8 / 11
第8話
ほんの少し寝不足なことを除けば、日々は安穏に過ぎていく。
職場ではバレンタインの義理チョコが配られ、生徒たちは朝からずっとそわそわ浮かれている。
元々校則の緩い学校ではあったが、この日は特に大人も目こぼしして、綺麗にラッピングされた箱や袋が行き交うのを微笑ましく横目に眺めていた。
とはいえ、女子の方が圧倒的に少ないという特徴のある学校だから、多くの男子生徒にとってはまるで関係ないものであったり、劣等感を煽られるだけのイベントであったりする。
実も高校時代は義理チョコにしか縁がなかったけれど、それもここではもらえない人が多いのは気の毒だなあと感じていた。
新汰はあちこちからいつもかなりのチョコレートをもらっていた。返すのが大変だと笑いながら披露して、作家仲間に小突かれていたのを思い出す。
義理と解っていても、実は切なく見守っていた。自分もそれに参加すればきっと喜ぶと解っていても、なんだか悔しい気がして。
皆の前で堂々と渡しても、きっと誰も深く考えず、ノリでイベント事を楽しんでいるのだと取られて終わるだろう。
でも、二人だけのときに渡したとしても、新汰はそう取るのではないか。それならば意味のないことをしても仕方がないし、男一人でバレンタインコーナーに行くのは顔から火が出そうなくらい恥ずかしい。
ふと、哲朗はどうなのだろうと思った。
きっと喜んでくれるだろう。
驚いて、それからおずおずと受け取って、きっとあのふんわり優しい笑みを浮かべて耳だけ赤くするに違いない。
想像の中の哲朗はいつだって実のことだけを真摯に見つめてくれる。
それはもしかしたら、実の勝手な思い込みなのかもしれない。
新汰は知り合いも多くて、いつも沢山の人に囲まれていて、二人になってもいつも話題豊富な新汰が喋り、実は殆ど聞き役に徹していた。
元々お喋りな方ではなかったから、それで良かった。肝心なこと以外とはいえ、いつでも話題を提供してくれた。
お茶の時間に、実習で関わりのあった女子たちが焼いてくれたチョコチップ入りのクッキーを摘みながら、思考は続く。
家庭内のことまでかなり踏み込んで知らされていたのに、肝心なことだけは深く関わらせてくれなかった。
自発的に実から好きと言ったこともない。体を繋げて、何度も何度も強請られて、言わされている感じに口にしたことならある。
ずっと心の奥で暖めていた想いを、そんな風に「言わされる」ことに苦痛がないわけではなかったが、改めてそうして声に出すことによって気持ちを高めていたような気もする。
言い換えるなら、それも思い込みに近かったのかもしれない。
確かに、恋愛は一人では成り立たない。片想いから告白して、両想いに至る。それがどれほど奇跡的なことなのか、理解しているつもりだ。
だから余計に疑念が尽きなかった。
何故、新汰が実を愛していると言うのか。
同じような考え方の女性を選んでいたならば、今のような夫婦関係にはならなかったのではないか。若かったから、今となってはそれも人生勉強と割り切って、それでも娘のことも妻のことも一生面倒をみるつもりで、離婚できずにいるのか。
覚悟なら、哲朗にもあったはずだ。
哲朗の場合は、あちらが離脱してしまった。それでも、哲朗の方は迎えに行ったのだ。
十年前既に実に抱いていた気持ちは押し殺し、哲朗なりに大事にしてきたのだろう。結果として、それは実を結ばず、破綻してしまった。それでも、夫婦である間は一切実とも連絡を取らず、脇目もふらず夫として務めた。
誠意の示し方として、どちらが正解かなどと、そんなことは実には判断出来ない。
だが、つまみ食いのように、保険のようにもう一人を自分の居場所として確保したままに他の居場所を求める新汰のやり口が、ずっと嫌だった。
それを解ろうという姿勢すら見せず、どうしてと問い返されても、こちらこそがどうしてと言葉に詰まり、それ以上は望めないのだと知らしめられたのだ。
はっと気付くと湯呑みも冷めきっていて、手に持っていたクッキーを急いで頬張ってから、お茶と一緒に飲み干した。
メールでの確認の後、電話で二十分ほど会話する。何となく夜の日課になりつつあった。但し、やはり毎晩とは行かず、それでも昔より頻度が増しているというのに心がざわつくのは何故なんだろうと思う。
滅多に連絡が取れなかった頃、気付けば一ヶ月以上音沙汰なしの時もあった。そんなときは事故にでも遭っていないかと毎朝新聞の隅から隅までチェックしたものだ。今でもそれは変わらない。事務員の自分よりも格段に危険度の高い職業だから、新汰には感じたことのない不安ばかりが付きまとう。
片想いでも苦しい。両想いになってもまた苦しい。
いつも何処か満たされないままで、会って傍にいるほんのひとときしか充足感がない。
それを補うかのように、仕事に没頭して誤魔化すのが大人で、それしかなくて。仕事ならば一つ一つに何かしらキリがあるから達成感が得られる。それで世の中の人たちは釣り合いを取っているのだろうか。
