り出し、手拭いでくるんで持ってきた。
ようやく自由になった両手にそれを渡され、そろりと傷の上に載せた。ズキズキが少し和らぎ、周囲の肌の熱も取れて気持ちよい。
「新汰。また改めて話す。今日はもう帰れ」
顎で勝手口を示され、不承不承ながらも工房を後にする新汰の背がドアの向こうへと消えたとき、知らず実は大きく息を吐いていた。
露わのままの下半身を隠そうとする実に服を渡し、神楽はコンクリに膝を突いた。
「もしかして、最近あまり顔を見せなくなったのはあいつのせいか」
二人の事情は誰にも言えず、実は肯定も否定もせずに、ぎゅうっと手拭いを握りしめた。
溶け始めた氷から、涙のように水が滴り腿を伝い落ちていく。
「続けたいなら、あいつを出入り禁止にするが」
そう言われて、がばっと顔を上げて首を振った。
「いえ、新さんは、続けるべき人です。おれがいなければ……あの人の才能を潰したくない。元々、おれが割り込んだんです。おれが辞めます。だから」
分厚い手が肩に乗り、労るようにそっと叩いた。普段使いの優しいフォルムの食器などを作り出す繊細な仕事をする指は太く、何も訊かずにただ「分かっている」と実にその先を言わせなかった。
「今はそんな気分になれなくても、また作りたくなったらいつでもおいで。会わなくて済む時間か、わしが居る時に来ればいい」
止まっていた涙が、また溢れだしてきた。
炎を扱う作業場では火傷などの怪我は切っても切れない関係にある。そのため、腕の良い皮膚科医とも懇意にしているという神楽の勧めに従い、時間外ながらも実は診療してもらうことが出来た。
流石に今回のような部位は初めてだと驚かれたが、深くは追求されず、十分に冷やしてから行ったこともあり、割とあっさりとした治療で終わった。
元通りに綺麗に治るかどうかはともかく、清潔にしていればやがて薄く見えなくなるものらしい。昔の奴隷などにしていた焼き印とは環境も異なるのである。
入れ墨のようにずっと残るのではとハラハラしながら医院に向かった実は、説明を聞いて肩の力が抜けたのだった。
新汰の意図は、はっきりとは解らない。だが、自分以外との親密な関係を阻止するためと、これは自分のものであると誇示するための行為であったのは解る。でなければ、わざわざこんな場所には押さないだろう。
そして、もしもあのタイミングで神楽が入ってこなければ。
家路に着きながらのタクシー内で、実は自分の肩を抱き締めるように胸の前で腕を交差させた。
記念撮影、と言っていた。
カメラであの写真を撮り、それをどうするつもりだったのかと悪寒が止まらない。
仮にも何年も愛していた人だ。そんな卑劣な人間だとは思いたくない。
けれど、と思う。
自分一人の観賞用だとしても、局部の傍だ。そんな物を端末で持ち歩かれるだけでも十分精神的に苦痛を与えられる。そしてそのデータを職場などに送ると脅されれば。
実のような事務員は、いくらでも替えが利く。まして、そのような醜態を晒されて、クビにされなかったとしても身の置きどころがない。結局は自分から退職願を提出する羽目になるだろう。
どちらにせよ、職を失うかもしれなかったのだ。
家に着き、二階の自室にこもる。夕食はとっておいてと声を掛けたから、後でまた降りねばならない。
本当は食欲などなかった。だが、食べなければまた親に心配を掛ける。
もしもあのまま新汰の筋書き通りに進んでいたらと、それを考えずにはいられなくて、ある程度思考がまとまるまでは何も喉を通りそうになかった。
脅されて、関係を続けるように強要されるならば。
目を閉じて、随分痛みの引いた傷跡を意識しながらも、浮かぶのは昨夜と今朝の哲朗の柔らかな笑顔だった。
もう失いたくない。新汰の言いなりにガラスを続けたとして、手伝いならばともかく作品として納得のいく物が出来るはずはない。
確かに、哲朗が結婚すると聞いてこの世の終わりのようにショックで、その時入れ替わるように現れた新汰の勧めるまま指し示すままに物づくりの世界に足を踏み入れた。
それは確かに実を救い、生きる糧となった。だから今でも、新汰のことは嫌いではないしましてや憎めないし、感謝している。
しかし、ここからの人生もそのままでいいのだろうか。
まめに会えても、コンビという名目以上の関係になれない他人。妻という隠れ蓑の陰で続けられる肉体関係のあとに訪れるのは、充足ではない空虚。
確かに、男同士だから、戸籍上の他人でしか居られない。それは哲朗とも同じだ。だが、絶対的に違うと言えるのは、哲朗ならば実だけを唯一として愛してくれるということだ。
そこまで考え、待てよと思う。
哲朗の家族はどうだろう。再婚話を持ち出されると、今度も断れないのではないのか。
流石にそこまでは聞いていないから、両思いになってふわふわした気持ちのままに帰ってきてしまった。
果たしてこれで良かったのかと、気付いてしまった。
新汰は、自分を信じろと言う。愛しているのはみのちゃんだけ。幾度も聞いた睦言は空言だ。
哲朗は、まだ何も言わない。同じように好き合っていることだけは確認できたものの、では今後の付き合い方をどうするかなどと無粋な話には持っていかなかった。
十年前のあれは、哲朗が通した筋。
友達ならば、そんな断りなど不要だった。またタイミングが良いときだけ声を掛けて、夜に少し会うだけの関係。それをずっと続けていけば良かったのだ。
新汰が哲朗と同じ立場ならばそうしたろうと思う。別に言う必要がない。訊かれなかった。黙っている理由ならばそれで十分。なぜわざわざ告げる必要があるのか。
けれど、実をただの友人以上に想っていた哲朗は、結婚を別離とした。また、実もそうだとしか考えられなかった。普通の友人ならば、またいつか遊ぼうねと、そう言うところだろうに、もう会えないなとしか考えられなかった。それは誰かの夫である哲朗と、これまでのように話せる自信が皆無だったからに他ならない。
ならば、もしも再婚が決まれば、訪れるのは今度こそ間違いなく完全な別離だろうと思う。
その時までの一時的な恋人でいればいいのだろうか。
自分は、それで耐えられるのだろうか。
心配性だと非難されてもいい。恋人になったその次の瞬間に別れの心配ばかりするのは早計に過ぎると嘲笑されても仕方ない。
ずっと、ただ一人として大事に想われた経験のない実は、愛されている自信を持ったことなどなかった。
与えられたことのないものは信じられない。哲朗を信じていたいのに、信じるとはどういうことなのかと考えてしまう。
ぐるぐる同じところに辿り着く思考に見切りをつけたときには、日付が変わろうとしていた。
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