会えない夜を潰すため、実は自宅の作業場で小物を作り始めた。
今までに作ったものや工房に打ち捨てられていた切片を繋ぎ合わせたステンドグラス。
本来ならばきちんと図案から仕上げていくものを、手すさびにと切り口の合う場所を何となくの形にしてハンダで繋げる簡単なもの。
鏡を真ん中に入れて手鏡状にすることもあった。
感覚だけで適当に作るのが思いの外良い。頭を空っぽにして、切片たちの声を聞くかのように耳を澄ませ神経を手元に集中させる。
そうしていると、いつの間にか形になっている、という感じだった。
自宅にはきちんとした設備がないから、こうして電気を使う切り貼りのようなことしか出来ないが、今はそれで十分だった。
哲朗とはなかなか休日が合わず、少しでも会って話したい気持ちを互いに言い出せないままに声だけの逢瀬が一ヶ月続いたのだった。
片想いから始まったら、想いが通じたら最初のゴール。普通のごく一般的なカップルならば、結婚が次なるゴール。
では同性間ならどうなるのか。
ゴールなど何処にもない。墓にも一緒には入れない。
気持ち一つ、この体一つ。
それだけでただ愛していく。純粋な愛の形。
そこにガラスという要素が加わり、新汰との仲は特殊なものになった。
上手く行っている間は良いが、そこから抜け出すには多大な勇気が必要で。あの後一週間ほど経ってから神楽に連絡を入れると、新汰の方は変わりなく創作を続けているという。実には近寄らないように念を押してくれたらしいが、新汰の動向の制御までは出来ないから、あとは当人同士で話し合えということだった。ただ、あんなことがあった後だから、立ち会いが必要なら声を掛けるようにとも言ってくれた。
今のところ、実からは会う用件もないしそのつもりもない。
なかなか会えない哲朗を想うとき、ふとその隙間に新汰が浮かぶこともある。けれど、もうそうやって比較して寂しさだけで流されるべきではないと解っているから、ただ二人の違いに苦笑するだけで、どちらがいいなどと夢想することもなくなった。
詮無いことだ。
卒業式も無事に終わり、ほっと一息ついた頃、もらいものだという桜の枝を抱えて実の弟が家に寄って行った。
同じ県内で社員寮に入っている弟の繁は、家族の中で一人だけ飛び抜けて背が高い。顔の造りは父親とよく似ているから誰も親子関係を疑ったことなどないけれど、どうして一人だけと実は恨めしく思ったものだ。
純和風の吉岡家では、注意していないとすぐに鴨居でおでこをぶつけるし階段も勾配が急で幅が狭いから暮らしにくそうだ。だからさっさと家を出たのかもしれない。
金曜の夜の訪問ということで、実たち三人は居間でテレビを囲んでくつろいでいるところだった。
そろそろ作業場に行こうかと思ったときにやってきて、蕾の堅いその束を長テーブルに置き、辺の長い父親のところには行かずに実の隣に腰を下ろした。はっきり言って狭い。
「しげちゃん、またいつものごとくだけど突然だなあ」
「しょうがないっしょ。職場の人が、自宅の奴剪定したからってくれたのはいいけどさ、んなの俺の部屋に飾るにしても花瓶も場所もねえし」
ワンルームにそんなものがある方が珍しいだろう。
実に唇を尖らせ、今し方通ってきた玄関から続くホールの方を気に掛ける仕草をしている。
晩ご飯はと訊きながら腰を上げる母親には、食ってきたと答え、それならと枝を生けるために束を抱えて部屋を出るのを見送ってから、もう一度今度は室内を見回している。
「なんかさ……」
首を傾げる繁の意識は実に向いているようで、父親はもうテレビに視線を遣ってしまっている。
「兄貴のもの、減った? ああ、減ったというか、つまり売れた物の補充作ってないとか、そんな感じ」
昔ながらの家屋だけに、石の三和土から内玄関がホールのように広くなっていて、在庫のガラス作品などは殆ど全てそこに棚を置いて飾っていた。
頻繁に帰ってくる繁ではなかったが、それでもそれなりに意識していたのだろう。陳列していたものが減ったまま新しい物がないのを不審に感じたらしい。
会話が耳に届いていたのか、父親もちらりと実を一瞥した。
「うん……ガラス、今工房には行ってなくて。もしかしたら、もう辞めるかも」
はは、と乾いた笑いを漏らし視線を机上に落とすのを、繁は眉を顰めて見ている。
「なんで。正月に会ったときには、次はこんなの作ろうかと思ってるって、デザイン画も描いてたじゃん。何かあったの」
「まあ、ちょっと。けど何も作ってないわけじゃないよ。売り物に出来るようなものはないけどな。丁度忙しい時期だし、足が遠のいてるというか」
「そういう芸術系のセンス、俺はからっきしだからわかんねえけどさあ……なんかでも、兄貴がずっと楽しいだけじゃないのは気付いてたよ。だから、辞めたって誰も責めたりとかはしないし。なっ、親父」
同じく、寝ているか山に登っているかという落差の激しい父親に同意を求めると、うんうんと小さく頷いた。
母親はしきりと褒めてくれるものの、男二人は殆ど無関心だと思っていただけに、実は驚いてしまった。
各々好みが分かれているし、趣味で何をしようと迷惑なものでなければ寛容な、ただそれだけのことだと思っていたのだが、それを楽しんでいるかどうかまで気付かれていたとは。
正確には、ガラスそのものよりも新汰のことで複雑な心境が表情や態度に現れていたのだろう。普段離れて暮らしている弟にすら察知されるとは情けない思いがした。
礼を言って、この機会にとちょっと訊いてみようと思い立つ。
「あのな、久しぶりに会った友達がさ、農園一緒にやらないかって。仕事としての本格的なものじゃなくていいから、体験的な感じで。四月以降じゃないと無理だけど、やりたいなって思ってるんだ。どうかな」
ん、と父親は頷き、いいんじゃないのと繁は首を傾げた。
「てかさ、別に誰の許可も要らないだろ。確かに家族だけど、そんなの干渉するようなもんじゃないし」
そういう繁は長年弓道を続けていて、国体にも出場経験のある選手だ。それでも、確かに家族で応援はしていても、詳しく関わろうとは思っていない。テレビに出ていたら見ようかな、そんな程度だ。
「えと、じゃ、もしも、もしもだよ。おれが事務員辞めて農園で作業するからもっと田舎に住むっていったらどうすんの」
流石にそれは反対されるだろうと、はなから駄目と心得て口にすると、繁はきょとんと目を丸くした。
「やりたいの、兄貴」
「たとえばの話。そりゃ、多少は興味あるけどさ」
「じゃ、本気でやりたくなったらそっちに住めばいいんじゃね」
そんな無責任なと呆気にとられていると、こほんと父親がしわぶきした。
実とほぼ同じ体格の、実より厳めしい顔つきの父親が、酷く真面目くさった顔で見詰めていた。
居住まいを正す実に、ひょいと片眉を上げ、実、と改めて名を呼んだ。
「あのな、お前は昔から堅苦しく考える方だと思っていたが、もしかしてずっと前に母さんが言ったことを真に受けとんじゃなかろうな」
「え、だって」
「あのな、確かに見合い見合いと母さんが騒いでいた時期もあったがな。わしらは子供におんぶされて、子供の自由を奪っての老後なんて望んでないんだぞ。
あの時は、おまえの意志を無視してあちらさんが勝手に二世帯住宅建てたり転職しろだの言ったりするから大喧嘩したけどな、その喧嘩だっておまえを守るためで、別に結婚してここで同居しろとか、ずっとここにいてわし等の面倒見ろとか、そんなんじゃないんだ。おまえの人生だ。好きなことをしろ」
目を白黒させている内に、桜を玄関に飾り終えた母親が、皆の茶を淹れて戻ってきた。
「え、もしかして実ったら、あたしたちのために此処にいるつもりだったの。
いやだやめてよ、そんな恩着せがましいことされたくないわよ。資金の目途さえつくんなら、何処でも好きなとこで暮らしなさいよ。あたしが言ったのはね、此処も含めてご先祖様から預かっている代々の地所は減らさないでいて欲しいってこと。
相続した途端に売っぱらったりしないで、それもまあ借金してまで維持しろとは言わないけどね。どうにか残して欲しいってことなのよ」
三人の視線が痛い。呆れたような生温い視線が「ああやっぱり実はこれだから」と語っていて、全て自分が脳内で勝手に解釈して自分を縛りつけていただけなんだと知らされて、地の底までのめり込みたいほどに恥ずかしかった。
その後は繁の近況などで話に花が咲き、正月にも出ていた結婚のあれこれなど、どうやらめでたい方向に進みそうな雰囲気だ。翌日は入試関連で休日出勤が決まっている実は、大体のところを聞き終えると一人先に入浴して床に就いた。
どうしよう。今、凄くわったんに会いたい……。
枕元に置いた携帯電話をぱくんと開き、どきどきと高まる心臓の音を自覚しながら、ナンバーを表示させては消すのを繰り返した。
三月中から新年度頭に掛けて、学校の裏方である事務は目の回るような忙しさだ。
今日は早めに上がれたと言っても勿論定時より二時間オーバーしていたが、それよりもっと遅くなる日が続く。
一般入試の前夜は泊まり込みする職員もいるし、入試が終わってからが最も繁忙する時期だ。出来れば、その前に一度、一目でも会いたいと思った。
確か今は北陸の方に行っているはずで、今夜も車中泊かもしれない。あまり遠方の場合はもう一人と交代で運転するというから、今の時点でメールがないということは、そのケースなのかも。
考えても答えが出なくて、こんなところが悪いくせなんだなと失笑した。
メールならいいかな。でも寝ていたら振動で目が覚めるかもしれないし、迷惑になる。 それに、もしも会いたいなんて送っても、どっちみちすぐには会えないんだから、そんなことで仕事中に気を散らせて運転に支障が出たら困る。
事故に遭う原因を作ってしまったら、悔やんでも悔やみきれない。
それだけは絶対に嫌だと、そのまま端末を枕の下に押し込んで、実は目を閉じたのだった。
ともだちにシェアしよう!